7
冷房のない部室は蒸し風呂のように暑い。
放課後の部室で俺たち星空観察部は地獄を味わっていた。
「あ、あちぃ~……」
溶けるかのように、俺はぐでーと机に項垂れる。
感覚が麻痺してるのか、机がやけに冷たく感じた。
――ミーンミーンミ~~ン……ミーンミーンミ~~ン…………ミーンミーン
「セミうるせぇ!」
巣が近くにあるのか? 鳴き声のせいで余計に暑く感じる。
「まあそう苛立つな色。怒ったって暑さは和らげないぞ」
「陽太の言う通りです。むしろ兄さんの怒気で室温が上がってしまいますよ」
「君たちは小っこい扇風機があって涼しそうですね!」
そう。現状で暑さに悶え苦しんでいるのは実は俺一人で。
天と陽太は鞄に潜ませていた小っこい扇風機に吹かれて涼んでいる。
なんだあの小っこい扇風機。天が「これ今すごい流行してるんですよ」とか言って夏前に買ってたときはふーんって思ってたけど、こうして見ると、もの凄く有能じゃないか。ほんと一家に最低でも十台はほしいレベル。間違いなく超過需要だけど。
「昨日部室に来た時点で冷房がないことは把握してただろ。どうしてなんの対策もしてこなかったんだ」
「昨日は部屋の扇風機だけで充分だったから今日も大丈夫だと思ったんだよ。誰も昼から気温が急上昇するだなんて予測できないだろ」
「あれ? 兄さんは昨日の天気予報を確認していないんですか? 明日は某所で最高気温更新が予測されますってどこの天気予報士も言っていましたよ」
「くっそ、俺の確認不足じゃないか……」
メディアに疎い体質がこんなところで仇になるとは……。
俺が暑さに苦しもうが、天と陽太が小っこい扇風機で涼もうが、時間は誰しもに平等に流れていく。
…………
……………………
………………………………
そして三十分が経過した。
本日の来訪者――未だ〇人。
「なあ天。やっぱりなにかしらのアクションを起こした方がいいんじゃないのか」
ぱちんとオセロの駒を黒色に裏返しながら、陽太は向かいの天に問いかけた。
「うーん。でも具体的になにをするんですか?」
ぱちんとオセロの駒を白色に裏返しながら、天は質問に質問を返す。
「そうだな……積極的に勧誘しに行くとかか」
「もう少しで七月中旬ですよ? 未だに部活が決まってない人なんてそうそういないでしょう」
「でもだからって、受動的な行動をとり続けるのもどうなんだ。ポスターを貼ったって言っても、それを全員が認識してるわけじゃないだろ」
「確かにそうですけど、他に情報を拡散する方法もありませんし……」
「……」
俺を外野にして二人の討論がどんどん熱を増していく。
それにしてもこの部って『星海色のコミュニティの拡大』を目的に設立されたんだよな? なんでメインの俺が外野にいるんだ? むしろコミュニティが狭まってるように感じて寂しいんですが?
加えて言うなら、二人がぱちぱちと打っているオセロ。
あれはもしも誰も部室に訪れなかったらの場合を予測して、俺が自室から持ってきたものだ。
そう。あれは俺の所有物。
なのに――俺が二人に連敗したからって二人が独占するのは酷いだろ……。
二人しかできないゲームだと余る人が可哀想だから、明日は三人以上でも遊べるボードゲームを持ってこよう。
……あれ? いつからこの部はボードゲーム部になったんだ?
