バレンタイン撲滅運動撲滅委員会
彼を裸にして、真っ白い皿に乗せて、上から特製ソースを垂らしたい。私の手作りのチョコソースを優雅にかけたら、涙目になりながら羞恥に耐える彼をゆっくりと味わうの。
まずは指先、それから頬。彼の細い体を堪能しながら首筋へと舌を這わせて……
「おいコラ真奈美。そこの痴的文化財。
心の声が漏れてる」
「んなっ!?」
名前を呼ばれた私は体をびくりと震わせて後ろを振り返った。そこには友人が立っていて、心底呆れた顔をして私を見下ろしている。
別に講義の空きコマに食堂で妄想するくらい許してくれたっていいじゃない。ちょっとくらいは声も漏れるわよ、うん。
大学に入ってまもなく一年、ようやく彼氏なるものができたんだから。彼氏いない歴=年齢の不名誉ときれいさっぱりおさらばした私のささやかな楽しみを奪う権利は友人といえどもないと思うのだけれど!
「サボり?」
「違うわよ。休講だって。なんか、よくあるんだ」
「なんだっけ、なんか食べ物の話ばっかりの講義でしょ。
なんだってそんな講義とったのアンタ」
「楽に単位が取れそうだったからさー」
うへへ、と笑いを返す私に、友人は「あ、そう」と呟いた。そして私の向かい席に腰を降ろし、
「そういやさ、アンタ知ってる?
大学で噂になってんだけどさ……」
そう前置きをして友人は話を始めた。
私の通う富倉大学には、ある噂話があるらしい。
毎年、バレンタインデーの頃になると、仲睦まじいカップルの片方を拉致し、無理やりその仲を割いてしまう悪魔のような団体が存在する。そんな噂だ。
「なにその物騒な団体」
「さあね。もてないヤツらの僻みじゃないの?
ま、浮かれてるアンタも気をつけなよ」
「大丈夫よ。私とハル君は運命の赤い糸で結ばれてるの。
聞く?私とハル君の愛の馴れ初め」
「ふざけんな。週1ペースで聞いてるせいで耳タコだわ」
「いいじゃない。聞くだけならタダよ?
減るもんじゃないし」
「減るんだよ。削られるんだよ。
こっちの精神力が。がりがりと」
まだ付き合って三ヶ月経ってないくらいだから、10回くらいしか話してないと思うんだけどな。クリスマスにお付き合いを始めたなんて、なんてロマンチック!
いやあ、今までの独り身生活の苦しみも報われるくらい今の私は幸せだわ。
目前に迫ったバレンタインデーに向けて、どんなチョコレートを送ろうか悩むこの時間もまた幸せなのだ。
少し話をして、友人は講義があるからと去っていった。
その日の夜から、ハル君と連絡がとれなくなった。
○ ○ ○
翌日、私は彼の周囲にいる人たちに何かあったのかと聞いて回った。彼は大学にも来ていない。ハル君の友人たちも連絡が取れなくなっているようで、彼が一人暮らしをしているアパートに行っても誰も出てこなかった。
さらに翌日。失意に暮れる私のもとに、一通の手紙が届いた。それはとても古風な便箋で、わざわざ封蝋までしてあり、その蝋の部分には一文字『愛』とだけ記されていた。
手紙には切手も消印もなかった。とても気味が悪かったが、なんだか胸騒ぎがしたので私は恐る恐るその手紙の封を切った。中からは、メッセージカードが一枚と数枚の写真。
――親愛なる真奈美様
遥斗様とあなたさまの絆を祝福いたします。
バレンタイン撲滅運動撲滅委員会 一同
「なんじゃこりゃあ」
思わず声が出るが、それよりも何よりも、愛しのハル君の名前が書かれている。その下の写真にはハル君が椅子に縛り付けられている姿。大学の敷地を示した地図に、いくつかの食材の写真もあった。
なんなの。人の彼氏を誘拐しておいて祝福ですって? 訳が分からない。バレンタイン撲滅運動撲滅委員会? どっちなの。撲滅するのかしないのかはっきりしなさいよ!
明日がバレンタインだというのに、ハル君誘拐事件のせいで何も用意できてないじゃないの!
