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「――実は織姫と彦星って姉弟なんですよ!」
着物を着た少女が前屈みになりながら自慢げにいう。
ここは……俺の家のベランダだろうか。
見慣れた景色のはずなのに、朧気なその景色はまるで違う場所のように思えた。
「……」
とりあえずは眼前の少女と面識があるかどうかを確認してみる。
瑠璃色の瞳に艶やかな黒髪。
天と似た風貌の少女だけど天ではないだろう。双子の兄妹だからか、勘とは違うなにかが働いて、彼女は天ではないと本能が教えてくれた。
となると――恐らくは初見。俺は彼女のことを知らない。
……というか、そんな子がなんで俺の家の庭にいるんだ?
「……ん? 反応が薄いですよ色さん」
そんな風に訝しんでいると、不満そうに目をジトっと細めて彼女が睨めつけてきた。
色さんって……なんでこの子は俺の名前を知ってるんだよ。
「……あーごめん。織姫と彦星が姉弟だなんてびっくりだなー」
確か彼女は自信満々にそんなようなことを言っていたはずだ。
とりあえず相づちを打っておく。
「いくらなんでもその反応は適当すぎませんか」
俺の反応が気に入らなかったのか、彼女はむうと頬を膨らませる。
童顔と低身長に加えて仕草まで幼いときたか。
年齢と発言を照合するに――十四歳前後だろうか。
「十四歳って……まあ実際、十代後半の年齢なんて判別できないとは思いますが」
「違うのか? 俺はてっきりそういう年頃だからああいう嘘を吐いちゃうんだと思ったんだけど……」
これだけぼかしても『十四歳』って単語があればなんのことかわかるはずだ。
これは誰もが体験する一種の通過儀礼みたいなもんだからな。
「そういう年頃。ああいう嘘。……中二病とかいう病のことですか?」
まるでその言葉を初めて知ったかのような口ぶりで彼女はいう。
「当然ですよ。先ほど地上のデータを一括ダウンロードしましたけど、この言葉自体を口にするのは初めてですから。インプットとアウトプットは別物なんです」
「どっかのアスリートの格言みたいだな」
と、敢えて前半部分にツッコまないのは俺の優しさ。
地上のデータを一括ダウンロードとかいう超次元的なワードが聞こえた気もするけど、たぶん気のせいだ。俺はなにも聞いていない。
「……でも私がこの病に侵されているというのはおかしいですよ」
首を傾げながら彼女はいう。
「この病って自分には異能力があると『思い込む』ことなんですよね? でも私、本当に思考を読んだり、空を飛んだりできますよ」
「そ、その域にまで達してたのか。かなりの重傷だな」
「なんで温かい目をするんですか……」
温かい眼差しを向けたのに冷たい眼差しが返された。
反抗期の娘をもつ親さんっていつもこんな視線を耐えてるのかな。純粋に尊敬します。
「普通に色さんの思考と会話してたけど……気づいてないのかな。頭がおかしいのかな」
「おい。聞こえてるぞ」
頭がおかしいってなんだよ。まあ変わった奴だとはよく言われるけどさ。
「まあ思考を読むなんて漠然としたものよりも、目に見えた方がわかやすくていいでしょう。――いよっと」
「…………え」
中二病の名残。誰もがそう思って当然の言葉の数々だったと思う。
だってそんな特殊能力をもった人物と邂逅した経験なんて普通はないからな。
けど――邂逅した経験がないってだけで、彼らは確かに存在しているのかも知れない。
その証拠に、軽い掛け声と共に地面を蹴り上げた彼女は――俺の頭上に浮遊していた。
「なっ……んなバカな……」
「ふふっ。ここにきて過去一のリアクションですね」
悪戯に成功して喜ぶ子供のような笑顔を見せると、彼女は徐々に高度を下げて地上に足をつけた。そして豊満とは言い難い胸を張って、
「い、今は小さくても将来的には大きくなると信じてますから!」
「お、おう。ほんとに思考も読めるんだな」
第二の能力も確認完了。本当に俺の思考を読んでいるようだ。
ここまで言葉通りってことは……さっきまでの彼女の言葉は大方事実なんだろう。
……え、この子織姫様なの?
「というわけで。私、織は色さんの願いを叶えにやってきました。貴方の願いは――なるほど。なかなかに難しいお願いですね」
笹の葉に掛けられた短冊を凝視すると、彼女は顎に手をやってうーんと唸った。
笹の葉……あれ? 七夕は一週間前に終わって父さんが燃やしたはずだけど。
「――閃きました!」
不意に彼女――織姫様が澄み切った表情を浮かべて、ぽんと手を叩く。
「私が妹になるんです‼」
「…………は?」
この織姫様、今とんでもないことを言わなかったか?
