時速40kmの失恋
今朝の目覚めはすこぶる悪い。昨晩飲んだ酒の影響で頭がガンガンし、おまけに吐き気まで。春休みだからと言って少し飲みすぎた。まあ、いまさら後悔したところでどうにもならないのだが。
俺は頭を抱えながらベッドを出ると、そのままトイレに向かい、腹部からこみあげてくるものをそのまま便器にぶちまけた。内臓まで出てしまうのではないかと思えるほどに、苦しくて、痛かった。
吐き気が一段落し、ひとまずトイレから解放された俺は、まず歯をガシガシと磨いた。蛇口をひねり唾液を吐きだすと、ドバっと赤い液体が吐き出された。
「歯磨き粉ってこんな色だっけか」
自分でも引くほどに真っ赤な唾液だったため、少し背筋がドキッとした。顔をあげ、口を大きく開けると、鏡には今にも泣きそうな、間抜け面が見えた。
「ひどい顔だ」
顔だけでなく、口の中もひどかった。力任せに歯を磨いたせいで歯茎のあちらこちらから出血していた。だが、幸いにも傷は小さかった。
「これくらい、唾つけとけば治るか」
歯ブラシを置くと、手を合わせて水をため、うがいをした。案の定傷口にしみて猛烈に痛かった。
10回ほどうがいをしてから歯茎を見ると、出血は少し収まっていた。
「よし」
キッチンに向かうと俺は一口水を飲んだ。少し沁みて痛かったが、まあなんとか飯は食えそうだ。
とりあえずトースターの中にパンを放り込むとメモリを2に合わせ指を放した。トースターはジジジと音を鳴らしながら熱を帯びていく。その間にケトルに水を入れ、火にかけた。
食器棚を開き、取り出したマグカップにポタージュの粉を入れた。少しすると、チン!と元気な音がトースターから聞こえた。蓋を開けるとパンはこんがりと焼けていた。それを皿に移すと、作業台体重を預け呆然と立ち尽くした。体は鉛のように重く、意識も虚ろなのに、気持ち悪さと頭痛だけはしっかりと感じ取れた。ふと手元を見ると、日本酒の瓶が目に入った。
「むかい酒」
ちらりとそんなことが浮かんだが、やはりやめておくことにした。前に一度やってみたことがあったがあれは地獄なんてものじゃなかった。二度としないとあの時、俺は誓ったんだ。
手に持ったコップにレモンティーを注ぎ、一気飲みするとちょうど湯も沸いたようで、ピーーーと甲高い音が部屋中に鳴り響いた。つまみを回し火を消すと、部屋は再び静寂を取り戻した。
マグカップに湯を注ぎ、パンを乗せた皿を持つと、俺はリビングの机に置いた。座椅子に座ろうとしたが直前でフォークを出すのを忘れていたことに気が付き、もう一度体に力を込め直した。
「フォーク、フォーク」
食器棚を探してみるが、フォークはなかった。
ちらりと流し台を覗き込むと、昨晩食べたカルボナーラで油まみれになった皿のど真ん中に奴はいた。袖をまくり、スポンジを握る。フォークだけのつもりだったのだが、いつの間にか流し台の中はきれいになっていた。
「やりすぎたな」
少々の後悔と達成感を胸に抱いて座椅子に座った。
「あ、フォークわすれた……」
フォークを持ち、座椅子に座ると、ポタージュはすっかり冷めていた。
パンを一口サイズにすると、マグカップの中へ放り込んだ。だが、ぷかぷかと浮かび上がってくるので、それを苦労して手に入れたフォークで底のほうに沈める。パンから空気が抜けたのか、ポコポコと音がした。
おもむろにフォークを突き刺すと、それを口へ運んだ。
「悪くない」
口の中が傷だらけの俺からしたら、少し冷めているくらいがちょうどよかったようだ。だが、マグカップ一杯分ではトースト一枚には足りず、残り二切れのパンはそのまま食べた。口の中の水分をどんどん奪っていくため、すかさずレモンティーを口に入れ、食堂の奥へパンを流しこんだ。
