プロローグ(Side A)
※2022/05/06 誤字脱字、表現と言い回し等を修正致しました。
俺が勤務していた会社が倒産した。理由は簡単。不景気だからだ。今の日本は弱肉強食の世界。明らかな異端児である俺を雇ってくれる会社など、この世界にはなかった。
俺には頼れる友人も親戚もいない。俺はいつだって一人だった。それならいっそのこと、俺自身がこの社会から退場するのが、最も価値のある行動になりそうだと思った。だからこそ、俺は自ら死ぬことを考えたのだ。
――奴と出会ったのは、まさに自分が崖から飛び降りようとしていた時だった。
風が頬に強く突き刺さり、ナイフのような鋭さを感じる。全身が冷え込むような寒さだ。自分が今まさに死ぬ瞬間だと実感した。
「そちらで何をなさっているんですか?」
ふと声が投げかけられ、一瞬体を震わせてしまう。何事かと声のした方に顔を向けると、そこには一人の男――奴がいた。
社畜を象徴するようなスーツを着込んだ俺と異なり、奴はタキシードを着込み、シルクハットを被っていた。そしてご丁寧に右目にモノクルまでつけている。まるでおとぎ話から飛び出してきたようなその姿を見ると、俺自身も本の世界に迷い込んだような錯覚に陥る。
「初めまして。私は不二崎羅無多と申します。以後お見知りおきをお願い申し上げます」
述べるなり、不二崎羅無多という男は頭に被った黒い帽子を押さえつつ、仰々しく一礼して見せた。帽子の影になっているため、はっきりとは分からないが、見える限りでは、唇の血色は悪く、肌はどことなく青白い。浮世離れしたその恰好も合わさり、奴の姿は死人そのもののようにも思えた。
不気味だ。人が寄り付かないようなこの場所で、何故この男はこんな奇天烈な恰好をしているのか。得体の知れない男は、クルクルと手に持った黒いステッキを回す。その姿はさながら手品師のようだ。ステッキから、華の一つくらい出してくるかもしれない。
「お前……一体何の用があって、こんなところまで来た? ここは、お前のような『手品師』が来るようなところじゃねえよ」
俺が双眸で睨みつけるなり、羅無多はケラケラと笑い始めた。
「つれないですね。折角初対面の男性同士がこうして出会えたのですから、その言い方は感心しませんよ。社会勉強を一から始められてはいかがですか?」
「余計なお世話だ。生憎近々死後の世界に旅立つんでな」
「おやおや……。今からくたばる予定でしたか。これは失礼しました。どうぞお飛びください」
奴はさあどうぞ、と言わんばかりに自身の右手で、俺の目の前にある崖を指し示す。少し覗き込めば、崖の遥か下の海岸で、波が激しくうねっていることがうかがえる。足もすくむような高さだ。即死は免れないだろう。
「まるで道化師のような振る舞いだな」
とぼけた言動や挙動、人を食ったような発言を踏まえると、この表現がしっくりくるだろう。小説の世界から飛び出してきたかのような、その中世的な雰囲気も、目の前の男が道化師であることを暗示しているかのようだった。
「よく言われます。と言っても、道化師は道化師らしいことをするだけですけどね」
そう言って、羅無多は肩をすくめてみせた。芝居がかかったその振る舞いは、どことなく大道芸人を彷彿とさせる。
「道化師らしいことをする、とはどう言うことだ?」
「物語の進行役ということですよ」
肩をすくめながら、やれやれと言った風に顔を左右に振ってみせる。
「物語の進行役? ますます意味が分からない。詳しく説明しろ」
正直、羅無多の馬鹿にしたような物言いにムッとしなかったと言えば嘘になる。しかしそれよりも、奴が言った含みのある文言が気になった。
「実は私、この度とある人物を探している最中です。貴方、この方に見覚えはございませんか?」
そう述べるなり、奴はタキシードの内ポケットから、一枚の写真を取り出した。写真には二人の女性が写っている。……いや、一人はもしかしたら男かもしれない。顔は確かに女性のようであるが、体つきは男のようだ。いわゆる中性的な顔立ちと言うものだろう。
「写真の右側に写っているこの人は、深津場美海と言う方です。見た目も名前も女性のようですが、不死の奇術師の異名を持つ列記とした男性です」
「それで? この男が何だって?」
「実は数週間前から行方不明なんです。テレビ局の人達も、今血眼になって探しているようです。なにしろ彼は、かなりの有名人ですからね」
よく見たら、どこかで見たことがあるような顔な気がする。恐らく、テレビか何かで見たのだろう。普段テレビを見ない俺も知っているということは、そこそこの有名人のようだ。
「時に――」
じろりと俺を覗き込む道化師。先ほどまでのふざけた雰囲気と異なり、その顔は真剣そのものだ。奴から醸し出される雰囲気に気おされ、一瞬だけだがたじろいだ。
「貴方にも彼を探す手伝いをしていただきたいのです。実は私、彼を探したいと考えておりましてね。可能であれば、貴方の限られたお時間を頂戴したいと考えております」
いかがですか、とタキシードの男は不敵な笑みを浮かべながら手を広げてみせる。
なんだこいつ。さっきは崖から飛び降りろと言っておきながら、いきなり話を変えてきた。
行動に規則性が見えず、数秒前に感じた奴の不気味な雰囲気を思い出す。こいつは何者なのかと言う疑問が再び沸き起こる。探偵か警察かなのか……それとも実はヤバい組織の人間なのか。
「今から死ぬ予定の人間に言うセリフではないな」
まるで祝詞を述べるかのように、スラスラと台詞が湧き出てくるのは、こいつの能力なのかなんなのか。
「今から死ぬ予定なのであれば、その命、死ぬ前に人助けのために使ってみてはくださいませんか? 貴方の行動によって救われる人間がいるかもしれません。これも何かのご縁かと思いますので、どうかお願いします」
俺の戯言に構わず、奴は呪文を吐き散らす。
「報酬は貰えるのか?」
俺は少しつついてみることにした。本気で言っているのか、冗談で言っているのか、正直羅無多の発言からはうかがい知ることはできないからだ。この発言を聞いて、奴がどういった回答をするのか興味が出た。
「ええ勿論。百万円程でしょうか。彼を見つけ、彼が今直面しているであろう問題を、無事に解決することができれば、そのくらいの報酬はお約束できます」
意外にもちゃんとした回答が返ってきた。この男の依頼者が報奨金を支払ってくれるのだろうか。いずれにしても、先ほどのおどけた雰囲気は完全に消え失せている。モノクルの向こう側に見える眼光が、紛れもない真実を語っているように見えた。
「……その話、乗るよ。ただ一つだけ、忠告しておく。少しでもお前が、おかしなことをしていると感じたら、俺はお前を殺すからな?」
どうせ死のうとしていた命だ。仮にトラブルがあったとしても、自分の死が長引くだけだ。大きな問題はない。
「私を殺すのですか? 面白いですね。ぜひ殺してみてください。殺すことができればの話ですけどね」
挑発したつもりだったが、羅無多は逆に煽り返してきた。先ほどまでの真面目な雰囲気は消失し、とぼけた表情をしていた。そしてその顔のまま、俺の方に右手を差し出してくる。
全くこいつは何なんだろうなと思いながら、俺は奴の右手を握り返した。
――この出来事によって、深津場美海失踪事件が大きく動き出すことなど、露知らずに。




