05
すっかり意気消沈したハナエは、部屋に戻り、ずっと引きこもっていた。
ベッドに潜って布団をかぶっても、先程見た光景が、聞いた声が、頭の中によみがえってくる。
不自然なほど伸びた白い髪に、枯れ果てた木のような手足。
ぼろぼろの衣服に、何か重いものを背負っているのではないかと思うほど酷い猫背。
あのような目立つ格好をした人物が、簡単に狭間の家に入り込めるはずがない。
万に一つ忍び込めたとして、急に燃え盛った頭部の炎は何だったのか。
それに、あの人物が口を開いたと同時に聞こえてきた声…あれはあのしわがれた唇から漏れたものだったのだろうか?
(あれは…何?ひと、だったの?)
もはや気のせい、勘違いで済ませられる現象ではなかった。
ハナエの知らぬ、常識では考えられない現象が目の前で起こったのである。
幽霊や、あやかし。
異質で非現実な存在が頭の中でちらつき、ハナエは一人布団の中でかたかたと総身を震わせていた。
そうしてどれほどの時間が経っただろう。
厚いカーテンの隙間から差し込んでいたはずの光が届かなくなり、布団越しにも暗さがわかるようになった。
日が沈んだのだ。
もともと薄暗い部屋だが、こうなるとことさら寂しく恐ろしい。
ふと、ハナエの部屋に向かって歩いてくる足音が聞こえて、ぎくりと体を強張らせる。
外の様子を伺うことすら出来ずに怯えていると、その足音は扉の前で止まった。
「お嬢様、入ってもよろしいですか?」
「…っ、キリオっ!」
聞こえた声に安堵し、ばっと布団をはねのけてベッドから降りた。
怯えのせいなのか足がふらつくも、何とか扉へたどり着く。
おぼつかない動作でドアノブを回した。
開いた扉の向こうには、待ち望んだ美しい少年が膳を持って立っていた。
膳の上には食事と、短いが確かに燃えている蝋燭がある。
明かりが入ってきたことに、ハナエの体は少し楽になった気がした。
「お嬢様、どうしたんですか?顔が真っ青です…」
狼狽するハナエの様子を見たキリオは、眉を垂れ下げて心配そうに首を傾げる。
その様子に妙にホッとしてしまった。
彼が膳を持っていなかったら飛びついていたかもしれない。
力が抜けて崩れ落ちそうな体を自分で抱きしめて、ハナエは「キリオ…」と弱々しく彼の名を呼んだ。
ただならぬ様子に気づいたのだろう。
キリオは顔色を変えて、「失礼します」と入室した。
膳をサイドテーブルに置き、ハナエに向き合うと目を見て落ち着かせるように語りかけてくる。
「お嬢様、何かあったのですか?誰かに、何かをされたんですか?」
「ち、違うの、に、庭に変な人が…声が…」
「ゆっくり、呼吸をして下さい。話すのは少しずつでいいですから、ね」
言われて、自分が荒く息をし過ぎていることに気がつく。
肩も小刻みに震えている。
それでも、ゆっくり、ゆっくり、と囁きかけるキリオの目を見つめていると落ち着いてきた。
彼の言うとおり深く呼吸を繰り返し、ハナエは僅かだが冷静さを取り戻していった。
やがて呼吸だけは普段どおりに戻ったハナエは、掠れる声で昼間あったことを話しだす。
どもり、また震えが止まらなくなる場面もあったが、キリオは急かすことはせずに、根気よく付き合ってくれていた。
「…その骨は、えんえん様に使ったのかもしれませんね」
ハナエの話を聞き終えたキリオが、眉間にしわを寄せながら告げたのは、聞きなれない言葉だった。
首を傾げて「エンエンサマ?」と聞き返すと、「えんえん様です」と肯定される。
少年は思い返すように顎に手を当てながら、説明しはじめた。
「僕もちょっと小耳に挟んだだけなのですが…、新しく奉公に来た女の子の故郷で流行っていたおまじないだそうです」
「お、おまじない?」
子供っぽい単語が出て戸惑うハナエに、キリオは頷く。
まじないの全容はこうだ。
