10
――がらがらと風紀会室が調子外れな音を立てて開く。
「……なんでお前がいるのですか?」
「お前って、過去一酷い呼称だな」
視線を部屋の入り口に向けると――そこには光ヶ丘大和がいた。
不満を露わにした表情。身に纏う氷結のオーラは昨日以上に冷たく感じる。
「私はあんな暑い部室で二〇分もお前を待ってたというのに、お前は風紀会室に不法侵入して涼んでいたのですね」
「不法侵入とは失礼な。ちゃんとノックしてから部屋に入ったぜ」
「そういう問題ではないのですが」
やがて大和は諦めたように大きなため息をついて扉を閉めた。
そして俺の前の椅子――ではなく、左斜め前の椅子に平然と腰を掛けた。
ここは普通、向かい合って座るもんじゃないんですかね?
「ここが私の定位置です。話をしたいのならお前が私の前の席に移動してください」
こいつ……なんて上から目線なんだ。皇帝の化身でも宿ってんのか?
けど、話ができないと困るから、不本意ながらも大和の言う通りにするしかない。
「はいはい。わかりましたよ」
長時間座っていた席を立って、一つ左隣の椅子へと腰をかけ直す。
正面から大和を見据えると、無表情のまま口を真一文字に結んでいた。
……改めて見ると、大和ってすごい美人なんだよな。キツい性格に目を瞑ればだけど。
「……」
「……」
「……」
「なんか言えよ……」
今朝撫子と会話したときとまったく同じやり取りをしているような気がするんだけど。
どうやら会話のサーブの下手さは光ヶ丘姉妹共通らしい。
ここにきて初めて二人の共通点を見いだした。
「ん。お前が私の美貌に見惚れているようだったので、正気になるのを待ってあげていたのですが」
「見惚れてませんけど?」
確かに一瞬可愛いなとは思ったけどさ。
「そうでしたか……すいません。お前の童貞臭があまりに濃いので、てっきり発情しているのか思ってしまいました」
「お前……敬語ならなんでも許されると思ってないか?」
童貞臭ってなんだ。その通りだけどムカつくからはっ倒すぞ。
ジト目にして不満な気持ちを大和にぶつけてみるけど――
「どうしました? ありのままの事実を言われて不満でしたか?」
「こいつ……」
目の前に座る薄情な女が良心を痛めるかも知れないなんて、少しでも期待した俺がバカだった。結果はご覧の通り、俺の苛立ちが一層掻き立てられただけだった。
撫子のためっていう理由がなければ、今すぐにでも部屋を飛び出してるだろうな。
「それで、私以外の風紀委員を追い出して、お前は私からどのような話が聞きたいのですか?」
眉間に皺を寄せながら、不機嫌そうに腕を組んで大和は言った。
不機嫌になるのはどう考えても俺の方だと思うけど、そのことに毎度毎度ツッコんでいては話が一向に進まなさそうだから、ここはあえてツッコまないでおくことにする。
「へぇ、俺はまだお前に聞きたいことがあるなんて一言も言ってないのに、お前は既にその気だったんだな」
けれど、からかわないとは言っていない。
一矢報いようと、俺は皮肉交じりに言葉の矢を放つ。
「帰りますよ?」
「すいませんごめんなさいお願いですから帰らないでください」
瞬殺だった。なにこいつ難攻不落の城塞なの? ガード力がおかしい。
俺がペコペコと前後運動を繰り返していると、大和は深々とため息をもらした。
「はあ……お前が私のマウントをとろうだなんて愚行にもほどがあります。せめて一光年近く鍛錬を積んでるから挑んできてください」
「一光年って……そんなに時間があったらこの世の真理に到達するぞ」
「なにバカなことを言っているのですか。一光年の任期を全うする前に常人なら死にます。故にお前が真理に到達することなどありえません。常識的にも人間的にも」
「ねえ最後の言葉いらないよね? 絶対嫌味だよね?」
「……それで、お前が私に聞きたいこととはなんですか?」
「おい……」
こいつ、俺の質問を黙殺してゴリ押ししやがったぞ。あれか? 都合の悪い情報は操作して揉み消すタイプの人間なのか? メディア操作はよくないと思います。
と、ここらで逸れた話題はおしまいにして。
光ヶ丘大和がどんな人間なのかもわかったことだし、本題を切り出すとしよう。
「俺がお前に聞きたいのは――お前と撫子のことだよ」
「……理解できません。なぜお前が私と撫子の関係を知りたがるのですか? 私と撫子はお前にとって他人のはずです」
少しだけ。気のせいかも知れないが、その言葉には感情が乗っているように感じた。