手紙を投げ捨てた私はメッセージカードの裏にまだ何か書いてあることに気がついた。
「何これ……レシピ?」
そこには各種製菓材料の分量と何かをつくる手順が記されていた。さきほどの写真も、よくよく見ると調理行程での写真のようだ。
何なの。これを作れっていうの?
あ、何かのドッキリかしらコレ。これを作って地図の所まで持って行って、囚われのハル君を助けましょう的なそういうミニゲーム的なアレかしら。で、助けた後にハル君から感謝の口づけやらなにやら、そしてそのまま二人はバレンタインの愛の日にふさわしい場所でついに結ばれるのねッ!
「ハル君てば、意外とお茶目な所あるのね」
そうと決まれば行動あるのみ! 幸い、材料はすぐにでも用意できそうなものばかりだった。レシピからするとガトーショコラだろう。ハル君の好きなものなのかしら。だったら気合い入れて作らないとね!
○ ○ ○
大学のとある一室が地図に指定されている場所。使われていない講義室のようだった。
渾身のガトーショコラをラッピングした包みを手に持ち、私は部屋の扉を開ける。
「ひっ」
講義室の両壁に沿って並んでいる人の列。その誰もが片膝をついて頭を下げている。その異様な光景に私は一瞬たじろいだ。
「よくぞ参られた」
響き渡る声。講義室の奥の方に、ハル君が座っている。もう縛られていないみたい。痛いもんね。縛られたら。でも、あの隣にいるのは誰だろう。
「我はバレンタイン撲滅運動撲滅委員会、会長。
名をばアレンと申す」
響く声の持ち主は自らの事をアレンと名乗った。いや、どう見ても日本人だと思うんだけど。どちらかと言うと熊五郎とか平八郎とかの方が似合う体格と顔だちなんですけど。
その顔で黒の修道服は反則じゃない? ねえ。
ゆっくりとアレンが歩み寄ってきて礼をした。うわ、頭頂部つるっつるだし。え、若ハゲかしら。ってか年いくつなんだろう。
「我は聖ウァレンティヌスの生まれ変わり。
汝らに真のヴァレンタインを伝えるが定め」
「え、ザビエルみたいな頭してんのに」
しまった。思ったことがつい口に出た。講義室の脇の列から押し殺した笑いが聴こえてくる。
「……我は聖ウァレンティヌスとフランシスコ=ザビエルの生まれ変わり。
汝らに真の愛を伝える伝道師」
「増えたッ!?」
見ればハル君も俯いて肩を震わせている。絶対笑ってるんだろうなあ、アレ。ってか一切動じないこの人はなんなの、ほんとに。改めて見るとでかいし。いかついし。身長2メートル越えてるんじゃない?
「汝はバレンタインを知っているか」
「それくらい知ってるわよ。
それよりハル君を返して」
「ならば祝福しよう。
さあ、これを食え」
そう言って自称アレンは一切れの何かを差し出した。かすかに届くチョコの香り。ガトーショコラだ。食えったって、何でいきなり……。いや、でもなんか美味しそう。色ツヤといい、匂いといい。
まあアレだ。うん。きっと何やかんやドッキリの後にはハル君を返してくれるんだろうし美味しそうなガトーショコラに悪いし。うん、食べよう。
一口食べただけで、私は膝から崩れ落ちた。
「な、何これ……ッ」
「それが真のガトーショコラ。
それが誠の愛の形」
もっと食べたいと、体が言っている。なんだ、この反則級の美味しさは。
「材料もレシピも至って平凡。
しかし、違うのは我の愛の力!」
さらに腕を大きく広げて、彼は語りだした。
「形だけの菓子に何の意味がある。汝らは愛を欲するのではないのか。
2月14日。それは愛の日。我は愛を交わすものに祝福を授ける。
さあ、汝の愛を示すがいい」
なんだとこのてっぺんハゲ。つまりはあれか? その理屈でいくと、これより美味いガトーショコラを出せばハル君を返してくれるとかそういうことか? 無理に決まってんじゃん! 言っとくけど半端なくおいしかったからね、さっきのガトーショコラ。
ハル君は不安そうな眼差しでこちらを見ている。
駄目よ。ここで私が挫けたら。私とハル君は運命の赤い糸で結ばれているの! 愛の力ですって? こんなザビエルより私の方がハル君を愛してるに決まってるじゃない。だいたい、ガトーショコラごときで私の愛の大きさを測られてたまるもんですか。
勝つ。勝ってこの茶番を終わらせるッ!