まず、酒、薄荷、小さな袋、動物の骨を四本、ザクロの実と刃物を用意する。
最初の満月の晩に椀に一杯の酒を汲み、一晩月光にさらす。
次の日の夜に、月光にさらした酒に薄荷を入れたものを飲む。
そして布の中に乾かしたザクロの実と骨を入れて口を縛り、一晩抱えて眠る。
翌日朝早く、家の東西南北で骨を焼く。
最後に家の中で実を焼き、用意した刃物で袋を二つに切る。
するとえんえん様と言う神様が願いを叶え、運命の相手を自分の身近に寄越してくれるのだと言う。
焼かれた骨、と言う単語に庭で見つかったもののことを思い出し、ハナエはなるほどと納得した。
「奉公人の誰かが屋敷の中でそのおまじないをしたのかしら…」
「庭で見つかったと言う骨はおそらく、おまじないのものでしょう。運命の人を見つけるんだとはしゃいでましたし」
「じゃあ私が庭で見たものがえんえん様だったのかしら…?」
「いや、流石に神様が見えたというのは非現実的だとは思うんですが…もしかしたら」
キリオが半信半疑ぎみ、あいまいに首をかしげる。
確かに実際に彼が見たわけではないのだから、断言出来るわけもない。
えんえん様。
願いを叶えてくれる神様なら、危険は無いのか…と考えてしかしハナエは、何となく違和感を感じてうつむいてしまう。
神様なんて曖昧なものが、本当にこの世に存在しているのか?
存在していたとして、おまじないをしたところで、あんなに簡単に見えるものなのか。
それに、運命の相手と会いたいと言う健気な願いを叶える神様にしては、ずいぶん恐ろしげな姿をしていた気がする。
神様、なんかよりも禍々しくて不吉な、うろんでうつろな何か…そう呼ばれた方が『あれ』には似合っている。
昼間見た白い姿をまた思い返してしまい、ハナエは今一度ぶるりと身を震わせた。
再び怯えはじめてしまったハナエに、キリオは焦ったのかすみません、と首を横に振った。
「不審者がいた、と言うよりマシかと思ったのですが…ごめんなさい。逆に怖がらせてしまったみたいですね」
「ううん、いいの。…そうね、泥棒や強盗の方が怖いわ…」
弱々しく微笑むと、キリオはもう一度「すみません」と言って微笑み返す。
「本当に不審者がいたのかもしれませんし、一応気をつけるようにします。お嬢様は何も心配することは無いですよ」
「ありがとう、キリオ」
優しく穏やかで、美しい笑みの少年に、ハナエが抱える怯えがふと軽くなった。
わけのわからぬ存在は未だ怖いが、今は少なくとも自分を心配してくれる人がいる。
それだけでずいぶん心強くなった。
「さあハナエ様、夕食にしましょう。お味噌汁とご飯とお野菜がありますよ」
「わあ、お味噌汁なんて久しぶり!」
キリオの言葉に、改めてサイドテーブルに置かれた膳の上を見る。
茶碗によそってあるのは白米、となりの椀には豆腐の入った味噌汁があった。
野菜は朝の残りの煮物らしく、温め直されているのか、まだほっこりとした湯気が出ている。
その温もりと芳しいだしの香りに、ふと腹が減っていることに気がついた。
無様に腹の虫が鳴ることは無かったが、思わず腹部に手を伸ばす。
薄い皮膚の下で、胃袋がくるくると動いているような気がしていた。
一連の動作を微笑ましく見ていたキリオは、膳を持ち上げ、朝の時のように床へ降ろす。
「これも分けて食べましょうね、さあハナエ様、こちらに腰掛けて」
「…うん!」
キリオに手を取られ、ハナエは膳の前にお姫様のように座らされた。
彼の動作がやっぱり王子様のようで、うっとりと目を細める。
満足じゃなくとも、分かち合うことの幸福感。
目の前にあるものが優しすぎて、ハナエの顔は恐れが完全になくなった。
それを見て安堵したのか、キリオの表情がさらに柔らかくなる。
薄暗い部屋には、久しぶりの明かりが灯り、笑い声が響いていた。