大衆文化と選択の苦痛
まず何から話せば良いのか。まず常識を変えろからかもしれない。古典的な小説の良さとかまず捨ててくれ。文章がうんたらなど実に下らない。もちろんそれを尊重する価値も私は認めてる。だが多数派に受けたいならそれを引っ込めてくれ。人間には許容範囲がある。大谷みたいな優れた人間もいるが文章を犠牲にして内容を高めて欲しい。凡庸なものは能力は特化すべきだ。
私が漫画物語に特化した物語の特別性を元に新しい創作論を作ろうとしている。良く漫画の話しでコマワリやコマによる場面の進め方などあるが、ああいうものじゃない。細部じゃなくて大枠でざっくりと違いを語ろうとしてて、その方が実際重要だと思ってる。その前段階で、そもそも文字以外で物語に触れる人の方が多いのに、いつまでも文字物語の良さに拘ってる人達に意見したい。
古典的な物語はやはりまだ貴族趣味、エリート層の楽しみの面が強い。一般化した小説も結局はその流れのままだ。ラノベにさえその影響が見える。文章が本格的に読めれば良いと割り切ってるのはなろうぐらいしか見受けられない。そもそも台詞以外、大半が全く違う表現方法になる文章に拘るって私から言わせればゴミの発想だと思う。
文字物語は今は他メディアの原作としての価値しか無いと思ってる。あくまで大衆向けにはである。これも前と繋がなければならない。今の物語のあり方はエリート貴族文化ではなく、大衆文化の延長にあると言うこと。新しい価値観が生まれたのに、文字物語はながらくなろうまで、エリート貴族などの特殊少数層への価値で形成されていた。
これをなんと言えば良いか?と考えると芸術志向なのではないか?と思う。大衆性はやはり娯楽志向と呼べば良いのかもしれない。根本的に時代が進んで全く違う文化も触れてるはずなのに、文字物語は近代初期の価値観を引きづったまま戦後をすごしてきたと思う。分かったつもりで要る大衆文化が多分理解できてない。
その大衆文化からさらに発展して、大衆化したまま細分化すると言う複雑な展開を魅せている。まさに現代のオタクが過去のオタクと異なるのはこれがある。反芸術性というより、非芸術性を帯びたまま価値の高さを求める層。一般大衆という言葉すらすでに時代遅れだ。だが文字物語の価値観はその前の芸術志向のマニア層でとまっている。
なろうで違った価値観が見えるのは、それは無意識に文字物語以外の物語の価値を物語全体で勝手に統一してしまってるだけで、実際文字物語限定でおかしいずれてると感じ取ってる人は少ない。その理由は多分エッセイで創作論を呼んでいる読者の年齢が高いと思われる。過去の価値観のまま認識を改めてようとして無い。
まずはこの大衆性からスタートしなくてはならない。大衆性の中でとても重要なのは、選択する事が面白さに入ってしまってて、それに無自覚だという事。そしてそれがそれなりにマニアックな人もあまりしらない。それは何故か?それはマニアックな人は選択の苦痛をあまり感じて無いからになる。他人の気持ちが分からない。
ここで一度最近感銘を受けた水源さんのエッセイについて書く。私は常日頃から創作論はよいものに刺激を受け手発展すべきだと思ってる。その例として使ってみたい。その中で、受け手にとって読書は理解に時間を他メディアより要する、たいして作り手は他メディアより数多くの物を量産できる。
そこで私が発展させるのは、これは受け手に選択の苦痛が他メディアよりより増えるって点。そもそも、大衆文化がスタートだと書いたのは、大衆文化は創作物を増やす傾向がある。何故か?受け手の数が多いからになる。確かに印刷と言う形で大量生産がコピーによるものという部分もあるが、好みの細分化はやはり数の増加に比例する。
次に産業としてつぎ込まれるお金の規模がそれなりに多くなる。一つの作品作家にたっぷりとつぎ込まれる過去の芸術志向のありかたとは変わってくる。大衆文化は選択の苦痛が常に発生しやすい。さらになろうはそこに、他メディアと比べた選択苦痛の強さが激しい。それはなろうは面白さの根幹に選択が複雑に交じり合って読者がもう認識できないほどになってると私はズット書いてきた。
その原因が、水源さんによってすっきり解き明かされたことになる。
これ能動的に選ぶ事が多い。選択が面白さに加味されない層が居て何故人はランキングを求めるか?が分かってない。ランキングに絶対的な価値があるなんて誰もおもってない。一部勘違いしてる人がいるが、凡庸な知性でもそれはすぐに分かる。大事なのは、だからってランキング以外から選んで選択の苦痛を軽減できるほどの面白さがあるのか?なら誰も同意し無いだろう。
だが多くのそれが分からない人はランキング以外の選択の話をする。内容の純粋な面白さに逆にこれは固執して多数派の面白さについて本質が見えなくなってると思う。選択の苦痛に今のなろうに単純に批判的名人は、多分鈍感だ。それに敏感な人の気持ちをもっと考えたほうが良い。
今のなろうを変えようとするときに、自分の価値観に固執しすぎる。こんなのじゃ何も変化するわけが無い。もちろん私はそういった価値を生かすために別のものを考えている。この人達も読者が増えて欲しいのは確かだ。だが問題は、今の多数派がそのまま受け入れることは絶対にない。
その補償として、最低限の読者だけでも確保しようと言うのと、レビューや感想評価では数が少なすぎるからもっと強力な導線として、少数精鋭ランキングの提示と、これが多数派を動かす可能性があると見ている。
何故か?選択の苦痛が軽減されるからだ。批判的な人達が、きちんと選んで絞ってくれたというそこに選択の代替機能があるからだ。今のレビューなどではそれが弱すぎるし、読むのも面倒だ。次に、評価は全員参加で集計されるため多数派の選択の苦痛に対する面白さの混濁によってかき回されるからだ。
もっと今のなろうを変えようと思うなら多数派が抱える選択の苦痛を理解すべきだ。大半の人間は文字物語のマニアじゃないんだから。マニアである時点ですでに選択してるんだ。だから自分が解放されてる事を考慮しなくてはいけない。