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「――織っ‼」
勢いよく身を起こすと誰かの名前を叫んでいた。
叫んだばかりなのにその名前はもう思い出すことができない。
けど――名前の思い出せない少女が寂しそうに笑う姿だけは鮮明に覚えている。
彼女がどうしてそんな風に笑うのか、そもそも彼女が誰なのかはわからないけど。
頭上の目覚まし時計を手に取り、時刻を確認する。
「四時三〇分って……」
人生最速のタイムじゃないか。どうりで涼しいわけだ。
なにも予定がなければ天が起こしに来るまで二度寝をキメるとこだけど、
「まあたまには早起きしてみるか」
どの道、五時三〇分には起きるつもりだったし、一時間くらい大したことないだろう。
早起きは三文の得っていうしな。
そんなことを思いながら扉を二つ潜ってリビングに入ると、
「あ、あ……ぱ、パパ。し、色がこんな早くに起きて……」
「お、落ち着け彩里! こ、コイツは色の生き霊だ……。おのれ悪霊許すまじ!」
「待ってよ二人とも! 俺、悪霊でもなんでもないただの人間なんだけど⁉」
悪霊扱いされた。確かに珍しいのは認めるけど、その動揺はおかしくないですか? 父さんも母さんも塩の入った袋を開封してなにするつもりですか?
「問答無用! 悪霊め……俺の息子から離れろぉ~‼」
とか意味不明なことを言いつつ、父さんは掌一杯に塩を握って――あろうことか俺の顔面めがけてフルスイングしてきた。
「ぐえっ⁉」
いった! 塩いったっ! え、塩ってフルスイングされるとこんな痛いの?
「え、えいっ!」
「ちょっ、母さんまで……やめてよ」
投げ方が可愛い。けど俺に塩を投げてるって事実に変わりはないんだよな。
「しぶとい悪霊だな……ソルト爆弾三連撃‼」
「いった! ちょ目に……鼻にも入ったじゃねぇか‼」
さすがに苛ついて声を荒らげると、
「きゃー‼ パパカッコいいっ‼」
「ふふ。だろ? これでも元陸軍……の友人の友人の祖父がいるんだぜ」
「完全に他人じゃねえか……」
友達の親戚のおじいちゃんが元プロ野球選手だって自慢する俺の担任教師かよ。
「そのツッコミは……お前、色か?」
「判別材料が酷いけどその通りだよ」
塩塗れになった服を脱ぎながらいう。
くっそ……塩がパンツまで入ってるじゃないか。
侮蔑の眼差しを父さんにぶつけると、苦笑いしながら目を逸らした。
「あー色そのなんだ……あとで臨時収入をやろう」
「……これが早起きは三文の得ってやつの真理か」
「で、でも眠気が覚めたんじゃない⁉ 私もお掃除のし甲斐がありそうで元気溌剌だよ」
長袖の裾をたくし上げながら母さんはいう。
……うん。今後はやっぱり天に起こしてもらおう。
塩を大量に浴びてから二時間後。
いつものように隣に天の姿はなく。俺は一人で通学路を歩いていた。
日の出から間もないこの時間帯は、陽の光が山に遮られて届かない。
おかげで、通学路はいつもの何倍涼しかった。
「――っ」
不意に、通学路の薄暗さに触発されたように欠伸が顔を出そうとした。
その欠伸を癖で噛み殺して歩く。視界が少しだけ曇った。
朝の五分は昼の三〇分なんていう人がいるけど、通学路を歩いているとまさにその通りだと思う。閑散とした通学路。虚しく響く虫たちの合唱。まるで街が眠っているかのように、自然音だけが街に響いていた。まあ田舎だからっていうのもあるんだろうけど。
そして歩くこと一五分。
天の歩幅に合わせる必要がなかったからか、学校にはいつも以上に早く辿り着いた。
こんな早くに学校に来るのは初めてで、正門が開錠してなかったらどうしようかと思っていたけど、
「こんな早くでも普通に入れちゃうのな」
なんなく突破。
教員専用の駐車場に既に無数の車が停まっているのを見て、八時間労働を定めた労働基準法の効力ってほど皆無じゃないか? と疑問に思いながら上履きへと履きかえた。
ペタペタと自分の上履きの音を校舎全体に響かせながら階段を上る。
目的地は二棟の二階。生徒玄関が一棟の一階にあるから、階段を上って渡り廊下を渡ってしまえば、目的地はすぐ目の前だ。
――ペタペタペタ。
階段を上り終えると同時に、意識していなかった緊張が一気に肥大するのを感じた。
加速する心拍数。べっとりと手に滲む汗。
「……落ち着け。落ち着け俺。なにをビビってるんだ」
ドンドンと胸を強く叩く。それでも緊張が消えることはない。
けど――ここまで来たのに諦めるわけにはいかない。
おまじないのように、昨日の真音先輩との会話を回顧しながら、俺は風紀会室へと足を進めた。
* * *
『――で、後輩くんが拾ったそのヘアピンなんだけど』
『……これヘアピンなんですか?』
『うん。不格好だけど、それは大和がすっごく大切にしてるヘアピンなんだ。だからね、大和はそのヘアピンを落としたことに気づいたらすぐに取りに来ると思うの』
『すぐにって、こんなまったり話してる余裕はないんじゃ……』
『その心配はないよ。今日大和が風紀会室に来ることはないからね』
『……そう言い切れるってことは、なにかしら根拠があるんですね』
『まあね。大和の家は随分と学校から離れた場所にあってね。電車とバスを乗り継ぎしながら登下校してるの。だから、仮に帰りに気づいたとしても引き返して戻って来る可能性っていうのは限りなく低いと思うよ』
『なるほど。それに大和にとっては気まずい俺もいますしね』
『そういうこと。だから、大和がこの場所に来るとしたら明日の早朝だと思う』
『早朝……天と陽太は呼ばない方がいいですよね?』
『そうだね。最低限の役者だけ集めた方が、円滑に事態を解決できると思うよ』
『了解です。天と陽太には悪いけど、この事態は三人でっていうのが最適解ですもんね。……ちなみに真音先輩は来ないんですか』
『私? 私は邪魔になるだけだからいない方がいいよ。それに、後輩くんにこうして情報提供してる時点で、一番の功労者は私だからね』
『それは間違いないですね。……じゃあ、この作戦でいきましょうか』
『うん! 期待してるよ!』