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寒い。首が痛い。手の感覚がない。
……しょぼしょぼした目をこじ開けるとテーブルの上に突っ伏していた。もちろん、電気もつけっぱなし。時間を見ると11時。そんなに寝ていなかったようだが、体がすっかり冷えて、首も痛いし、手がじんじんしびれている。
「やばいっ!」
幸は慌ててパソコンのディスプレイを見た。スリープ状態で真っ黒になっている。
マウスをくるくるさせて画面を表示させると
『起きたらラインいれてねぇ』
とウルフからラインのIDを付けたチャットが入っていた。
幸は頭を抱えてしまった。
「私のバカ! 酔っぱらって写真送っちゃった! 消えてしまいたい!」
すっかり酔いもさめて青くなったり赤くなったり、どうしよう、どうしようとうめく。
「起きたらって、もう11時だし、いくら何でも遅いしやめておこう」
あまりにも恥ずかしすぎて、ベッドに潜ってからも思い出す度に悶えて眠れない。これではTDGにも顔をだせない。ラインはもってのほか。なかったことにしたい、なかったことにしたい…。
あんなに楽しみで生活の中の潤いだとか活力だとか自分の唯一の居場所だと思っていたTDGが、自分の失態で自分で首を絞めてしまった。しかたない、しばらくTDGを我慢しよう。
眠れぬ夜を過ごしたので、なんとなくダルくて頭がぼんやりしている感じがする。パソコンをみてため息をついた。手がうっかりパソコンをさわろうとするのだ。両手をグッとにぎりしめて、
「がまん、がまん……」
幸は自分に言い聞かせた。
「そうだ、うちにいないでそとへ出掛けよう。
たまには引きこもらないで外をみるのもいいよね」
あまり人と関わりたくない幸は、買い物や用事がなければ、アパートにこもっている。もちろんパソコンで好きなことをしているので、なんの問題もないと思っていた。今回は別だ。パソコンには触れない。
出掛けることに決めたら、行動は早い。
暑くもなく寒くもない、中途半端な季節。
薄手のワンサイズ大きめトレーナーをざっくりとかぶり、ジーンズ調のスリムパンツにはきかえる。
さっさと顔を洗い、髪の毛をセット。幸の髪の毛は肩につくかつかないかの長さだからささっとすくだけ。
化粧はしないが日焼け止めクリームはぬっておく。かるく色づきリップクリームをぬり、それでおしまい。
用意が出来ると、鞄のなかの必須道具を確認する。スマホの充電器が入ってるか、お財布の中身は大丈夫か、メモ、筆記用具、補聴器の電池…。聞こえない幸には他者とのコミュニケーションを取るには、道具がかかせない。スマホのメモ機能で注文したり、質問したりする。スマホに慣れていないひともいるのでメモ帳で筆談する。
「よし!」
自分を励ますように、アパートのドアをあけた。
近所ではなく、たまには東京にもいってみようか。本屋も充実しているし、カフェでのんびり読書するのもいい。
駅につくまでに、今日の予定を決めることができた。Suicaのチャージは大丈夫だっけ、と思いながら路線図をみる。本屋なら神保町だよねぇ。
「ほわぁぁぁ…」
地下鉄出口から地上にでると、高いビルが連立し、沢山の人と車が行き交っている。さすが都会だ。
人にぶつからないように、キョロキョロしながらあるくと、さっそく目当ての本屋が見つかった。書泉グランデ。そこと三省堂はどちらもまだ行ったことがなかったから行こうと決めていた。近年、本屋さんがだんだんなくなってきて、手に取って吟味する楽しみがなくなってしまった。幸の実家のあるA市もいまでは駅ビルの中にしかない。嬉々として書泉グランデの入り口にはいり、フロア案内をみる。
本当なら上から下までぐるっと回りたい。タイトルだけみるのも面白い。難しそうなタイトル。作家の名前もなかなか意外性があったりする。ペンネームか、本名か。想像しながら回るのですごく時間がかかってしまうのだ。
本屋探索は三省堂のほうにとっておいて、ここは文庫本コーナーだけにしておこう。文庫本コーナーで好きな作家の新刊をチェックしていたら気になる本を見つけた。法廷の手話通訳士の物語でミステリーもの。即座に購入を決めた。
満足して次の本屋へ向かう。三省堂では、大きくスペースをとっているコーナーがあった。新しいレーベル本がたくさん出ていて、新しい作家さんもたくさん。漫画のようで漫画じゃない。これも楽しそうと、食指が動くものを厳選して選んだ。あれもこれも買いたかったけど重くなるし予算もある。パソコンから離れるためのきっかけとはいえ、まずはお試し的な感じで読書しようと思ったので5冊にとどめた。
次はゆっくり落ち着けるカフェ探し。散歩気分でぶらぶらしよう。流れの早い人の波にあおられないよう道の脇に寄ってのんびり歩いた。大きな道をそれ脇道に入ってみると、ぎゅうぎゅうとお店が並んでいる。そのなかに2階までカフェになっていて、2階の窓側はカウンターで外側がみえるようになっている。幸のいるところから2階の窓側の空き具合が見える。それを確認してから、注文口でスマホの画面を操作し、「アイスカフェオレのグランデ1つ」と打ち込んだ画面を見せた。店員は笑顔でうなずきすぐに注文のアイスカフェオレを作って手渡しながら「ストロー、ミルクなどはこちらにありますのでどうぞ」といいながら指さししてくれた。幸はうなづき、受け取りながらストローだけを取って、目当ての階窓側端っこに座った。最近は、一人でカフェに行くのも慣れてきたし、こうして本を読んだり上から人の流れをぼーっと見るのが好きだ。
最初に選んだ本は思いの外面白く夢中になった。
気がついたらすっかり時間がたっていて人も混み始めてきた。
本はこれから佳境にはいっていくところで面白くなっていくところなのだが、さすがに長居しすぎた。ここは諦めて出よう。
アイスカフェオレだけではおなかもすいてきたし、本で散財して思いのほか重たい。
幸い、選んだ本は夢中になれそうだから帰宅してもパソコンに触らなくて済むだろう。そう考えて帰宅準備をした。店の外は数時間のうちに人の波が増えている。その波に逆らうように地下鉄の出入り口を目指した。
帰宅して、早い夕ご飯を食べると、そのまま本を読み始めた。
幸、逃走の巻です。
聴こえない人の持ち物はみんな工夫していると思うんですが、私はこの幸のように用意しています。
注文もメモ画面を見せています。口答で確認されてもわからないので。
そういえば、ラインって電話番号でしたっけ?
私はガラホなのでわからないんですよね。
スマホ同士で送信して登録なんてのは見ましたが、どうやって設定していたか知らないんです。
もし、おかしければ教えてください。
東京の本屋さんはいいですね。運が良ければ作者さまのサイン入りもあります。
ちらっと書いた本は実在します。
丸山 正樹さん、『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』 文春文庫
聴覚障害者のことや通訳者のことなど、リアリティーに富んでいます。