第7話
「あんたがここでしていたこと、全部このスマホに撮っておきました」
僕は喉から無理やり声を振り絞った。
声が高いとビビっているように思われる、喉に力を込めて声調を低くしておいた。
今ここで大事なことは、とにかく僕が毅然とした態度でいることだ。
一歩も引いちゃダメだ。
状況を僕の有利な方に持っていく。
あいつを、この場から立ち去れせてしまえばそれでおしまいになるんだ。
そんな難しい話じゃない。
落ち着け。全然難しくないぞ。
できるぞ、僕でもできるはずだ。
こうなった以上はやるしかないし、できるんだ。
「撮ったって、何をだよ」
黒服の男がドスのきいた声で僕にそう言った。
「今ここであんたがしていたことですよ。・・・・彼女に何をしていたか、あんたが一番よく知っているはずだ」
声に重みを持たせろ。
それを意識しながら僕は喋る。
「彼女にひどいことをしていたじゃないですか。泣き叫ぶ彼女を無視して、あんたはやっちゃいけないことをやったんだ!」
ここで声を一段と張り上げる。
僕が強い意思を持っていることを相手に見せつけて、譲歩する気持ちが全くないことを分からせる必要がある。
「やっていないと言うなら、このスマホで撮った動画を警察に見てもらって判断を任せましょうか。それなら確実だ」
さぁ、どうだ?
ここまで言ってしまえば、流石に相手も引くしかなくなるはずだ。
状況は僕にとって圧倒的に有利だ。
僕は男の犯罪の瞬間の決定的な証拠を握っている。
そして僕は男の脅しに屈しないという態度をすでに示している。
男がとる選択肢は、もう一つしかない。
さっさとここから立ち去ることだ
僕は男のとる行動を固唾を飲んで見守った。
「・・・少年よぉ、さっきスマホで俺のヤルとこを撮ってたとか言ってたけどさあ」
男は意地の悪いにやけ面を作った。
「そんな震えた手で本当にきちんと動画を撮れたのかなぁ?」
僕はスマホを持っている手に目を移した。
震えている。
僕の右手が、遠いとこから見ても一目で分かるくらい、ブルブルと震えている。
まずい。
ここで毅然な態度を見せないと、相手がつけあがってくる隙を与えてしまう。
くそっ! 動じるな、落ち着けと頭の中では必死に繰り返しているのに、体は正直に僕のビビリ具合を外に出している。
そりゃ、こんな怖い状況に足を突っ込むなんて経験、生まれて初めてだ。
ビビるなって言う方が無理な話だ。
だけど、今だけでもいいから動じてない姿を見せないといけないんだ。
もう、やってしまった以上はそうするしかないんだ。
落ち着け、落ち着け! 僕の手よ、震えを止めろ!!
「なんだよ、めっちゃ怖がってるじゃんよ。怖いか? そんな怖がることねぇよ〜、落ち着けよ少年」
こいつ、僕が内心怖気付いているのを見て余裕を取り戻している。
いい流れじゃないぞ。相手にペースを作られるのは何としても避けないといけないのに。
「怖がってなんかいません」
「そ、そ。怖がる必要なんかないし、怒る必要もないんだよー? だって俺、君が考えてるようなことは何もしてないもん」
は?
何もしてない?
いったいこの男は何を言ってるんだ?
「・・・どういう意味ですか?」
「だから、君は俺が彼女のことを襲ったと勘違いしてるようだけど、それは誤解なんだって」
「誤解?」
「そうそう。俺は彼女と“合意”の上でヤってただけなんだよ」
男の言葉を聞いて、僕は唖然となった。
こいつ、本当にこんな言い訳が通るとでも思っているのか?
僕は男の後ろで地面に膝をついている彼女へと目を移した。
彼女の服は荒らされた跡があり、そこから肩が露出している。
腹を殴られたのか、彼女の手は腹にあてられている。
そしてなにより、彼女の顔。
そこには、紅い目から涙を流している彼女の顔があった。
それを見た瞬間、僕の手は震えを止めた。
僕の心の中に、ある感情が発生した。
それは僕がここ何年も感じることのなかった感情。
何かを考えることによってではなく、何かを感じることによってしか生まれてこない感情。
“許せない”という感情だった。
これが、合意の上での出来事だって?