「――た、助けて色兄!」
勢いよく部室のドアが開くと同時にそんな声が聞こえた。
俺のことを〝色兄〟なんて呼称で呼ぶ奴は、校内に一人しかいない。
光ヶ丘撫子は俺の姿を確認するや否、俺に詰め寄って手をパンと合わせた。
「お願い! 私をかくまって!」
「また補習から抜け出してきたのか?」
「違う違う。今日の敵は風紀委員だよ」
「風紀委員……」
いかにも頭のお硬い面子で構成されてそうな委員会だな。
委員長クラスになると『風紀の乱れは学校の乱れ。正義の名の下に粛正する』とか言って、トンファーで襲いかかってきそうだ。
「この子って昨日部室に飛び込んで来た子だよな? いつの間に仲良くなったんだ?」
俺の耳元に手を添えて、小声で尋ねてくる陽太。
まあ当然の疑問だよな。撫子とは昨日まで無縁だったわけだし。
「今朝色々あって仲良くなったんだ。撫子とは『双子の長同盟』を結んでるんだぜ」
冗談めかしていうと、二人は衝撃が走ったかのように大きく目を見開いた。
「なっ……おい聞いたか天? 今あの色が……」
「はい。『仲良くなった』って口走りましたね」
二人は顔を見合わせて頷き合うと撫子を向いた。
「色は平凡で影の薄い奴だ。でも薄情な奴じゃない。友達のためならどんな無茶だってする優しい奴だ。だからさ……どうかこれからも仲良くしてやってくれ」
「えっと……あ、はい」
「光ヶ丘さん。兄さんは基本、暗くてぼっちですが、会話してみると案外面白い人物なんです。高校に入ってからというもの、私と陽太以外に友達がいなかった兄ですが、どうか仲良くしてあげてください」
「う、うん……えっと、二人は色兄の保護者なのかな?」
撫子が困惑しながら問うと、天は清々しいほどの笑顔を浮かべながら俺を向いた。
「色兄……は、ははは。よかったですね兄さん。二人目の妹ができて」
「撫子が勝手に色兄って呼んでるだけなんだけどな。あと天はなんで怒ってんの?」
「怒ってる? 私が? いえいえ、微塵も少しもこれっぽちも怒っていませんよ」
「やっぱ怒ってんじゃん……」
恐らくは『妹』という特権の唯一性が撫子の介入によって損なわれたとでも思っているのだろう。
さすがは天性のシスコン。妹属性に対する熱意がすごい。そろそろ卒業してくれ。
――タン。タン。タン。
優雅で落ち着いた足取り。その音は階段の方から聞こえてきた。
「どうしようっ⁉ 来ちゃったよ風紀委員!」
「ああ。そういえばかくまってほしいみたいなこと言ってましたね」
「それが目的でここにきたんだけどねっ⁉ 天ちゃん、どこか姿を隠せそうな場所はないかな?」
焦りを表現するかのようにタッタッと足踏みをしながら撫子は問う。
「そうですね……あの掃除ロッカーくらいしかな」
「おっけー! 少しの間、ドロンさせてもらうね!」
「は、はい。……でも――他に隠れられそうな場所がないのですぐにバレますよ?」
最後の天の忠告は十中八九、撫子の耳には届いていないと思う。
撫子は掃除ロッカーになにもないことを確認すると、満悦した様子で姿を忍ばせた。
……掃除道具があったらどうするつもりだったんだろうな。
そんな風に呆気にとられていると――
「すみません。この部屋にツインテールの女子生徒がやってきませんでしたか?」
ひどく冷然とした声音だった。
髪は短くショートカットで、前髪には単色のカチューシャ。
やや釣り上がった瞳の放つ眼光は鋭く、彼女の凜とした人格を思わせる。
――ザ・風紀委員。
イメージのまんまの風紀委員が、機嫌悪そうに部室の入り口に立っていた。
トンファーとか竹刀とかすごい似合いそうな子だな。
「いいえ。来ていませんけど」
そんな圧の籠もった声音に憶することなく、天はフラットに嘘を吐く。
ちなみに兄である俺はどうかというと、彼女の纏う猛者のオーラに圧倒されて完全にたじろいでいた。妹だけど天の方が遥かに肝っ玉が据わってるんだよな。
「あれ? 他に隠れられそうな場所なんて、一棟の三階にはないんだけどなあ……」
という声と共に、扉の向こうに隠れていたであろう、もう一人の女子生徒がひょこりと顔を出した。
長い髪を一つに結わえたポニーテール。
恐らくは戦慄さん(俺が即興でつけたショートの子のあだ名)と同じ風紀委員に所属してるんだろうけど、こちらのポニーちゃん(これも俺が即興でつけたポニーテールの子のあだ名)からはまるで圧を感じない。
戦慄さんが凍てつくような空気を纏っているのに対して、ポニーちゃんはふわふわとした柔らかい空気を纏っていた。
見事なほどの飴と鞭だな。これでポニーちゃんの本性がドSだったら俺は間違いなく人間不信になるだろう。戦慄さんが実はドMだったって場合でも同様だ。
……うん。見事なまでの偏見だな。人を見た目で判断するのはよくないです。
「隣の地学実験室を確認してきたけど、なでこちゃんいなかったよ」
「そうですか……無駄足を運ばせてしまい申しわけありませんでした」
「うーん。先輩だからって、そんなに畏まらなくてもいいんだけどなあ」
拗ねたように口を尖らせながら、そんな不満をもらすポニーちゃんは、とても戦慄さんの先輩には見えなかった。
……って先輩? ということは……戦慄さんって同級生なのか?
