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恋唄

作者: 有沢ゆう


 この年の冬は、ことのほか寒かった。北からの風が江戸の街全体に吹きわたり、人々を心底から凍えさせたものだ。

 それでも、季節は巡るもの。長く感じられた冬は、もうすぐ終わりを告げようとしている。春一番がとうに吹き、三日もすれば桃の花が開くだろう。


 お政は、女中に付き添われて、三味線を抱えて道を急ぐ。空気の匂いを嗅いでみるが、寒さの気配は感じなかった。肩掛けの色を、もっと明るい色にすればよかった。抹茶色のそれは、なんだか春には似つかわしくない気がして、そう思う。


 目的の場所は、家から一本川を渡った向こうで、立派でもボロでもない長屋の端にある。中から、小さく弦をはじく音がしているのを確かめてから、女中が声をかけると、しばらくして中から引き戸が開いた。


「おや、おいでだね」


 艶やかに笑うのは、お政の三味線のお師匠様で、芳重様だ。習い事を迷っていたお政だったが、お師匠様を一目見て、すっかり憧れてしまった。娘のおねだりに、最初は渋い顔をした父だったが、芳重様の旦那が十手持ちと知ってからは、それならと頷いてくれたものだ。

 芳重は、襟の抜き方など実に粋で、一度自分で真似をしてみたが、とてものこと似合うとはお世辞にもいえない出来栄えだった。見た目を真似るのは無理だけれど、せめて三味線はもう少し上達したいものだ。

 


「ではお嬢さん、おしまいの頃にまたお迎えに上がります。芳重様、おたの申します」


 女中が頭を下げてから出ていく。

 お政の家は、江戸中でも大きな廻船問屋を営んでいて、手はいくらあっても足りない。一人では外へ出してもらえないお政をここへ連れてきて、そして女中はまた、店に戻って用を足す。お稽古が終わるころにまた、迎えに来てくれる手筈だ。

 お政はもう十七にもなるのだから、一人でここまで来るなんて、易しいことだ。だが、大事あっては、という心配性の父は、絶対に人をつけてよこすのだった。


「行ったようだよ」

「はい、お師匠さん。ごめんなさい、こんなことお願いしてしまって」

「ああ、いいってことさ。さあ、おゆき」

「ええ、すぐ戻ります」


 お政は、背負っていた三味線を芳重に手渡すと、そっと戸から外に滑り出た。そしてそのまま、振り返る暇もなく、小走りで街道に出て、そこから橋を一つ渡り、こんもりとした木に囲まれた小さな神社に足を踏み入れた。


 境内には、誰もいない。

 お社の横を抜け、小高い丘になっている裏手に回った。

 そこに人影がひとつ。


「たいっちゃん」


 お政と同じ年の、太一郎だ。

 太一郎は、お政の幼馴染だった。裏手の長屋に住む悪ガキたちのうちの一人で、年中駆け回って遊んでいた。そこは差配さんの娘がお政の店に下女として住み込んでいる関係か、父も出入りを許すのだった。いや、家から目が届く、というのが一番大きかったのかもしれない。

 とにかく、お政が遊びに行けば、悪ガキたちも普段より少し控えめな悪さで済ませてくれたし、石投げや隠れ鬼を親切に教えてくれたものだ。


 長ずるにつれ、さすがに一緒に遊ぶことはなくなったが、その中からふたり、お政の店で働く者が出て来た。太一郎はそのうちの一人で、もう五年になる。江戸を縦横に走っているお堀で、小舟を操って荷を運ぶ仕事だ。阿仁さんたちほどにはまだ、自在という訳ではないようだが、それでもすっかり大人の顔つきで船に乗っている。


 代わりに、お政はちっとも太一郎には会えなくなった。ごくごくたまに顔を合わせても、ちょっと立ち話をする程度で、すぐに忙し気に立ち去ってしまう。もともと身分が違う、と簡単に周囲は言うが、そうよねと頷くには、過ごした時間は長すぎた。

 太一郎が、仕事の合間に、この神社にお参りをしていることを、お政はそんな立ち話の折りに本人から聞いて知っていた。仕事さえ済ませば、小さなことはくだくだしく言わない父だから、きっとみんなも知っているのだろう。