こいつは彼女の顔を見てそう言ったのか?
彼女の涙を見てそう言ったのか?
こいつは、彼女をこんな目にあわせておいて何の罪悪感も感じてない。
もっともらしい言い訳を用意する気すらないようだ。
今回の件はそんな労力をかけるにすら値しないことと、この男は考えているらしい。
こんな奴がこの世に存在するのか?
ここまで腐った奴がいただなんて、知らなかった。
人目を避け続けてきた僕は、人と接触するのを避け続けてきた僕は、幸か不幸か人の醜い部分を久しく見ていなかったようだ。
思い出した、人間には見るに耐えない腐った部分があるんだ。
でも、ここまで酷いのは初めて見た。
許せない。
そのとき、初めて僕は恐怖の感情を消滅させることができた。
代わりに僕の内に生じたのは、怒りと勇気だった。
絶対に、この男から彼女を救いだす。
「合意の上・・・ですか」
「そうなんだよ。だから、そのスマホに入ってる動画は消してくれないか? 勝手に俺たちの行為を撮るのは、プライバシーの侵害だろ?」
男は明らかに作った笑みを顔中に浮かべている。
そして、両手をさすりながら徐々にこちらに近づいて来る。
「それ以上近寄らないでください」
「そんなこと言うなよぉー・・・あ、もしかして俺が君のスマホを奪うとか考えてる? 大丈夫大丈夫! 絶対そんなことしないから! 俺はちょっと君と話し合いたいだけなんだよ」
明るい調子の言葉を口から吐き出しながら、男は僕にどんどんと近づいてきた。
僕から男の距離まで、八歩・・・五歩・・・三歩・・・・そして、一歩。
僕のすぐ目の前に男が立った。
僕は喉からゴクリという音を立てた。
「君、高校生? どこの学校通ってるの?」
「・・・」
「何か部活とかやってる? 俺は昔野球やってたんだけどさ」
「・・・」
「彼女は君の友人か何かかな? だとしたら君が心配するのも無理はないよなぁ。でも安心して、ホントに俺はなんにもやってないから! 彼女に酷いことは何一つやってないからね!」
男は取り繕うような話を途絶えさせることなく、僕に浴びせてくる。
僕の注意をスマホから男の言葉に向けるためにやっているのは明らかだ。
僕はスマホを握る手にギュッと力を込めた。
男は僕の真横に立った。
僕の右側・・・それは僕がスマホを握っている方だった。
「だからさぁ、ちょっと俺の話を聞いてくれよぉー・・・・・・・・・」
男は軽い言葉の後にわずかの間を置いた。
沈黙の時間が一瞬現れた。
その時間は、男の次の言葉によって破られた。
「ガキがよぉ!!!!!!」
直後、僕の腹に鉛が落とされたような感覚が生じた。
なんだ、これ。
なんだかお腹が内側から暴れているような感じがするぞ。
僕は目を腹の方に落とした。
そこには、男の拳が自分の腹にめり込んでいる光景があった。
「ぐはっ!」
ガタタッ!
地面に硬いものが落ちた音が聞こえた。
僕がそれを確認する前に、男がそれを拾い上げた。
「ふぅ〜・・・これでお前の撮った動画を処分することができるぜ」
男は勝ち誇ったような顔をしてそう言った。
一方の僕は、腹の痛みと内側から吹き出てくる吐き気に目を揺らしながら、その場に崩れ落ちた。
『そんな・・・!! 誰かー!!!!!!!!!!』
向こうのあたりで彼女が何かを叫んでいるのが聞こえた。
僕は、人一倍怯えながら生きてきた。
恐ろしいものには、怖いものには、不安なものには触れないようにして、そうやって僕は安全な人生を送ってきた。
そんな僕がこの路地裏で、彼女が男に犯されそうになっているのを見て、即座に脳裏に浮かんだのは義憤などではない。
彼女を救おうとする正義の心などでもない。
逃げたい。
それが真っ先に浮かんできた僕の正直な心だ。
彼女を助け出そうと体が勝手に動く事はなかった。
首を絞められている彼女を見て、僕の足は止まったままだった。
僕はその場でずっと止まったままだったのだ。
けど、僕のそんな臆病な心に賛辞を送りたい。
男に立ち向かう勇気の不足と心を滾らせる正義の欠如は、僕に立ち止まって考える時間を与えてくれた。
それによって僕は思い描くことができた。
力のない僕が、この男から彼女を救う方法を。
僕は僕の考えたように動き、そして男を動かせた。
そして僕は男に腹を殴られ、スマホを奪われた。
いや、まんまと男にスマホを握らせた!
