04
キリオの用意してくれた食事は、味噌と、魚のだしで味をつけた根菜を煮たもの。
それから魚の干物があった。
急須に入った熱い茶も持ってきてくれたので、漬物とともに冷やご飯にかけて茶漬けにし、これらを二人で頂くことにした。
行儀が悪いが絨毯の上に腰かけ、キリオと向かい合って古びた膳を囲む。
煮物はよく火が通っているのか、箸でつまむとほっくりと崩れていく。
だしの味が染みた大根など、幼い日から口にしていない。
それから、干物であっても魚介なんてまた食べられるとは思わなかった。
大根を咀嚼し、ハナエはしみじみと呟く。
「美味しい…」
「それは良かった…。こんなに少なくてごめんなさい」
「ううん、充分よ。ありがとう」
礼と共に微笑んだつもりだったが、不自然に頬がひきつる。
長く顔の筋肉を動かしていなかったためである。
不細工だっただろうなと恥ずかしくなったが、すぐ前に座るキリオは優しく微笑み返してくれた。
「晩御飯も持ってきます。また一緒に食べましょうね」
「…ええ」
彼のしていることが知られれば怒られる…その考えは相変わらずハナエの中をぐるぐる巡っていた。
しかしキリオの態度と言葉が心地よく、否やと言いたくは無い気持ちが前へ出る。
慣れていたと思っていたのに、自分はここまで人の優しさに飢えていたのか。
そう感じて、ハナエは目の前で茶漬けを咀嚼するキリオの顔を密やかに見つめた。
◆
腹が満たされたためか、気分が少し上向いたハナエは部屋の外を出歩いていた。
食器を片づけたキリオは、そのまま仕事に行ってしまっている。
残念に思ったが、いつまでも己と一緒にいさせるわけにもいかない。
割り当てられた仕事もあるだろうし、ハナエの面倒を見ていると知られれば両親とカナコに何をされるかわからない。
だが引き止めたいと強く思うほど、キリオは魅力的な少年だった。
彼の仕草と王子様のような顔立ちを思い返し、思わずうっとりとした気分になってしまう。
「…夜にも会えるのかしら」
晩御飯も持ってくる、と言ってくれた。
誠実そうなキリオだから、きっと反故にされることはないだろう。
その約束があると言うだけで、今日を過ごすことに希望が持ててしまう。
顔に不器用な笑みが浮かんだ。歩く足取りも少しだけ軽くなっている。
もっともハナエが歩くことを許されている場所はわずか。
人目の付かない庭の隅に行って日向ぼっこでもしようか…そう考えて、廊下のかどを曲がろうとした時だった。
「ねえねえ、聞いた?骨の話?」
廊下の向こうから声が聞こえて足を止める。
かどからそっと顔を出して覗くと、作業服の女性奉公人が二人洗濯物を抱えたまま立ち話をしていた。
「知ってるわ、焼かれた骨が庭で見つかったんでしょ。何なのかしら?」
「別々の場所で四つ、全部鶏の骨だったみたいよ。いやねえ、怖いわ」
「誰かのいたずらじゃない?外から投げ込んだのよ」
年若い奉公人で、ハナエも知っている顔である。
二人とも眉間にしわを寄せつつも、好奇心を抑えきれない表情をしている。
仕事中の立ち話は叱るべきなのかもしれないが、確かに気になる話ではあった。
(…骨?庭にそんなものが?)
旦那様はどうなさるつもりかしらと立ち話を続ける奉公人たちを放って、視線を窓へ移す。
うららかな日差しが差し込む、綺麗に手入れされた狭間家の中庭が見える。
とてもそんな不気味なものが、放置されていたようには思えない。
奉公人たちではないが、ハナエも話の詳細が気になってもっと庭がよく見える窓へと廊下を移動する。
ガラス越しに見える庭はやはり穏やかそのもので、いたずらで何かを投げ込めるような雰囲気ではない。
(…このあたりでそんないたずらする人がいるかしら?いやがらせ?誰かの恨みを買ったとか?)