制服が冬服だったのならネクタイの色で判別できたんだけど、夏服だと基本誰もネクタイをつけないから、その判別方法をとることはできない。
そんな風にまじまじと見つめていたからだろうか。
戦慄さんは不審な行動をする俺をギロリと睨めつけてきた。
「……なんですか?」
(翻訳)なにじろじろ見てるんですか? 死にたいんですか?
「……なんでもないです」
こ、こええぇぇ――っ! なにこの子、悪魔と契約でもしてんの?
危うくBADエンドになってしまうところだったけど、間一髪奇跡に救われてなんとか生存ルートに突入することに成功した。ナイス俺の勘っ!
そう思ってたんだけど……。
「なんでもなくはないでしょう? 正直に言いなさい」
「……戦慄さんが本当に俺と同じ学年なのかと疑っていました」
あっさりと本音を吐かさせれた。あの黄金色の瞳は騙せそうにないな。
「戦慄さん? まあ呼称なんてどうでもいいですけれど。……で、君はそれで私を舐め回すように見ていたわけですね」
「言い方に悪意しか感じないんだけど……」
「けれど事実でしょう? あなたは私をじっと見つめていた。なら、その行動をどう解釈し、どう表現しようが私の勝手です。そこに語弊や誇張があったとしても」
「語弊や誇張があるって理解してるじゃないか……」
と、いちいち俺がツッコミを入れていると、戦慄さんは腕を組んで目を細めた。
「なかなかに饒舌ですね。多少鬱陶しくはありましたが、私に楯突いた勇気に免じて先ほどのことは許してあげましょう」
「おお、ありがとな。で、なんでそんな上から目線なの?」
そんな俺の問いに返事をすることはなく、戦慄さんは再び天を向いた。
「話を戻しますが――この教室に撫子はいない。それで間違いありませんね?」
「はい。間違いありませんよ」
天が芯の通った声で返事をすると、続けて視線は陽太に向く。
「本当ですか?」
「ああ、ほんとだ。天の言ったことに間違いはないよ」
双方に確認を取ると、戦慄さんは浅く息をもらした。
「そうですか……お騒がせしてすいませんでした」
「いやいや光ヶ丘さんが謝ることはないだろ。騒いでたのは色だからな」
と、いつものように陽太がニヤつきながら言うけど。
……今、陽太は戦慄さんのことを『光ヶ丘』さんって呼んだよな?
二年生。光ヶ丘。そして――『撫子』という敬称の外れた呼び方。
もしかして戦慄さんって……。
「――どうした色?」
「ん。……あ、悪い悪い。ちょっと考え事してた」
「……月乃のことか?」
「なぜにこのタイミングで……」
そういえば蒼崎さんを部員にするって話はどこにいったんだろう。
まだ少しも蒼崎さんにアプローチしてないけど……これも天の計画通りなのか。
……まあ部の主軸は天だから、俺は流されるままに行動していればいいか。
「じゃあ大和。他の場所を探しにいこっか」
「はい。姉が手間を掛けてしまい申し訳ありません」
あ、やっぱり戦慄さんは撫子の姉なんだな。……え、撫子が姉なの?
「それでは失礼します」
「じゃあね~」
そして二人は穏やかな足取りで去って行った。
――タッタッタッ……タッ――……。
足音が完全に聞こえなくなったところで、
「撫子。もう大丈夫だぞ」
「――はあ……暑くて熱中症になるところだったよ~」
ただでさえ扇風機しかない暑い部室。
より狭い密室となれば、湿度も温度も上がり、もわもわとした空気が籠もっていたに違いない。まあ、空気以外にも埃とかクモの巣とかありそうだけど。
掃除ロッカーから姿を見せた撫子は、全身からだらだらと汗水を流していた。
頬は湯上がりのように火照り、白い二の腕が湿った制服の生地越しに見える。
「汗だくだな。大丈夫か?」
なんて言いながら、陽太は自然な流れで撫子にお茶の入ったペットを手渡した。
……え、そのペットどこから出したの? 四次元ポケット?