「む。わざわざ名乗ったのに、色さんは私を『織姫様』って呼ぶんですね」
不機嫌そうに唇を尖らせながら織姫様はいう。
「え……ダメでございましたか?」
「違います! 違います! そんな風に畏まってもらいたいから嫌味に言った訳じゃないんです!」
ぶんぶんとずぶ濡れの犬みたいに首を振る織姫様。表情のレパートリーが豊富です。
「私のことは『織』と呼んでください。それから、敬語もなくて構いません」
「……つまりありのままの俺で接してほしいと?」
「はい。神聖化してるとはいっても私は千三百と十六歳の女の子。敬語は少し……いやかなり堅苦しいから嫌なんです」
千三百と十六歳とな。
「千三百って……そんな長い間、願いを叶え続けてきたのか?」
「はい。それが神様より承った天命ですから」
おどけたように笑いながら織はいう。
千三百年。そんな莫大な時間を織は過ごしてきたのか。
――それも神様の天命を全うするという目的のために。
……でもそれって織が望むことなんだろうか。
なんだか織が束縛されているようで、少しやるせない気持ちになった。
「――色さんは優しい人ですね」
顔を上げると織は慈愛に満ちた笑顔を浮かべていた。その笑顔が本物なのか繕われたものなのかはわからない。とりあえず俺は微笑み返しておいた。
「じゃ今後は『織』って呼ぶよ」
「はい! ありがとうございますっ!」
「な……」
世界三大美女の一人、クレオパトラは自らの美貌で多くの男性を虜にしたという。
カエサルにアントニウス。三頭政治という古代ローマを動かす大きな会議に出席した二人までもがその美貌の虜になったという史実は今もなお有名だ。
――しかしだ。
美貌の虜になるなんてことが本当にあるのだろうか。
俺はずっと疑問に思っていた。そして今――その疑問は解決された。
結論を言おう。――本能は絶世の美貌を前にしたら逆らえないと――っ‼
「お、おう……」
あの童顔に特上の笑顔とか反則だろ……。あの笑顔でたぶん争いが三つは消えるぞ。
今なら織に俺の貯金の全てを捧げてしまいそうだ。
「色さん。それは重度のロリコンだと思うのですが……」
ようやく正気に戻り、眼前の織を見据えると――ものすごく引き攣った笑顔を浮かべていた。作り笑いだからか頬はピクピクと動き、ツーと一滴の冷や汗が首筋を伝っている。
「……俺、ロリコンなのかな?」
「だ、大丈夫ですよ! 男女問わず誰だって小さい子が好きですから! ……いやでも色さんほどの人はそうそういないかもです」
「フォローするなら最後までフォローしてくれよ……」
育児放棄された子猫みたいな気分だぞ。孤独はつらいです。
「……そういえばどうして織は織姫様って呼ばれてるんだ? 普通は『シキヒメ』って名前が伝わるはずだろ?」
話が脱線しているような気がするけど、気になったから問いかけた。
「織姫の物語が成立してから数年は『シキヒメ』の名で伝わっていたのですが、『シキヒメ』というのはどうも発音しにくかったみたいで。仮名文字の普及と同時に多くの人が『オリヒメ』と呼ぶようになりました。その呼称が現代にまで浸透してきたから、多くの人は私が本当は『シキ』という名前だということを知らないんだと思います」
「なるほど……確かに『シキヒメ』よりも『オリヒメ』の方がしっくりくるな」
「そこは嘘でも『シキヒメ』の方がいいと言ってほしかったです……」
「あ、ごめん」
織は露骨にしょんぼりと肩を落とし、寂しそうに笑いながら謝ることはないですよ、と言った。その表情と言葉が一致していなくて、俺はさらに罪悪間を覚えてしまう。
「やっぱり色さんは優しい人です。他人に同情し、他人の痛みをまるで自分のことのように思う。それって簡単そうで難しいことなんですよ」
「え?」
予期せぬ諭すような言葉に俺は思わず面食らう。
「そんな優しさ溢れる人だから、こうして友人関係で悩めるんでしょうね」
俺の願いの綴られた短冊を見やりながら織はいう。
「色さん。私が貴方の願いを必ず叶えますよ」
その言葉を最後に――俺の意識は暗転した。