狭間家が建っているのはオウラン国の首都の中でも一等地、まわりには旧大名家や爵位を賜った家しかない。
もちろん犯罪が無いわけではないが、基本的に治安がいいのだ。
ぐるりと視線を庭中に巡らせて異変を探すが、件の骨らしきものが見つかるはずも無かった。
もうすでに、片付けられているに決まっている。
僅かに落胆しつつ、視線を室内に戻そうとした刹那―――それ、は唐突に視界に入ってきた。
乱れに乱れた、白い髪。
顔だけでなく背中まで覆い隠したそれは、膝につきそうなほど長い。
もはや髪の毛と一体化しているかのような簡素な白い服も、汚れ擦り切れ乱れている様子だった。
髪の毛から覗く肌は蒼白を通り越して土気色で、手足も枯れ木のように細い。
足は傷だらけで、爪はひび割れている。
髪の毛のせいか、うつむいているせいか、表情は見えなかった。
おまけに酷い猫背であり、背の高さもわからない。
そして不思議なことに、ハナエにはその人物が男性なのか女性なのか、若いのか年寄りなのかも判断できなかった。
どちらにも見えるし、どちらにも見えない。
わからなかった。
ただ瀟洒な貴族の庭には似つかわしくない、それだけが断定できる。
(…だれなの?)
氷にでも触れたかのように、ハナエは背中がぞっと冷たくなるのを感じた。
間違いなく先ほどまで、そこには誰も立っていなかった。
不審者だったとしても不自然すぎる。
誰かを呼ばなくては、とは思いはするが、まるで縫い付けられたように視線が、そして体がそこから動かなせなかった。
脂汗をかくハナエの前で、その人物はゆっくりと、しかし確実に前に…こちらから見て左へ左へと進んでいる。
ずる、ずる、ずる、と足を引きずる音が、ガラス越しに聞こえてきそうだ。
口の中がからからで、唾液を飲み込むことも出来ない。
叫んで、逃げ出したい。
しかし願いは叶うことなく、その人物はぬるりぬるりと歩を進め、ハナエのちょうど真ん前で止まった。
まだ植えたばかりの、細く小さな木があるところである。
木の陰に隠れるように、その人物はしばらくぼんやりと動かなかった。
一瞬とも永遠ともわからない時間が過ぎ、自らの荒い呼吸の音だけが空気にしみこむように響いている。
ばくばくと鳴り響く心臓を抱えたハナエの頬を汗が滑り落ちた、その時だった。
何の前触れもなく、ぼっと、その人物の頭に火が付く。
「…え?」
思わず声を上げてしまう。
周りに火の種になるようなものは一つも無かったはずだ。
だが確かにそれは火だった。
朱色の火はやがて炎になり、めらめらと小さな頭部を侵食していく。
呆然とまたしばらく見つめていたが、件の人物はまったく熱がるそぶりを見せない。
不思議なことに炎は髪の毛や服には燃え移らずに、顔だけを包み込んでいった。
手妻の類か、幻覚なのか。
あまりに常軌を逸した光景にハナエは怯えることも忘れて見入っている。
やがて炎は燃え尽きたらしく消え、残ったものは本当に枯れ木のような色になってしまった皮膚。
刹那、ぐうるりとまるで壊れたからくりのような動きで、その人物の顔がこちらを向く。
ぽろぽろと黒い皮膚から何か欠片のようなものが、剥がれ落ちた。
髪の毛の間から覗いた唇は真っ黒に焦げている。
それがゆるりと開かれた。
「混じれ」
その声は耳元そばで聞こえた。
「…っ!きゃあああああっ!!」
吐息のかかった耳を押さえ、弾かれたようにハナエは前のめりに倒れる。
男とも女ともつかない、奇妙な声だった。
今日の朝、居間で聞いたものと同じで間違いない。
「あああっ、ああああ、ああああ!!」
混乱したハナエは手や足を振り乱しながら、後ろへ後ろへと体をずらして逃れようとした。
しばらく半狂乱で暴れていたが、しかし、何も起きる気配はない。
少し冷静になったハナエは顔を汗だくにしながら、ゆっくりと顔を上げる。
当たり前のようにそこには誰もいなかった。
恐る恐る立ち上がり、周囲を見回す。
声はもちろん、人の影も気配すらもない。
窓の外に視線を移せば、いつの間にか庭にいた人物も煙のように消え去っていたた。