5
翌日の朝。
始業チャイムまで余裕をもって登校した俺と天がゆったり廊下を歩いていると、
「――あわわ……遅刻だ~っ‼」
早朝とは思えない慌てようで、一人の女子生徒が教室を飛び出した。
忙しい身体の動き以上に激しく揺れ動くツインテール。
とろんと垂れ下がった瞳はまるでやる気を感じさせず、実際はどうだかわからないけど、彼女のマイペースな性格を連想させた。
……って、よく見たら昨日部室に突然飛び込んで来た子じゃないか。
本当に同じ学年だったとは……。
「兄さん。あの方って……」
天が顎に手を当てて訝しむ。どうやら天も勘づいたらしい。
「昨日部室に颯爽と現れて、颯爽と消えた子だな」
「ですよね」
天の曇った表情が晴れた。納得したようでなによりです。
それにしてもあの子、いつもあんな調子なんだろうか。
まだ二回しか見かけていないけど、常に騒がしいような気がする。
「――まずいまずい! 先生に仏の顔も三度までって言われてたのにっ‼」
遅刻するの四回目なのか……。
呆れて絶句していると――女子生徒が近くまで迫っていた。
女の子は――下を向いて前方を確認できていないご様子。
危険です。進行方向は常に確認するよう心掛けましょう。
俺は最新の車種を思わせる滑らかさで、危険を察知して安全地帯へと非難する。
これでよし。女の子が俺に気づかずにぶつかることもなく、事態は穏便に――
「おっと……。危うくカエルさんを踏んじゃうところだったよ~」
「なんだとっ⁉」
か、カエルなんてイレギュラーな存在聞いてないぞ!
女の子はカエルを回避をしたことによって進路を変え――その先には俺がいる。
「兄さんっ‼」
ああ……天があんな大声を上げるのなんていつ以来だろうか。
そんな泣きそうな顔をしなくても。天は俺がいなくたって笑顔で過ご
「きゃっ⁉」
「ぐへっ⁉」
まあ当然だけど、人とぶつかったくらいじゃ死なないよな。
一応は猛スピードで走ってくる女の子を止めようと試みたけど、案の定、そんなマンガのようにうまくはいかなくて。
結果――俺が女の子に押し倒されているかのような縮図が完成してしまった。
「いてて~。すいません……大丈夫です――……」
「ん。どうした?」
突然黙り込んだかと思えば、今度はぱちぱちと瞳を瞬かせ始めた。
……コンタクトでもズレたのか?
コンタクトのズレなんて大したことないと思うかも知れないけど、これが案外バカにできない。コンタクトが変にズレると、最悪の場合、水晶体が傷ついて失明してしまう危険性があるのだ。
失明なんてしてしまったら隻眼でカッコいいね! なんて冗談は言えない。
不安に思い、女の子の頬に触れて瞳を覗き込もうとすると、
「あ、あわわわ……お、お手柔らかにお願いしますっ!!」
湯気が出るんじゃないかって思うくらい顔を真っ赤にして懇願してきた。
けどお手柔らかにって。体術とか剣術を交えるわけじゃないんだけどな。
「ああ。勿論優しくするよ」
「はっ……はい。優しくしてください……ね?」
瞳の端に溜まった涙が虚空を切って俺の頬を伝った。
そんなに痛いなんて……これは俺の手には負えないんじゃないか。
「……光ヶ丘さん。保健室いこっか」
確か名字は光ヶ丘だったはず。うろ覚えな名前を口にして俺は提案した。
「ほぇっ⁉」
「――兄さん。いい加減にしないと私、怒りますよ?」
相変わらず真っ赤な光ヶ丘さんから視線を外して声の先を向くと――奇妙なほど笑顔の天が俺を見下ろしていた。
……やばい。よくわからないけどキレてる。
「天? なんで怒」
「怒りますよ?」
「いや俺は天の逆鱗に触れるようなこ」
「怒りますよ?」
「…………そ」
「怒りますよ?」
なにこれ詰んでんじゃん。天が怒るようなことはなにも……待て俺。逆にこんな状態でどうして大丈夫だと思ったんだ?
俺の腰に跨がった光ヶ丘さん。光ヶ丘さんの頬に片手を添えた俺。
そして――吐息がかかるほど接近した両者の顔。
「なんだあれ? 羞恥プレイか?」
「ねえあれって星海さんじゃない? どうしてあんな変態男と一緒にいるの?」
「欲望のままに動く男は滅亡すべし――っ!」
……………………
…………………………………………
………………………………………………………………どうしよ。死にたい。
「天。助けて」
「嫌ですっ♪」
こんの小悪魔めがぁあぁあっ! 俺の最後の希望は容易く途絶えた。
かくなる上は――俺は光ヶ丘さんに一言入れて起き上がり、
「誤解だっ! 俺は疚しいことなんかしてないっ!」
懸命に弁明するしかないよな。一番単純で難しい手段だとは思うけど。
誤解をもたれたままだと、今以上に噂が誇張されて拡大するかも知れないし、ここで火消しを行うのが最善だろう。俺はともかく、光ヶ丘さんにまで悲しい思いをさせるわけにはいかない。あと普通にさっきの贖罪をさせてほしい。
「嘘つけ変態っ! 朝から盛ってたんだろ⁉ 本音を吐け!」
そんな男子生徒の言葉に、そうだそうだと主に男子が勢いづいた。
あんの童貞どもめ……俺だって童貞なのに好き勝手言いやがって!