それは俺の勘違いかも知れないけど、勘違いじゃなかったとすれば事態を解決するための大きな一歩となる。皆無だった可能性が飛躍的に向上することになる。
そんなチャンスを逃さないために、俺は一段と気を引き締めて口を開く。
「他人なんかじゃない。撫子は俺の友達だ」
友達の定義付けなんて正直、曖昧でよくわからない。
けど――くだらない話をして、悩みを共有した奴を他人だなんて言えない。
だとするならば、出会って日は浅いけど、俺と撫子の関係は『友達』と呼ぶのが最適だろう。
……いや違うな。俺が撫子の友達でいたいんだ。
友達に笑顔でいてほしいから、俺はこんな俺らしくないことをしてるんだと思う。
「友達? お前が撫子の?」
「ああ。そうだ」
自信満々に答えると、大和は少しだけ表情を曇らせた。
「お前は……友達だからというちっぽけな理由で、こんな面倒なことに首を突っ込んでいるのですか」
「ちっぽけな理由か。それは違うぞ大和。友達だからっていうのはちっぽけな理由なんかじゃない。それだけで無茶をするには充分すぎるほどの動機なんだ」
「ならお前は、友達のためならどんな無茶でもするというのですか」
「勿論だ。天や陽太、撫子が困ったのなら俺は友達として全力で助ける。友達なんだから当然のことだ」
「……そうですか」
淡々と答えると、大和は初めて俺から視線を外して俯いた。
刹那の沈黙。大和が俯いてどんな表情をしているのかわからない。
しばらくして大和は顔を上げた。
「え……」
その時、俺は大和の表情を見て言葉を失った。
「なにを驚いているのですか?」
なにを驚いているのですかって、大和は今、無自覚にそんな表情をしてるのか。
この会話を通して、大和の感情を少しは露呈させることができるのではないかと思っていた。けど、俺が想定していたのは『負の感情』の露呈であって、『正の感情』の露呈ではない。大和のイメージと『正の感情』というのが対極に位置していたからだ。
そんな先入観をもっていたから、俺は驚きを隠せなかったのだろう。
大和は――微笑を浮かべながら涙を流していた。
「……ハンカチ使うか?」
できるだけ大和の表情を直視しないよう最高限の注意を払って、ポケットから自然な流れでハンカチを手渡す。最高限なんて言葉ないよ? と思うかも知れないけど、それくらい俺が動揺しているということなので察してほしい。
「ん。どうしてハンカチなど手渡すのですか?」
……そのパターンは想定してなかったな。
どうやら大和は自分が涙を流していることに気づいていないらしい。
こくりと首を傾げて不思議そうな表情をしている。俺はお前が不思議だよ。
「大和が泣いてるからだよ」
俺の泣いてることを婉曲に伝えるという紳士的な振る舞いも虚しく、現実をそのままに指摘すると、
「私が泣いている? そんなことがあるわけ……嘘……」
ようやく自分が涙を流していることに気づいたようだ。
大和は左右の瞳から溢れる涙を両の手の母指球で拭うけど、それでも涙は止まらない。まるでリミッターが外れたかのように、大和の瞳からは止めどなく涙が溢れ出ていた。
普段は可愛げがないのに、涙を拭う仕草はいやに女の子っぽいんだな。
やがて涙が止まると、大和はすんすん鼻を鳴らしながら俺を睨んだ。
「……お前、私が泣いてる姿をバカにしましたね?」
「え? いや、なんも言ってないんだけど」
被害妄想がすごい。今回に関しては俺に一切の非はないと思う。
「だとしても、私の醜態を目撃してしまったお前を生かすわけにはいきません。切腹か私を帰すか、好きな方を選ばせてあげます」
「帰りたいなら素直に言えばいいのに……」
大和が涙を流したことはすごく気になるけど、だからって精神が不安定な状態の相手に問い詰めるほど俺も鬼じゃない。
大和に言われずとも、今日のところはここらで話を打ち切ろうと思っていた。
「……切腹ですか?」
この大和の少し面倒な性格にもそろそろ慣れてきたな。
「切腹はご免だ。今日のところは大和を帰すよ」
「そうですか。ならば仕方ありませんね」
とか言いつつ、大和はそそくさと席を立って風気会室の扉に手を掛けた。
やっぱ帰りたかったんじゃないか。
「では、さようなら」
そう言い残して身を翻すと同時に――大和の鞄からなにかが飛んできた。
「あ、ちょ、大和っ!」
飛んできたなにかを拾い、すぐに後を追おうとしたが――広がる視界に大和の姿は既になかった。え、あいつテレポーテーションでもできんの?