「お、どうしたい、一人か? 稽古の時間じゃなかったか」

「うん。えっと。ちょっと休憩」


 嘘と分かって笑って見せると、太一郎は面食らったような顔をする。生真面目なことは自覚しているから、その驚きも分からないではない。彼は眉根を寄せた。


「なんだよ、変な奴。どうしたんだよ」


 立ち上がって、お政の前に立つ彼は、すっかり背も伸びて、見上げる位置に顔がある。


「ね、ねえ、そういえばなんか、新しい荷を運ぶのですって?」

「あ? ああ、まあな。西の方から、大きな船が来るらしい。向こうで採れる特別な植物がいい薬になるとかで、新しく取引することになったんだ」

「ふうん。忙しくなるね」


 どうでもいいことを話し、薬について長々語る太一郎の声を聞きながら、少し俯く。太一郎の、草履をはいた足が汚れている。手も、すっかりマメが出来ている。楽しいだけのはずがなく、けれど、楽しそうに話をしてくれる太一郎が、とても年上に見えた。


「全く、なんだよ、お政、お前変だぞ」

「うーん、まあね。ねえ、たいっちゃん」

「ん?」


 思い切って顔を上げて笑うと、太一郎もにっこり笑う。少したれ目で、だけどそれが優しそうで、お政はこの顔がとても好きだった。


「私ね、たいっちゃんのこと好きよ」


 ほんの少し、目を見張り、けれど彼はやっぱり笑ってくれた。


「ねえ、お社様に何をお願いしたの?」


 その答えを聞いて、お政は嬉しくなって笑った。

 名残惜しくはあるが、そろそろ稽古の時間が終わるころだ。女中が迎えに来る前に、芳重様のところに戻らなければならない。

 太一郎が、手を伸ばす。そうしかけて、汚れた手に気づいたのか、止めてしまった。お政は、その指先をほんの一瞬、両手で握りしめ、そして急いで来た道を駆け戻った。


「お帰り」

「はい、お師匠様。ただいま戻りました」


 ぎりぎり、かろうじて、その直後にやってきたお迎えに間に合った。慌ただしく芳重様にお礼を言って、女中が重ねて菓子折りを差し出すのをしり目に、帰りは使えと父が寄こした籠に乗り込んだ。

 よいっせぃ、という威勢の良い掛け声を聞きながら、ゆらゆら揺れて、お政は家に帰る。



 そうして明日、お嫁にゆく。



 恐れ多くも、お武家様に見初められ、お政はあちこちから祝福されて嫁ぐのだ。父が一代で起こした店が、大きくなった証拠でもある。信用がついて、店はますます大きくなるだろう。西からの船が父の店を選んで商売を始めるのも、そんな話が口伝えで耳に入ったからだろう。評判と言うのは、かくも侮りがたい。

 もうずっと前から、お祝いの品が引きも切らず、明日と言う日を皆が心待ちにしている。父はなにより喜んでいる。夫となるお武家様は優しい顔をしていて、まだ口をきいたことはないけれど、きっと幸せになれるだろう。


 だって、太一郎はそう願ったのだから。


 お政の縁が結ばれた日から、太一郎はずっとあの神社に通っては、お政の幸せを願ったという。だから幸せになる。触れそうで触れなかった、あの掌が、太一郎の気持ちだ。自分はそれを受け取って、そうしてこの先を生きていく。


 籠の中、自分の鼻をすする音に混じって、外からせせらぎの音がする。お堀が近い。お嫁に行く先のお屋敷も、きっとお堀の近くだろう。それほどに、江戸は水の道を張り巡らせている。




 嫁いだ先で、お政は指先を水に触れる。


 遠く、深くで繋がっている。









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― 新着の感想 ―
[良い点] 素敵な文章 [一言] 読み終わった後のなんとも言えない、この心にグッと来る感じが 切ないとか健気とか色々といやもうなんか良かったです。 素晴らしい短編でした。ありがとうございました。
[一言] 結婚が本人の意思ではなく、家同士で決められた時代の有り触れた悲恋。 お堀の水に恋心を抱いた相手との繋がりを想いながら嫁いでゆく主人公の様子が印象深いです。 『魔術師を拾いました』と『君に誓…
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