18
視聴覚室は三棟の二階の最奥地という、RPGゲームに例えるなら間違いなく、激レアアイテムが潜んでいるであろう場所に存在している。
しかしその視聴覚室、実は多くの生徒に存在を認識されていない。
というのも、使用頻度が極端に少ないからだ。
俺は甘美高校で一年半近く過ごしているけど、視聴覚室に訪れたことは二回しかない。
一回目も二回目も訪れた目的は同じで、聴力を測定するため。
それ以外の目的で視聴覚室に訪れたことはない。
と、そんな存在感の希薄な場所だからこそ、秘密裏に落ち合うにはもってこいの場所なんだろう。しかもこの場所は生徒会室と風紀会室からも遠い。
――そんなことを陽太と話しながら歩く内に、視聴覚室に到着した。
「……準備はいいか?」
「おう。ゴールデン・ハインド号に乗ったつもりでいてくれ」
「よくわからないけど……とりあえず開けるぞ」
いまひとつ引き締まらないまま取っ手を回すと――ギイィと重低音を響かせながら扉が開く。
扉が開いたということは、施錠されていないということ。
施錠されていないということは、視聴覚室に誰かいるということ。
つまり――
「ん」
「え……」
――蒼崎さんと柏田先輩と思わしき人物は視聴覚室にいた。
「陽太に……色くん? ……どうしてここに?」
視聴覚室の入り口から離れた――最前列の窓際の一席。
俺たちの存在に気づいた蒼崎さんは、青ざめた表情で弱々しく言葉をもらした。
「ん。彼らは月乃の知り合いかい?」
と、ゆったりとした口調で蒼崎さんに問うのは――恐らく柏田先輩。
噂を聞く限りだと悪質な人物像しか想像できなかったけど――今の悠々とした口調からはまるで嫌な感じがしない。それどころか、猫目と落ち着いた雰囲気が合い極まって、実はいい人なんじゃないか、とさえも思ってしまう。
柏田先輩から受けた第一印象はかなり好印象なものだった。
「うん……知り合い、だよ」
俺たちから目を逸らして蒼崎さんはいう。
「そう知り合い……ならいいけど」
少しばかり低い声でいうと、柏田先輩は俺たちを向いた。
「で、二人はなんの用があってここにきたのかな?」
ひょいひょいと手招きしながら柏田先輩はいう。
その仕草に従って足を進めようとすると、
「……惚けんなよ。理由はアンタが一番わかってんだろ」
「……え? 陽太……?」
振り向くと――陽太は拳を硬く握り締めて全身をぶるぶると震わせていた。
普段の穏やかさからはまるで想像できない鬼神さながらの怒りの表情。
陽太のこんな表情を見るのは初めてのことだった。
「……おい陽太。一体なにをそんなに怒って――」
「そんな風に誰かを支配して楽しいか?」
俺の言葉を無視して。
陽太はずかずかと大股で柏田先輩へと詰め寄っていく。
「支配? 君は一体なんのことを言って……」
「だから惚けんなって言ってんだろっ‼」
激昂した陽太の叫びが視聴覚室いっぱいに轟く。
陽太の放つプレッシャーに圧倒されて、俺はただ陽太を見つめることしかできない。
「弱みを握って、交友関係を破綻させて、最終的には自分だけにしか寄り添えない環境を仕立て上げて。……それは立派な恐怖支配じゃないのか⁉」
ドンと机を叩いて陽太は柏田先輩に問う。
正面から鋭い眼差しを受けながらも、柏田先輩の表情から余裕は消えない。
「……恐怖支配なんてひどい物言いだなあ。僕は彼女たちを救済したんだよ? むしろ感謝してほしいくらいなんだけどな……」
……彼女『たち』だって?
まさか……蒼崎さん以外にも同じ関係を結んだ子が複数いるのか?