そう、これまでの一連の流れは、すべて僕が考えていたように動いていた。
・・・お腹にくらった強烈な一撃は、少々予想外に痛かったけど。
さあ、ここからが大事なところだ。
失敗するなよ、僕。
「今お前が撮った動画を消してやるよ」
「・・・それは無意味ですよ」
僕の言葉を聞いて、余裕の笑いを浮かべていた男の表情に強張りが現れた。
「どういうことだ」
「スマホに表示されている画面をよく見てください」
「ああん?」
男はギラついた目をスマホに投げ下ろした。
「これは・・・メール画面か?」
「メールになんて書いてあるか分かりますか?」
「なにが書いてあるって・・・あーっと、『僕に何かあったらこの動画を拡散してくれ』・・・・・・・・だって!!??」
男は目を見開いて僕を見た。
「どういう意味だこれは!?」
「ファイルをちゃんと見ましたか?」
「ファイルだと・・・これか」
男はメールに添付されたファイルをタップして開いた。
するとスマホはある動画を再生し始めた。
《変な抵抗しなけりゃこんなことせず普通に犯すだけで済んだのによ、お前が悪いんだぞ!!》
「!?」
《見たところお前は不法滞在者だな? 俺はそういう外人どもを裏の仕事に斡旋することとかもやってるからよぉ、そういうやつは外見を見ただけで分かるんだよ。この意味が分かるか? ・・・お前が警察に駆け込むことはできないから、俺はお前を好きなだけ犯すことができるってことだよ!!!!》
「これ・・は・・・!」
「僕がさっき撮ったと言っていた動画です」
「こいつ・・・!? まさか!」
男はメールの画面を必死の形相で凝視した。
画面の上部に、「送信済み」とのマークが表示されていた。
「あなたは僕のスマホに入ってる動画を消せばそれで終わりと考えていたようですが、もう遅いです。動画は既に僕の友人に送っておきましたから」
「てっめえ!」
男が殴りかかろうと拳を振りかざした。
怯むな! すかさず僕は声をあげた。
「メールに書いてあったことを忘れたのか!!」
男の拳がピタッと止まった。
「“僕に何かあったらあの動画を拡散しろ”メールにはそう書かれていたんですよ? もしあなたが僕のことを殴って青あざでもつけたら、それは僕の身に何かあったことの明白すぎる証拠になりますよ」
何が言いたいか?
つまり、「お前は僕に手を出すことはできない」ということだ。
この男もそれを理解したはずだ。
もう、この男は僕に何もすることができない。
「クソツ!!!!!」
男は宙に浮かせていた自分の拳は乱雑に引っ込めた。
その顔は、怒りのあまり尋常じゃないくらい震えている。
さて、勝負はここからだぞ。
この方法は通用するのかどうか・・・これは賭けだ。
普段の僕は賭けにでるなんて絶対にしない。
でも
僕は向こうで膝をついている彼女をチラッと見た。
彼女は僕のことを心配しているのか、緊張した面持ちでこちらを見つめている。
けど、彼女も何かこの場の流れの変化を感じ始めたらしい。先ほどのような怯えた顔つきではなくなっていた。
どうやら僕は彼女に期待されているみたいだ。
期待されるのは慣れていないが、ここはそれに応えるしかない。
僕は腹に手をやりながらゆっくり身を起こした。
男が感情を暴露させるかのごとく充血した目で、こっちを睨みつけている。
僕はただ、冷たい目で男を見つめ返すことでそれに応えた。