「喰らいなさいッ!」
私は意思を固めて、懐から取り出したガトーショコラを渾身の勢いでアレン(仮)の口に押し込んだ。
「こ、これはッ……」
大きく見開かれるアレンの目。
しかしその後、彼は何も言わず仰向けに倒れた。
静寂。
あ、あれ。これどうしたらいいの? 勝ったー的なアレでいいの? え、いやまあ勝ったんなら私はハル君を二人の愛の桃源郷へ連れさりますが。余すところ無くガトーショコラお返しに彼の体を隅から隅までいただいちゃいますがッ。
混乱する私にかけられる一つの声。
「だから心の声がだだ漏れだっての、この痴的障害者」
「うわうッ」
いつの間にかハル君の横に口の悪い私の友人が立っている。
「ヒドイ。差別用語は怒られるんだからねッ」
「やまいだれ付いてるから平気平気。
それよりアンタ、何食わせたの」
そういって大の字で倒れているアレンを指差す友人。
「アタシの計画じゃ、このまま二人の愛を認めよう的な展開だったのに。
おーい、鉄雄ー。鉄雄ー。起きろー」
「本名、めちゃくちゃそれっぽいじゃん」
ぺちぺちと頬を叩かれ、鉄雄が意識を取り戻す。
「む、むう……。
我は聖ウァレンティウスとザビエルと鉄雄の生まれ代わり……」
「また増えたッ!?
ってか最後は生きてるから! 自分だからそれ!」
「汝、砂糖と塩を間違えるなかれ」
それだけ言うと、鉄雄は再び意識を手放した。
あ、あれ? 私、間違えちゃった?
おっかしいなー。深夜でテンション上がってたからかなあ。えっへへー。
やれやれといったように友人が頭を左右に振り、その場にいた面々に声をかけた。
「はーい、撤収、撤収ー。
なんかごめんね皆ー。今日はアタシの奢りで飲みに行こー」
その一声で場は解散となり、講義室の脇に並んでいた面々は波が引くように講義室から去っていった。
「なんだかよく分かんなかったけど、私たちも帰ろっ、ハル君」
そう言って後ろを振り返ったが、そこに愛しのハル君の姿はなかった。
○ ○ ○
「砂糖と塩間違えたくらいで酷くない!?」
「そりゃまあ、砂糖と塩を間違えるのはダメでしょうよ」
居酒屋で私は管を巻いていた。講義室に一人残された私。あの後、ハル君に一切連絡がつかなくなった。こうなったのも友人のせいだと飲み会に押しかけ、延々と恨み節を述べているのだ。
「はあ。また独り身かあ。
私の何がいけないんだろう」
「思慮の浅はかさ」
「なぐさめろよぉぉう」
「いくら痴人とはいえ、無理なもんはあるんだよ」
「あー、またやまいだれ付けたでしょう。
何よ!あなただって独り身でしょう」
「あん?言ってなかったか?
鉄雄がアタシの彼氏だぞ」
傷口に塩を塗りこむどころか、塗りこんだ後で揉み解すこの所業。なんなの。人の幸せ壊しといて自分は幸せですってか!? 信じらんない!
「いい男だぞ、ありゃあ。なんせ菓子作りが上手い。
気配りのできる男の証拠だよ」
「あのガトーショコラ、彼が作ったの!?」
私は負けた。何もかもに。
正直、その夜のことはそこからあまり覚えていない。
ただ、胸にはっきりと一つの意識だけはあった。
負けた悔しさ。見放された惨めさ。また自分の男を見る目がなかった浅はかさ。それらのやり場のない怒りにも似た感情が、胸の中を渦巻いていた。
それらの感情に明確に名前をつけることは難しかった。ただただ、八つ当たりのように私はそれらの負の感情の一切をのせて、捨て台詞のように言葉を吐いた。
「リア充、爆発しろ」
と。
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