「あれれ? 風紀委員じゃない子がどうして風紀会室にいるのかな?」
背後から優しく咎めるような声がした。聞き覚えのあるふわっとした声。
言い訳を考えながらゆっくり振り返ろうとすると、
「えいっ」
頬に指が刺さった。おかげで振り返ることができない。
「……なんの冗談ですか」
「ふふふ。悪い子へのお仕置きだよ」
「こんなことで許してくれるなんて、先輩は随分と甘いんですね」
「まっ、甘さだけが私の取り柄ですから」
と、頬に刺さっていた指が離される。
振り返ると――腰の後ろで手を組んで立ち、薄らと笑うポニー先輩の姿が目に映った。
「それにしても驚いたよ。まさか後輩くんが大和に告白するなんてね」
「はい?」
なんだかとんでもない勘違いをされているような気がする。
「でも、せっかく勇気を出して思いを伝えたのにフラれちゃうなんて残念だったね。お姉さんでよければ相手してあげようか?」
「いや待ってください。俺、フラれてないし落ち込んでないですよ」
どうしてそう解釈されたのかは謎だけど、このままだと話が遡行して取り返しのつかないことになりそうな気がする。俺はありのままの事実を伝えて誤解を解こうと試みた。
すると先輩はビクリと肩をおののかせて、俺から数歩距離をとった。
「……やっぱりお姉さんじゃダメだったかな?」
「どうしてそうなるんですか……」
なんでフラれた直後の男子を励ましたら私もこっぴどくフラれましたみたいな状態になってるんだよ。完全に俺が悪役じゃないか。
なんて思っていると先輩が芝居がかった表情を一転、満足そうな笑顔を浮かべた。
「毎度反応してくれるなんて後輩くんは優しいね。大和だったら私の冗談なんてことごとく黙殺してるよ」
「ならその失敗から冗談を言わないって学ぶべきなんじゃないですか?」
「いやいや、私から冗談をとったら、ただの口数の少ない女の子になっちゃうよ」
と言われたから、口数の少なくなった先輩を脳内で思い浮かべてみた。
少し高めの身長。やや豊満な胸部。無口なポニーテール。
……あれ? 普通にこっちの方がいいんじゃないか?
俺の脳内では、時折はにかむように笑うのが特徴的な清楚系ポニーテールの先輩が完成していた。時折っていうのが、無性に庇護欲をくすぐってあざとい。
「……もしかして今、私で変な想像してる?」
からかうような声が俺を妄想の世界から現実に連れ戻した。
正気になった視界に映るのは、意地悪い笑顔を浮かべながら俺の顔を覗き込む先輩。
「そんなまさか。先輩のメイド姿なんて想像してませんよ」
「メイド姿って……後輩が先輩をからかうんじゃありませんっ」
ベちっと、先輩は頬を膨らませながら俺の額にデコピンした。
「いてて。これは頭蓋骨にヒビ入ったかなあ」
「どんな脆い頭蓋骨してんのよ……はあ、まったく君はおかしな子だね」
いや、先輩の方がおかしな人だと思うんだけど?
そう言ってやりたかったけど――
夕陽に浮き彫りにされた先輩の表情があまりにも華麗で、そして寂しげな笑顔を浮かべていたから、俺は文句のひとつも言うことができなかった。
無言で先輩がなにかを語りかけているかのようで。俺は魔法にかかったように口を開くことができない。本能が今は無言を貫くべきなんだと悟っていた。
奇妙なまでの沈黙。夏風がそっと先輩のポニーテールの先端を揺らす。
やがて、先輩は意を決したようにゆっくりと口を開いた。
「後輩くん。君は大和をどうしたいの?」
ひどく冷徹な声色だった。
凜とした表情に先までの特徴的な笑顔の影はなく、大和なんか非にならないほどの極寒のオーラを、先輩は惜しみなく俺に向けていた。
「せ、先輩? 急にどうしちゃったんですか?」
まるで人格が変わったかのような先輩に、俺は少しだけ口角を釣り上げて問いかける。
きっとなにかの冗談に違いない。そう信じて……。
「いいから答えて」
変わらず冷徹な声色だった。俺の期待に反して、冷めた瞳が笑うことはない。
……どうなってるんだ?
