02
平良リョウジ。
隣家に住む平良伯爵の三男坊で、現在は大学で父親と同じ官吏となるために勉学に励む青年。
何処となく子犬めいたおっとりと整った顔をしており、年頃の少女たちの間で話題に上ることも多いという。
狭間家の父とも面識があり、姉カナコの婚約者。
…そしてハナエの初恋の男であった。
初めて彼と出会ったのは、10年も前になる。
その時すでにハナエは家族からは見放され、カナコと差をつけられる日々だった。
与えられない食事に、みすぼらしい衣服。肌はぼろぼろで、ひっつめて結んだだけの髪の毛は艶がなかった。
そんなハナエを放って置いて、カナコを含めた家族は庭先で微笑みあっている。
寂しくて耐えきれなくて、家の影で隠れて泣いていた。
それに気が付いたのが、隣家に住むリョウジ少年だった。
「どうしたの?」
みすぼらしく、見るに堪えない少女に、少年は気兼ねなく声をかけてくれた。
彼はしゃがみ込むハナエに視線を合わせ、大丈夫?泣かないでと、慰め続けてくれたのだ。
それから、二人は親しくなった。
よく一緒に遊び、笑いあい、満足に食べられていないというハナエのために、リョウジは菓子を持ってきてくれることもあった。
思えばこの時が、ハナエの人生で一番幸せな時間であった。
しかしそれも、数年経たずに打ち砕かれる。
カナコがリョウジに目を付けたのだ。
いつの間にか姉とリョウジは婚約関係になり、彼は美しく明るいカナコに夢中になる。
結局彼も、姉の元へ行くのか…あまりにも残酷な現実に、ハナエの心はずたずたに切り裂かれてしまった。
◆
狭間ハナエが生を受けた国、オウラン国では自然信仰から発展した教えが盛んである。
山や森、川から空気にも精霊が宿り、世界を動かしていると言う考えが一般階層にも浸透しており、ハナエの家にも自然神を祀る神棚があった。
家族がいつも揃う居間の一番明るく風通しの良い天井に棚板を吊るし、小さな宮形は乗せられている。
外つ国を真似た建築の居間には不釣り合いだったが、この地域にそんな些細なことを気にするものはいなかった。
祀られている神に今日も手を合わせ、ハナエの一日は始まる。
(今日はどうか何も…何も起きませんように)
家族に存在を疎ましく思われていることは、もう充分わかっていた。
それでもこうして、せめて今日だけはと何かに祈りを捧げずにいられない。
ハナエ自身が、両親とカナコに心を乱され深く傷つくことを恐れているからだった。
――― 今まで一度だって、神様はハナエを助けてくれたことは無かったけれど。
目に見えない不確かなものにすがらないと、毎日を送ることが出来ない不甲斐ない自分に腹がたつし、情け無い。
かすかな希望にすがるように、ハナエは合わせた手を下ろして神棚を見上げる。
狭間家にある神棚は、ぐっと悲しみを堪えたせいかじわりと景色とともに滲んでいた。
溢れた涙がこぼれないよう神棚と見つめあっていると、ガチャリと重い金属音が部屋に響き渡る。
静かで哀愁に満ちた空気を打ち壊したそれは、ドアノブが回る時の特徴的なもの。
涙が乾いたあとで良かったと胸を撫で下ろしながら、ハナエは扉を振り返った。
「おはよう、ハナエ。今日もいい天気ねえ」
開けられた扉から顔を見せたのは、カナコだった。
天真爛漫そうな笑顔と、生き生きと輝く瞳。目の周りを囲む長いまつげ。
きめ細かい肌と、手入れの施された長い黒髪は育ちの良い証拠である。
少しだけ気が強そうだが、しとやかな美人と言う印象を受ける…それがハナエの姉、狭間カナコという女だった。
こちらを真っ直ぐに見つめる彼女は、良家の子女らしく外つ国のワンピースを身にまとっている。
薄紅色の布地で上品な仕立てになっているその裾がひらりと揺れるのを見て、ハナエは途端に自分が恥ずかしくなった。
ねだり上手なカナコは毎月のように新しい服や着物を買い与えて貰っているが、ハナエの持ち物は薄い着物が数枚である。
ここ最近では、新たな衣服をお下がりでさえ貰えたこともない。