食事も終わり、時刻は11時半を少し過ぎたあたりだった。テレビのスイッチを入れ、座椅子にぐっともたれかかった。お昼の番組では、花見がどうのと言っていた。花見なんていつでも行けるだろうに、と少し冷めた雰囲気を醸し出していると、画面が天気予報に変わった。
『明日は雨になるので、花見に行くなら今日がおすすめですよ』
俺の心を見透かしたような発言が聞こえたため、少しびくっとなった。
「しゃあねぇ、春休みの最終日だし、軽く花でも見に行くか」
俺はスマホを片手に地図アプリを開いた。
「よし、ここにするか」
確か今日は最高気温が20度で、最低が14度だったな。
俺は適当に薄めの服を選び、ボディバッグに財布とスマホを放り込んで、家を出た。
駐輪場に停めている原付にまたがると、エンジンをかけた。ガソリンは三分の一を切ろうとしていたため、まずはガソリンスタンドに向かうことにした。
ガソリンスタンドにつくと、客は俺一人だった。
一番奥に原付を止めると、給油口を開け、ガソリンを入れていく。
ガン!と音がして給油が止まったので、ハンドルをもとの位置に戻した。おつりをとるために手を突っ込むと明らかに多かった。
「俺500円入れたはずなんだが、なんでおつりが600円なんだ?」
「もらっちまえよ、誰もわかりゃしねぇって」
少々耳元で悪魔がささやいた気がしたが、レシートを見て、自分の分だけもらい、あとは店員に渡しておいた。
エンジンをかけると、いい感じの音がした。
俺がハンドルを回すと原付は勢いよく飛び出した。本線に合流すると俺は40キロで走った。普段ならば安全のため、30キロで走るのだが、今回は少し思うところもあり、40キロを出した。いつもより少し早い速度で道を走り抜けていく。
思ったよりも早くスポットについた。道は少々渋滞していたが、別に原付ならば隣をすり抜けできるためそんなに苦ではなかった。
駐車場に原付を止めると、寺の中を歩き回った。この寺は去年も訪れたが辺り一帯が寺の敷地なだけあってやはり広い。
俺はとりあえず真正面に見える石畳を上り、本堂を目指した。
石畳の両側には出店がならび、普段は静かな寺もこのシーズンは騒音に溢れていた。
少し歩くと小さな石橋が見えた。
石橋の上まで来ると桜の花が頭上をおおっていた。下を流れる小川には、桜の花びらが大量に流れ桃色に染まっていた。
ボディバッグからスマホを取り出すと一歩下がって写真を撮った。橋を渡り進むと本堂への入り口が見えた。入り口の門は開いており、カップル、家族連れ、写真家など多くのひとが通り抜けていく。
本堂にたどり着くと、とりあえず財布から10円を取り出し、線 香を買った。
マッチで火をつけて香炉へ刺す。
煙を浴びて、本堂の鐘の下まで歩いた。
自分の番が来ると、俺は太い綱を握りガンガンと鳴らした。それから奥へ進みお参りを済ませた。
「願い事は……もう遅いんだがな」
俺は元来た道を引き返し石畳まで帰ってくると、たい焼きを一つ購入した。
自販機でお茶も買い、原付のシートに座った。
袋を開けたい焼きを手に取ると、思ったより熱くなかった。とり あえず、がぶりと一口。
「!!!」
すぐさまお茶を注ぐ。
だが、朝の傷といい、今のやけどといい俺の口のなかはもうズタズタだった。
たい焼きを食べ終わると俺は時計を確認した。
「まだ三時か、帰るには早いな」
俺は山をじっと見つめると原付にエンジンをかけた。駐車場を出ると、もと来た道とは反対方向へと走り始めた。頬に当たる風はさっきまでと違い、少し冷たく感じた。道路にはポツポツと車が止めてあり、歩行者がちらほらといた。両親に甘える光景がとても微笑ましく感じた。