わからない。
なにをトリガーに先輩が変貌したのかはわからないけど、今、俺の前に立つ先輩がさっきまでの先輩とは別人であるということだけは疑いようのない真実だった。
「ど、どうしたいって……俺はただ大和と撫子の関係を……」
「――修復したい。まさかそんな理想を語ったりしないでしょうね?」
鋭利な眼差しが俺を貫く。その恐怖の眼差しに、俺は無意識に一歩後退してしまった。
――けど。ここで恐怖に屈して意思とは反した返事をするわけにはいかない。
ここで先輩の意見を肯定したのならば、すべてが終わってしまう気がした。
「……先輩がどうしていきなり殺気立ったのはわかんないけど、俺は俺の意見を曲げる気なんてさらさらない。俺は――大和と撫子の関係を修復するつもりだ」
真っ直ぐに言い放つと、先輩はピクリと眉を動かした。
「それはどうして? 他人に恩を売って、満足感を得るため?」
「違う。撫子がそれを望んでいるからだ」
本当は大和と仲良くしたいのだと、撫子は昨日の放課後に思いを打ち明けてくれた。
あの迷いのない言葉には、少しの嘘もないはずだ。
「確かに、なでこちゃんはそう望んでいるかもね。でも――大和はどうなの?」
「え……」
「姉妹の関係を修復することが、『二人にとっての』正解なの?」
「それは……」
姉妹の関係を修復すること。
それが二人にとっての正解で、理想形態なのだと思ってきた。
けど――それは撫子にとっての正解であって、大和にとっての正解であるかどうかは定かではない。双子だからって、正解が共通しているとは限らないのだ。
俺は大和が撫子から距離をとった真の理由を知らない。
なにが二人の関係を絶縁させたのかも、俺は知らない。
つまるところ、二人の関係の修復こそが最善策であると断言するためには、まだ不確定な要素が多すぎるのだ。その代表格が『大和の本心』という不確定要素だろう。
俺の行動が本当に正しいのか、自信をもてなくなって逡巡していると、
「――ぷっ! はははっ! やっぱ君面白すぎるよ!」
「え?」
驚いて顔を上げると――瞳の端に涙を滲ませながら、愉悦を覚えたかのように大笑いする先輩の姿があった。
「いや~後輩くんは素直すぎて可愛いね。まさかとは思うけど、お姉さんが本気で怒ってるとでも思ってたのかな?」
声を弾ませながら、先輩はからかうような上目遣いで聞いてきた。
目をぱちくりとする今の先輩からは、つい先ほどまでの冷たいオーラを感じない。
この人、カメレオンなんですかね? 感情の起伏が激しすぎます。
「……あれは普通、本気で怒ってると思いますよ。演技、だったんですか」
「ふふ~ん。これでも元演劇部の部長だからね。演技力には自信があるのです!」
先輩はえっへんと豊満な胸を張って、高々とそう宣言をした。
おいおいあそこまで演技ができるようになるって、すごいな演劇部。
そういえば撫子と来賓用玄関を掃除したときも、賞状の半分くらいを演劇部が占めたいたような気がする。この学校の演劇部は実は強豪校なのかも知れない。
「で、先輩はどうしてその演技力を駆使して俺を脅してきたんですか」
「脅したなんて失礼な。私はただ確かめたかっただけだよ」
「確かめたかったってなにをですか?」
まるで意図がわからずに問うと、
「後輩くんの覚悟が本物かどうかをだよ」
と、先輩は言葉を一切濁すことなく答えてくれた。
慈しむような表情を浮かべながら、茜色の天を横目に映して、先輩は言葉を続ける。
「大和が目を腫らしながら風紀会室を飛び出すのを見たとき、私は何事かと驚いたよ。あの子があそこまで感情を表に出す姿なんて、年に数回しか見られないからね」
と、その先輩が何気なく言ったことに俺は違和感を感じた。
「え、年に数回は大和が取り乱すことがあるんですか」
「うん。あるよ」
先輩はばっさりと肯定した。