「え……いいの?」
「ああ。それは色が万一の場合を想定して部活前に自販機で買ったやつだからな。未開封だから安心して飲んでくれ」
「そっか……ありがとね太陽くん」
「残念。太陽じゃなくて陽太なんだよな」
名前を間違えられてもちゃらけた様子で流す陽太。
なんだこのイケメン。非の打ち所がなさすぎて逆に怖いぞ。
撫子はペットのキャップを開けると、ゴクゴクとバキュームのようにお茶を吸い込んでいき、あっという間にペットは空になった。
「ぷっは~! 釜茹で後のお茶は格別だねっ! さすが天下の鞘鷹だよ!」
「お、撫子は鞘鷹派なのか?」
「うん。私はこの地に生まれ落ちたその瞬間から鞘鷹派だよ。……地上で天命を授かりしその瞬間。出会ったのは鞘鷹でした」
「お前の母さんは鞘鷹なのかよ……」
「まあ、母親と言っても過言ではないのかも知れないね!」
「肯定したっ⁉」
「ふっふっふ……私の体内に貯蔵された七〇パーセントの水分の内、六九パーセントは鞘鷹なんだ」
「もはや鞘鷹人間じゃないか……」
「ほんとに仲がいいんだな」
まるで卓球でもするかのように、言葉という球を高速でラリーさせる俺と撫子の姿に、陽太は瞠目していた。
まあ、俺が天と陽太以外の相手とこんなにも饒舌に話すことなんて滅多にないからな。
それにしても、やっぱ撫子と会話するのは楽しいなあ。
境遇が同じだからか、性格が近しいからか、理由は定かではないけど、撫子とはすごく話しやすい。相性診断で測定でもしたら、百パーセントを叩きだせるんじゃないかと思ってしまうレベルだ。
……いや待て俺。鞘鷹なんかより今は戦慄さんのことを聞くべきなんじゃないのか。
「……あ、あのさ撫子」
「でねでねっ! その時に抽選で五〇〇名にあたるヘッドホンがあたったんだよ! すごい運命だと思わないっ⁉」
「そ、それはすごい偶然だな」
「偶然なんかじゃないよ。きっと神様が私と鞘鷹を――」
戦慄さんの話題に転換しようと試みたんだけど――見事撃沈。
撫子の奴、完全に自分の世界に入っちゃってるな。
こうなったら――興奮が落ち着いた瞬間を狙い撃つしかない――っ!
うんうんはいはい撫子の言葉に頷き相槌を打ちながら、俺は密かにその瞬間を待つ。
「――撫子さん。あなたは戦慄さんのお姉さんなんですか?」
突如耳に届いた疑問を含んだ声音が、俺と撫子の会話を強制シャットダウンさせた。
……ほんと、意思の堅さというか、ブレなさというか、俺みたいに本音を包み隠したりしないで、ありのままにぶつける姿には兄だけど憧れてしまう。
結局のところ、この行動力こそが天のカリスマ性の正体なのだろう。
双子なのに、俺にはなくて天にはあるもの。
「うん。そうだよ」
天の問いに撫子はやんわりと肯定した。のだけど……表情はどこか釈然としない。
笑顔だけど本心からの笑顔ではないような、そんななんとも言えない感じ。
表情が釈然としないのは天も同じだった。
フラットだけど、どこか憐憫を催したような、そんな感じの表情。
「……二人とも、そんな顔してどうしたんだ?」
俺が二人に問うと、天でも撫子でもなく陽太が返事をした。
「どうしたもなにも……色は気づかなかったのか? あの違和感に」
……あの違和感? そんなのあったか?
どういうことかと、恐らくは気づいているであろう天に目配せすると、
「……兄さん。おかしいと思いませんか?」
天は俺に視線を重ねた。瑠璃色の瞳に、俺の意識は瞬く間に吸い寄せられていく。
「戦慄さんの殺伐とした態度……あれが双子の姉に向けるものですか? 愛情。嫌悪。苛立ち。戦慄さんはどの感情も撫子さんに向けていませんでした。……『無』なんです。撫子さんを、双子の実の姉を、『無関係な他人』のように、一切の私的な感情を排斥して、戦慄さんは撫子さんの問題の対処にあたっていたんです。……撫子さん。あなたは本当に戦慄さんのお姉さんなんですか?」
……確かに天の言うように、戦慄さんは撫子の問題の対処にあたっていたというのに、少しの情も見せなかった。
厳しくも優しくもしないで、ただ正義の審判のままに動く人形のように。
風紀委員という立場から見れば当然のことなんだろうけど……少しの情も湧かないとうのはやはりおかしい。
誰だって自らの手で親族に罰を与えるとなれば、同情なり反論なりするはずだ。
天に真っ直ぐな視線をぶつけられた撫子は、やがて繕ったような笑みを浮かべて、
「……少しだけ、私の与太話に付き合ってくれないかな?」