着回し続け、すでにボロボロになって見るに耐えない自分の姿。
美しいカナコの前にさらすのは、あまりにも惨めであった。
耐えられなくて姉から視線を外すと、こちらの心情をわかっているのか彼女は笑みを崩さずに近づいてくる。
無視することも出来ず、ハナエはおずおずと口を開いた。
「…おはよう、カナコ。そのワンピース、綺麗ね」
「この服、初めて見た?ふふ、リョウジさんに買って貰ったのよ」
「!」
出された名前に思わぬ衝撃を受けて、ハナエは動きを止めてしまった。
カナコは己のすぐ前まで来て、顔を覗き込むように屈みながら続ける。
「リョウジさん、凄く良い方で優しいの。きっと私たち幸せになれるわ…」
「…それと私と、何の関係があるの?」
「ふふ、ハナエ。貴女のおかげよ」
何を。
あまりな言葉に、ハナエはカッと頭に血が上って思わずカナコを見返した。
姉は目を意地悪げな逆三日月型に細め、笑みを深めた。
表情を無くしたハナエを見つめ満足したのか彼女は、新しいワンピースを自慢するかのようにヒラリと裾をひるがえし去っていく。
自信が溢れるその足取りを、ハナエは呆然と見送るしか出来なかった。
嘲笑われたのだ。
そう気が付いたときにはカナコは既に居間から退出しており、ただただ虚しい静寂が残るのみ。
ぐっと胸がつまって、それでも全てを振り払うようにハナエも扉へ向かった。
これから朝食だが、自分が食卓へ向かうことは許されていない。
後で残飯のような食事が女中の手によって自室に運ばれてくるだけだった。
―――神様に祈ったって言うのに。やっぱり神様は助けてくれないんだわ。
「混じれ」
え?と顔を上げて背後を見た。
そちらから声が聞こえたような気がしたのだ。
当たり前だが自分の他に、居間には誰もいない。
だが部屋の中に何の変化もないことを、ハナエは驚いてしまっていた。
確実に誰かが、呼吸を感じるほど近くで声を発したと思ったからだ。
男とも女ともつかぬ、不思議な声色だった。
心当たりはない。
家族でも使用人たちのものでも無かった。
誰かいるの?と問いかけようとして、やめる。
自分以外の人間が居間にがいるはずがない。入ってきたときに、誰かの影は見なかった。
背筋にぞっとしたものが走ったが、気のせいだと自分に言い聞かせて早足で扉へ向かう。
焦る気持ちを抑えてドアノブに手を伸ばした、刹那、背後から硬い何かが弾ける音がした。
「きゃっ!」
悲鳴を上げて、ショックでずるりとドアノブから手が外れてしまう。
あまりにも突然で、攻撃的な音だった。
間違いなく後ろに、己を威嚇し、危害を加えようとする恐ろしいものがいる。
先程のこととも相まって、肝を握りつぶされたように身が縮こまる。
ハナエはその場に屈み、背後を振り返ることも出来ず震えた。
しかし暫くうずくまっていたが、追って何かが迫ってくることは無い。
ただ自分の荒い呼吸の音が響いているだけだった。
恐る恐る振り返る、が、やはりそこには日常と何も変わらぬ居間があるのみ。
呼吸を整えつつ部屋の中を見回して、ハナエの目が捉えた違和感は絨毯の上にあった。
「…鏡?」
毛足の長い絨毯の中に埋もれるように、鈍く輝く欠片が落ちている。
見間違いでなければ、それは砕けた鏡の破片だった。
先程の破裂音はこれが壊れたせいだったのか。
しかしいったい何処から…と考えて、ふと天井を見上げる。
吊るされた神棚、その神具の中に小型の神鏡が添えてあったはずだった。
それが壊れ、砕け落ちたのだ。
なんだ、と安心するとともに、どうして急に鏡が落下したのか疑問に思う。
しかも壊れ方が奇妙だ。
落ちて砕けたと言うよりも、神棚の上で弾けて飛んだ。
…絨毯に散らばる破片を見ると、そんな感じがしてくる。
たがあまり深く考えると、思考がとても恐ろしい所にたどり着きそうで、ハナエは首を横に振りながら立ち上がる。
一瞬壊れた神鏡を片付けようとも思ったが、その場にいることが出来ずに部屋を出た。