「……ねえ後輩くん。君には大和がどんな子に見える?」
「どんな子にって……うまくは言えないけど、強い奴だとは思います」
冷酷な態度に強気な口調。それは確かに、副風紀委員長としての威厳を保つためには必要不可欠であるのかも知れないけど、その態度をいつもいつでも変えないっていうのは、とても苦労することだと思う。
天真爛漫に振る舞うことを避け、親族であろうが他人であろうが同情することなく平等に罰を与える、なんてことは俺にはできない。俺は楽しければ笑い、苛立てば怒るし、友達であれば罪を軽くしようと当然のように試みるだろう。それが人間ってもんだ。
だから、そういった一切の感情を撤廃した大和の姿勢はある種の『強さ』の形なんだろう。ただ――それを正解だと讃えるのは間違いだと思ったし、かと言って間違いだと非難することも間違いだと思う。彼女を肯定する権利も否定する権利も俺にはない。
俺の返事を聞いた先輩は、うんと満足げな表情で頷いた。
「君ならそういうと思ってたよ。……でもね、その見解は間違いなんだ。大和と二年間、風紀委員でタッグを組んできた私は――あの子が本当は弱いことを知ってる」
「弱いって……あの大和がですか?」
大和を強い奴だと思っていた俺にとっては受け入れがたい言葉だった。
それに『強い』と『弱い』は真逆の意味合いをもつ言葉だから、俺と先輩とでは解釈が一八〇度まるで違うということになる。
「……後輩くん。長話になりそうだから始めに結論だけ伝えておくよ」
先輩はきゅっと表情を引き締めて、重々しく口を開いた。
「大和はなでこちゃんとの関係が修復されることを心の奥底で願っている」
――ぱちりと、欠けていたピースが一つだけ填まった気がした。
同時に、分散していた俺の迷いが整然とまとまり、『意思』へと姿を変える。
胸の中で止まっていたなにかが激しく流動し出すのを感じた。
「大和が年に数回取り乱すって話、あれは全部なでこちゃんのことなんだ。私は何回も仲直りしたらって言ったんだけど、あの子は頑なに私の言葉を拒否して。ついに二年間、私はあの子が苦しんでるって知りながらもなにもすることができなかった」
過去の後悔を噛み締めるように悲痛な声音でそうもらすと、先輩は両の拳を握って、
「でも、君なら――後輩くんなら、大和となでこちゃんを仲直りさせることができると思うの! 私が本気で圧を掛けても怯まなかった君なら、絶対にできると思う! それに……そのヘアピンを大和が落としたのもなにかの運命かも知れないしね」
そう言って、先輩は俺の右手に握られた『なにか』を一瞥する。
そうか。これはヘアピンだったのか。
……でも。確か大和は既にカチューシャをしていたような……。
「続きは風紀会室で話そうか」
「あれ、いいんですか? 風紀委員以外の部外者を堂々と入れちゃって」
「いいのいいの。みんなが戻ってきても私が説明するから大丈夫だよ」
「先輩の彼氏って?」
「もうっ! 先輩をからかわないのっ! さ、入った入った!」
先輩に背中をぐいぐいと押されて、俺は半強制的に風紀会室に足を踏み入れた。
よし。からかわれてばっかだったけど、やっと先輩から一本取ったぞ。
「あ、あと――」
がらがらと扉を閉めながら、先輩が思い出したように口を開いた。
「私、佐倉真音っていうの。今更だけどよろしくね」
「ほんと今更ですね……星海色です。改めてよろしくお願いしますね真音先輩」
「うぅ~いきなり下の名前はむず痒いよ~……佐倉先輩にしてくれないかな?」
「佐倉先輩♪」
「うへぇぇ! なんか気色悪い! ……やっぱどっちでもいいよ」
「あ、はい。じゃあ真音先輩にしますね」
「うぅ~やっぱむず痒いよ~」
どうしろって言うんだよ……。
こうして俺は真音先輩との距離を少しずつ縮めながら、大和についての話を聞いた。
……それにしても誰一人として戻ってこないな風紀委員。