「ああいいさ! 望み通り本音を吐こうじゃないか!」
俺は大きく息を吸い込んで、
「――俺は人生でたったの一人しか女友達ができたことがない童貞だっ!」
その言葉に童貞の群れが怯んだ。
おいおいマジかよ、女友達すらいないとか可哀想じゃね? てかあいつ誰だ?
形成逆転。大将俺、副将俺、参謀俺の孤軍が優勢となった。
「……でも。光ヶ丘さんと星海さんと一緒にいるよね? どういう関係なの?」
一人の女子生徒からの質問。これに素直に答えて――チェックメイトだ。
「天は俺の妹だ。で、光ヶ丘さんとはたまたまぶつかっただけだよ」
「ああっなるほど~。君が噂の『低スペックな方の星海さん』か」
「なにその酷いあだ名。俺、色って名前があるんだけど……」
未だにクラス外では俺の存在を把握している人物が誰一人としていないという現実に悲しんでいると、天がパンと手を叩いた。それだけで注目は一気に天へと集まる。
「というわけです。星海色は私の兄で、兄さんは光ヶ丘さんとちょっとしたラッキースケベに遭っていただけ、ということです。……はい解散!」
天がそう促すと――俺たちの周りに集まっていた生徒はみるみる解散していった。
なんだよこの天の言葉の力は。新手の洗脳術か?
天はふうと息をもらすと、困ったように笑いながら俺を向いた。
「まったく……兄さんは無茶ばかりしますね」
「仕方ないだろ。天が助けてくれないって言った以上、他に良案が浮かばなかったんだからさ。……けどまあ、なんだかんだ天は俺を助けてくれるって信じてたけどな」
茶化したように言うと、天はほんのり頬を火照らせて明後日を向いた。
「あ、あたりまえですよ。……大切な兄さんなんですから」
「おう。ありがとな」
と、ここらで天との会話を断ち切って。
俺は背後で力なく女の子座りしたままの光ヶ丘さんに歩み寄った。
「光ヶ丘さん。その……紛らわしいことしてごめん」
両膝を地につけて、頭を下げて、光ヶ丘さんに許しを請う。
この一連の騒動の原因は(そもそも光ヶ丘さんがぶつかってこなければという前提を撤廃すればだけど)すべて俺にある。
誤解されそうなことを言ってその気にさせたのも、キスを迫っていると勘違いされたのも全部俺のせいだ。光ヶ丘さんはなにも悪くない。……あれ? でもこの子、俺の言葉に少しも抵抗しないで、むしろ乗り気だったような気がするんだけど……。
そんなことを思っていると、光ヶ丘さんは難しい表情でうーんと唸った。
「別に私はこれっぽちも怒ってないんだけどなあ……色兄は変な人だね」
……とりあえず許してはもらえたみたいだけど、
「……色兄ってなんだ?」
「ん。色兄は色兄のことだよ」
当然のようにいう光ヶ丘さん。
この子……天性の感覚派っぽいな。たぶん、会話でがんがん擬音を使うタイプの子だ。
俺が沈黙していると、光ヶ丘さんはあっと思い出したかのように声を上げた。
「日直の仕事どうしよう……」
俺と光ヶ丘さんが衝突してからかれこれ五分近く経っている。
五分前でさえ遅刻しそうとだと焦っていたのだから、五分経った今は遅刻が確定していると言っても過言ではないだろう。説教コース確定だ。
……けど。少なからず俺にも非があるのに光ヶ丘さんだけが不幸な目に遭うってのはおかしいよな。平等主義者として見過ごすわけにはいかない。
そんな良心に触発されて、俺はらしくもない提案をした。
「……俺も手伝おうか?」
他人のテリトリーには不用意に首を突っ込まないっていうのが俺の信条だけど、今回は仕方ないだろう。贖罪のためにも俺には光ヶ丘さんと不幸を半分こする責任がある。
俺の言葉を聞くと、光ヶ丘さんはあんぐりと口を開けたまま硬直し、やがてふふっとくすぐったそうに笑った。
「色兄はほんと変な人だなあ。……じゃあお願いしようかな」
「おう。任せとけ」
「うん。……向かうは職員室! 全速前進ヨーソローっ!」
「また走るのかよっ⁉ 危険だから歩こうっ⁉」
そんな注意を聞き入れることなく、光ヶ丘さんはぴゅーと駆けていってしまう。
失敗から学ぶってことを知らないのかあの子は……。
けど手伝うって言った以上、後を追わないわけにはいかない。
「――というわけだ。天は先に教室行っててくれ」
「わかりました。HRまでには戻って来てくださいね」
笑顔の天に見送られて、俺は光ヶ丘さんの後を追った。