……柏田先輩が実は温厚かも知れない、なんて思っていた俺が間違いだった。
この人は温厚な仮面を被った――〝悪〟。
それも自分の行為を〝正義〟と見なす、最も質の悪い悪だ。
「救済って……ふざけんなよっ!」
陽太は柏田先輩の胸倉を強く締め上げる。
「アンタのせいでよもぎは……よもぎは学校をやめちまったんだぞ!!」
「――っ⁉」
……嘘だろ? 柏田先輩が『あの問題』の黒幕だっていうのか?
――光野よもぎ。
彼女は陽太の恋人で――俺の高校時代二人目の友達だった。
彼女の名前を聞くと、俺は今でも後悔の念に苛まれてしまう。
もっと賢いやり方があったんじゃないか。
俺が失敗しなければ彼女は今も笑顔でいられたんじゃないか――と。
高校生一年生の夏――彼女は校内で立った悪い噂に圧迫されて学校を中退した。
その概要は――光野よもぎはビッチだという根も葉もないもの。
けど、ついに彼女はその噂を否定することはなく――記憶の中の存在となった。
……思えば今の蒼崎さんの状況は、よもぎの置かれた状況と似ている気がする。
「よもぎ? …………ああ、あの河原で喫煙してた子か」
「は?」
……なにを言ってるんだこの人は。
よもぎが喫煙していただって? そんなことあるわけないだろ。
だって彼女は――
「んなわけないだろ! あいつは人一倍正義感の強い子なんだぞっ⁉」
柏田先輩の言葉を陽太は激しく否定する。
しかし――
「だから悪さをしないって証拠はあるのかい? 僕は彼女がタバコを片手に歩いている姿を目撃したんだ。生憎、随分と前だから写真はないけど……」
柏田先輩は一向に陽太の言葉を認めない。
それどころか、これ以上は暴力行為で訴えるよなんて言って陽太を脅している。
「――じゃあタバコを片手に歩いてるから喫煙したって証拠はあるのか?」
怒気を含んだ声色を響かせると、視聴覚室はしんと静まり返った。
「色くん……?」
沈黙を貫いていた蒼崎さんが驚いたように口を開く。
――当然だろう。俺は本来、こんな熱っぽいキャラではないのだから。
けど――友達が悪いように言われてるのだ。
それは自分のことのように悔しくて。痛くて。腹正しくて……。
だから、傍観者を貫くことはできなかった。
「……タバコを手に持っていた。それだけで充分な証拠だと僕は思うんだけど」
「いいやその理論はおかしい。その定義に当てはめるんなら、未成年者がお酒を持ったってだけでも、アンタは咎めなきゃいけないことになるぞ」
「それは……」
俺の反論に柏田先輩は押し黙ってしまう。
が、この程度ではよもぎの無罪を確定したことにはならない。
――もう一押し。俺と陽太と天だけしか知らないであろう決定打を俺は叩き込む。
「それにな、『河原で』よもぎがタバコを持って歩いている姿を見たって言うんなら、絶対によもぎが喫煙をしていないって言い切れる理由があるんだ」
「……そんな理由があるのか?」
少し荒っぽい口調。恐らくはこれが――柏田翼の本性。
今までの柔らかい口調は、やはり善良を装うための偽物だったのだろう。
「ああ。あの当時、河原には肺がんを患ったじいさんが頻繁に出没しててな。そのじいさんは禁煙しなきゃ寿命がもっと縮まるって医師に宣告されてたのに、河原の傍らでよく隠れてタバコを吸ってたんだ。で、よもぎはじいさんが隠れてタバコを吸っている姿を見る度に、タバコを取り上げて捨てに行ってたんだ。……柏田先輩が見たのはその一部始終なんじゃないのか?」
写真というのは厄介だ。
一度ぱしゃりと撮られてしまえば、それは紛れもないリアルとして映るのだから。
けど――そんな象られた一瞬よりも、俺のもつ記憶の方が圧倒的に情報量が多い。
象られた一瞬が成立した経緯まで俺は知っているのだ。
だから、この件に関しては、例え柏田先輩がよもぎが片手にタバコを持つ写真をもっていたとしても勝機は俺にある。柏田先輩に反論をする余地なんてあるはずがない。