少し走ると車は居なくなり、完全な山道になっていた。日が傾いてきたこともあり、普段はなんとも思わない聖書看板がやけに不気味に感じた。
看板の横を通り抜けるとその先には果樹園らしきものがあった。この季節だと果実がなっているわけもなく、寂しげに木が立っていた。
果樹園の前の左カーブを曲がると、急にものすごい斜度の坂が現れた。それこそジェットコースターのような坂で、転けたら大怪我間違いなしだった。だが、俺はアクセルを最大にひねっていた。スピードメーターは50kmを超え、エンジンは許容量以上の速度の性か、今にも爆発しそうな音を立てていた。
だが、俺はアクセルを緩めなかった。恐怖……などなく、ただただ楽しい。
しばらくすると坂は緩やかになり、次第に速度も落ちて、気がつくと40kmに戻っていた。
気がつくと、いつの間にか空は真っ赤に染まり、夕日はもうすぐ沈みそうだった。
俺は原付を道の端にとめ、シートを開け上着を取り出した。
「暖かいな」
上着の前を締めると再び原付にエンジンをかけて走り出した。
言葉、相手に対して思いを伝えることのできる便利なものであると同時に、己を傷つける諸刃の剣。
俺は昨日、自分の言葉にやられてしまった。
俺だってうまくいくと思ってやったわけじゃない。
半分以上賭けみたいなものだったんだ。
俺は賭けに負けた。それだけのこと。
一言、恋をして、愛を伝えた。そして……。
言葉にしてしまうとこうも簡単で、もうそれこそ他人事のように感じてしまいそうな簡素な文章。
でも、当人である俺にとっては、一文字一文字が重く突き刺さり、今でもあなたを思っている。
酒を浴びるほど飲んでも、綺麗なものをみても、恐怖を打ち消すほどの失恋だったんだ。
「つめたっ!」
さっきまで雲ひとつなかったはずの空は、黒く染まり、朝がた鏡で見た俺の顔のようだった。
今日持ってくるべきは暖かい上着じゃなく水をはじく合羽だったようだ。
つまり、俺は間違えたんだ。
おそらく天気予報のように何らかの彼女も自分の心を態度で示していたんだと思う。それを見逃した、だから振られた。当然の結果だったんだ。
「いや~最近の予報はよく当たるな」
雨はさっきよりも強く降り、家に着くころにはヘルメットの中もびしゃびしゃだった。
ポケットから鍵を取り出し、玄関を開けた。
部屋に入る前に、下駄箱の前で服をすべて脱ぐとそれをもって、洗濯機に放り込んだ。ついで風呂に湯をためた。
独特のチャイム音が風呂がたまったことを知らせる。
着替えとバスタオルを持ち、風呂に入る。
ザーーーーーー。
頭にシャワーをかける。そのまま意識がどこか遠いところに行きそうだった。
シャワーを止め湯船に入る。
足の指先から、肩までつかると何とも言えない快楽が襲ってきた。
全身に血が通っているというのをこれほどに実感できたことが過去にあっただろうか。
「暖かい……」
先を歩く先輩。僕が見る彼女の顔はいつも笑顔だった。
そう、いつも笑顔だった。
誰にでも。
彼女の優しさは俺の勘違いだった。
誰にでも優しかったんだ。
だが、僕の彼女への恋は勘違いなんかじゃない。
明日からは彼女のいない学校へ通う。
世界は広い、あなたのいない世界は広すぎる。
俺は息苦しくなり目が覚めた。
風呂の中でおぼれかけていたようで、激しくせきこんだ。
「夢にまで出てくるとか、どんだけ好きなんだよ」
でも、そのおかげで救われた。
あそこでおぼれていたら俺は幸せだったんだろうか。
…………。
さようなら、僕が好きだった先輩。
俺はあきらめることにした。
明日からは新しく愛せる人を探そう。
だから、今だけは。
俺は風呂からでるときに鏡を見ないようにした。