7.一夜明けて
鳥の囀りに、私はゆっくりと、まどろみから意識を覚醒させた。
見慣れぬ天井に違和感を覚え、はたと自分が農村に訪れていたことを思い出す。
何時振りでしょうか、こんな穏やかな音色で目を覚ますなんて。
すっかりと、王都ティリアが誇る時計塔の鐘の音色に慣れてしまった自分が、距離を置いたことで浮き彫りになってしまいました。
仕事でお邪魔しているとはいえ、こういう時くらいは気持ちを弛緩させても、きっとあの室長も許してくれるでしょう。
簡素なベッドと、庶務机だけが置かれた部屋。
私は身を起こすと、外気を取り入れるために大きく窓を開け放った。
眩しい朝の日差しに目を覆うと、風に乗ってどこからか甘い香りが漂ってくる。
私は机に備え付けられていた椅子を窓辺へと寄せ、静かにそれに掛けた。
目についた橙の小さな花。
おそらくは、そこからだろうとあたりをつけて、窓辺に肘をついて、目と鼻でそれを楽しむ。
別に、本当にそうでなくとも良かった。
そんな、胡乱な情景を、すっぽりと空気ごと飲み込んで、心に書き留める。
後で思い返して、私だけが楽しむことが出来れば。
静かな時間を過ごしていると、鳥たちの声の中に人々の営みの音が遠くに混ざり始めた。
等間隔に聞こえる金属の軋み、桶に水が湛えられる音。
どうやら、昨日訪れたこの宿は、比較的水場の近くにあるらしかった。
そんな営みの音に、お前も早くしろ、と急かされるように身支度を整えながら、私はこれからの予定について思案する。
私をここまで導いてくれた御者の男性は、早朝にもこの村を発つだろう。
そして、次にこの村に訪れるのは七日も後になる。
それが、私に許された取材の期間だ。
まずは数日かけて、この村というものを知ることにしましょうか。
時計塔のある王都とは違い、時間を知る術の無いこの村では、多少は余裕を持って事に当たらないといけませんね。
そんな事を考えていると、控えめに部屋の戸を叩く音が聞こえた。
軽く身だしなみを確認して、私はその音に応える。
「はい、どうぞ」
失礼を致します、と入ってきたのは年老いた男性だった。
室長よりも、一回り、いや二回りほど程歳を召しているだろうか。
たくわえられた白く長い髭と、刻まれた深い皺は、まるで物語に出てくる賢者のようだと陳腐にもそう思った。
「お初にお目に掛かります、私はこの村の長を勤めさせていただいております、ダクティと申します」
「これは、ご丁寧に、痛み入ります。私はリンデンバウム王国史書編纂室の史書官、アンネと申します」
明らかに年少の私に対して、随分と低い物腰の方だ、というのが第一印象。
しかし、仮初とはいえ寝所にまで顔を出すというのは、礼を重んじるというのであれば、如何なものなんでしょう。
その態度のちぐはぐさに、私はどことなく、小さな違和感のようなものを感じた。
「アンネ様はしばらく我が村に御逗留され、勇者様に関しての記録を残されると伺いましたが」
「ええ、そのつもりです。その内に、村長さんにもお話を伺う機会もあるかと。ともあれ、当面はこの村を見て回ろうかと思います」
「おお、そうですか。ではどうでしょうか、その間の傍仕えを兼ねて、村の案内役をご紹介しようと思うのですが」
「……折角ですが」
私は、その申し出を丁重にお断りする。
せっかくの機会だ、仕事とはいえ一人で羽を伸ばしたいという気持ちが一つ。
そして、誰かの口を介さずに、最初だけは自分の目でこの村を見たいというのが一つ。
トラヴィスさんと、勇者様の物語は、無理矢理に着陸させた。
それは、私にとっては語り部である、トラヴィスさんの誤解という形として。
強引ではあったけれども、自賛ではあるけれども、そこには一つの真理も隠されているように思う。
歴史は、語り部によって姿を変える。
であれば、私に求められている事は。
いつかの民衆の為の語り部に求められている事は、可能な限りその源流に近づく事だろう。
歴史を想像で捻じ曲げている私に出来る、僅かながらの罪滅ぼし。そして私の僅かな矜持。
私は頭を下げて、村長さんの背中を見送った。