――と、そんな現状だけど。
……果たして柏田は先輩はどんなアクションを起こすのだろうか。
俺の熱弁したことを認めてくれるのがベストなんだけど――
「……だったらどうかしたのかい?」
ああ……やっぱりダメか。
「よもぎがタバコをもっていたというのは紛れもない事実だ。君たちは写真外の情報を知っているからそうやって異議を唱えることができるが、大多数はそんな風に反論することはできない。切り取られた一瞬こそがすべてだからな!」
「……その一瞬を脅迫罪にして、アンタはよもぎと付き合ってたのか?」
ひどく冷たい口調で陽太は問う。
「おいおい誤解してないか? 俺と付き合いたいって言い出したのはよもぎの方だぞ?……まあ、付き合ってくれないんなら写真を拡散するぞって脅しはしたんだけど」
「……変な噂が立ってよもぎがどれだけ苦しんでたのかアンタは知ってんのか?」
「あーそんなこともあったな。学年でビッチ呼ばわりされたんだったっけ? いや~そんな程度で学校をやめちゃうなんて彼女もメンタルが弱いよね。けど、おかげで次回からは噂を立てないように気をつけようって教訓ができたよ。よもぎの退学も無駄ではなかったね」
「そうか……――二度と喋れないようにしてやんよっ‼」
と、陽太は拳を振り上げてものすごい勢いで振りかぶったけど――
「陽太‼ やめっ――」
その拳は柏田先輩にではなく――俺の後頭部に直撃した。
「だ、大丈夫色くんっ⁉」
魂が抜けたかのようにおぼつかない足取りで数歩歩いたあと倒れた俺を心配して、蒼崎さんが俺の元へと駆け寄ってくる。
あーほんとはあまり痛くないんだけど……ここは痛いフリをしとこうかな。
と、目を閉じようとしたその時――
「――っ! 大丈夫大丈夫! 全然平気だよっ!」
「でも……顔真っ赤だよ? 本当に……大丈夫なの?」
「これは床に思いっきり倒れたからだよ。いやー鼻が折れなくてよかったよかったー」
「うーん。ならいいけど」
危ない危ない。あのままだと蒼崎さんのパンツを直視してしまうところだった。
ちょっと見えた気もするけど……たぶん気のせいだろう。うん。あの桃色は錯覚だ。
「色……お前どうして」
陽太はわけがわからないという様子で俺を見据えている。
うん。俺もどうして拳を止めるんじゃなくて殴られる方を選んだのかわからないよ。
「少しは冷静になれよ。怒りに身を任せて行動したら後から後悔するぞ」
「だからって……お前はあの言葉を黙って聞き逃せっていうのか」
そんなことできるはずがない。
脇で話を聞いていた俺でさえも怒りが全身を迸ったんだ。
当事者である陽太が覚えた怒りは計り知れない。
「いいや。そうは言ってない」
「じゃあ、どうしろってんだよ」
「暴力に頼るんじゃなくて、平和的に解決するんだ」
『できる限り平和的に解決をしましょう。力任せに解決することはできるだけ避けてください』
暴力を振るったとなれば私も風紀委員として見逃せませんから、と大和は言っていた。
危ない。若干一名傷ついたけど、これは身内割れだからセーフだろう。
「平和的解決って……そんなこと本当にできるのか?」
「まあとりあえずやってみるしかないだろ」
そう話を打ち切って柏田先輩を向く。柏田先輩は俺を見るなりふっと破顔した。
「君は変な子だね。あまり友達がいないんじゃないか」
「変人=友達がいないは偏見ですよ。まあ間違ってはいませんけど」
「ははっ、捻くれてるね君は!」
声を上げながら柏田先輩は愉快に笑う。
仮面を被っていようがいまいが、話しやすいことには変わりないようだ。
……ものは試し。一度大胆に踏み込んでみよう。
「先輩、蒼崎さんを解放してくれませんか?」
「ほう。君は月乃を僕から解放するためにここにきたのか。……でも、本人がそれを望んでいるとは限らないよ」
言いながら、柏田先輩は隣に座る蒼崎さんを一瞥する。
「月乃、君はどうしたい?」
「わ、私は…………今のままで大丈夫かな」
瞳をおろおろと彷徨わせながら蒼崎さんはいう。嘘をつくのが下手くそすぎて可愛い。
ということはつまり――蒼崎さんもなにかしらの弱みが握られているのだろう。
――蒼崎さんまでよもぎと同じ目に遭わせるわけにはいかない。
その思いが怒りの抑止力となって、俺は冷静さを保つことができていた。
「だそうだ。残念だったね」
「どうせよもぎの時みたく弱みを握ってるんでしょう? でなきゃ蒼崎さんが先輩のような性根の腐った人に付き添うとは思えません」
少し挑発気味にいうと、柏田先輩は片眉を釣り上げた。
「……へーなかなか言うじゃないか」
「恐縮です」
「ますます癪に障る子だね……」
初めこそは穏やかだった柏田先輩だけど、今は不機嫌そうに顔を歪めて、殺気を惜しみなく俺へとぶつけている。ピリピリと殺気立った空気が俺と柏田先輩の間に渦巻く。
「本当にこの調子で平和的解決なんてできるのか?」
不安に思ったのか、背後からぼそっと陽太が耳打ちしてくる。
「心配することはないよ。ここまでは計画通りだ」
「マジかよ……お前の策略ってほんとわけわかんないよな」
「恐縮です」
「お前、その言葉絶対好きだろ」
そんなやりとりを陽太と交わしていると、ううんと柏田先輩が咳払いした。
「話してもいいかな?」
「あ、もう結構です」
「「「は?」」」
俺の予想外の返答に、柏田先輩だけでなく陽太と蒼崎さんも頓狂な声を上げた。
これは座布団一枚かな。
「もういいって……君は月乃を僕から解放するのが目的じゃないのか?」
「別に今すぐに解放したいとは言ってませんよ」
「確かに今すぐとは言ってないけど……君はほんとわかんない子だね」
「よく言われます」
ペコリと一礼しておいた。
「では、失礼しますね」
言いながら椅子を元あった位置に戻して、視聴覚室の入り口へと足を運ぶ。
「……あ、おい待ってくれよ色」
呆気に取られていた陽太が、遅れて俺の後をつけてくる。
「では――呉々もこの後、覚悟しといてくださいね」
「……ん。この後?」
柏田先輩の怪訝な声が聞こえたけど――無視して扉をクローズ。
「……色、一体これはど……」
「しっ! ちょっと静かにしてくれ」
陽太を黙らせて扉の向こうに耳を澄ませる。
……………………
………………………………
……………………
「…………」
なにやら二人で話をしているようだけど、俺たちの後を追うような気配はない。
つまり――
「朗報だ。この駆け引き、俺たちの勝ちだぞ」
「は?」
「なんだその白けた反応は。昨日立てた作戦を覚えてないのか?」
「いや覚えてるけど……っ! まさかお前っ!」
「ああ。そのまさかだよ」
意地悪く笑うと、陽太は「ほんとお前って抜かりないよな」と言って苦笑した。
この問題が解決するのは数分後。後はその時を待つだけだった。
* * *
調子外れのレトロな音が校舎に響く。
これは「今から校内放送が行われますよ」という合図だ。
刹那の沈黙の後――某所に設置されたスピーカーから音が溢れ出す。
――……タのせいでよもぎは……よもぎは学校をやめちまったんだぞ!!
――よもぎ? ………………ああ、あの河原で禁煙してた子か
「お前……こんな前から音を拾ってたのか」
「まあな。陽太のヒートアップの相乗効果で、柏田先輩がなにか重要な言葉をポロッと零すんじゃないかって思ってさ」
「すげぇな。その予感見事に的中してるよ」
感心したように陽太がいうけど――最大の功労者はこの案を出した二人だろう。
まったく……双子の妹っていうのはどうしてああも機転が利くんだろうな。
切羽詰まった音声をぼんやりと聞きながら、俺は昨日の放課後を回顧する。