1.お仕事のはじまり
「アンネ君、少しいいかね」
うつら、うつらとしていた私を呼ぶ声がした。
その声が、私の上司にあたる男から発せられたと理解するや否や、私は慌てて返事をする。
「は、はい!どうしました。室長」
老齢手前の、真っ白な髪を後ろに纏めた物腰の柔らかなこの人は、いつも眼鏡の奥で目を細めて、ニコニコと笑っている。
「この陽気だ、君の気持ちも分からないでもない。ただでさえ、今は仕事も少ない」
枯れ木のような細い身体。
しかしながら、迫力ある響く声で、室長は私に諭すようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
うん、逃げ出したい。
普段なら軽口も叩けるのだが、怒っている時のこの人の前に立つのは本当に肝が冷える。
この細い体のどこからそんな声が出ているのだろうか。
自分の上司が影では「きっと悪魔ってのはああいう優しい顔をしているんだぜ」等と言われているのはよく知っている。
この王宮で、『微笑の悪魔』と言えば、誰もがこの室長の事を思い浮かべるだろう。
「まぁ、そういう話をしたい訳ではないのだ。少し落ち着きたまえ」
上司は溜息をつきながら、気持ち穏やかになった声でそう続ける。
「失礼しましたっ!」
ピシリと敬礼。
「別に畏まらなくても良い」
愛想笑いを浮かべ、これは失礼を、と手を下ろす。
「さて、君も知っているかとは思うが、今代の魔王が討伐された」
棘の消えた声を聞いて、内心ほっとする。
「ああ、一月位前ですよね。いやぁ、戦勝会は楽しかったですねぇ。私、出店で毎日色々買ってたらあっという間にお給金無くなっちゃいましたよぉ」
あのお祭り、二週間も続けるんですもん!
もう当分出店ご飯はいいかなぁって感じですね。うん。
あぁ、でも美味しかったなぁ。もう一食くらいなら食べてもいいかな。
などと思い返していると、コホン、と咳払いが一つ聞こえた。
「君の話はいい。ともかく、今代の魔王は討たれ、我が国で召還を行った勇者様も、送還の魔術で自分の世界にお帰りになられた」
「はぁ、まぁそうですね。しかし、本当に帰っちゃうんですね勇者様。小さい頃見た英雄譚で知ってはいましたけど、意外でした」
「うむ。勇者様方の力は確かに大きい。が、やはり一人の人間だ。目の届く範囲も狭い、出来る事は限られるし、あちらの世界での生活もある。であれば、魔王との戦いにだけご協力を頂き、平時は我々自身の力で安寧を得るのが理想というものだ」
「いえ、そうではなく。ほら、英雄譚の中にもこの国の人や、亜人種とのラブロマンス、あるでしょう。私、悲恋で終わるのってあまり好きじゃないんですよね」
今日一番大きな溜息が聞こえた。
「君は、事務仕事においては優秀だが、いささか考えが飛びすぎるきらいがあるな……」
室長は首を二度三度、横に振る。
「ともかく、だ。繰り返すが、今代の勇者、ユーヤ様はお帰りになられた。とすれば、我々、リンデンバウム王国史書編纂室の行うべき事は何だろうか」
「えーっと……王国史への加筆、でしょうか」
頭を必死で回転させて答える。
「うむ、最低限やらなければいけないことは理解しているようでよろしい。加えて、だ。もう一つやるべき事があるのだ。先ほど君が言っただろう」
「何か言いましたっけ……んー、悲恋、ラブロマンス、……英雄譚? ……え、英雄譚!?」
「よろしい。その英雄譚だ。突発的な仕事である為、知るものは少ないが、その編纂も、われわれ史書編纂室の仕事なのだ。勇者様がお帰りになられたことで、ようやくその作業が進められる」
ぽかんと、口を開けて固まる。
幼い頃から読み聞かせられた英雄譚。小さい子であれば、誰もが憧れた物語。
その物語の編纂に、加われるなんて。
鼓動が脈打ち、体が震える。緊張と、嬉しさで。
「し、しかし。英雄譚であれば、詩人などを雇ったほうがいいのでは」
自信の無さゆえか、反射的に出た自分の言葉に後悔する。私は馬鹿なんだろうか、せっかくの機を不意にするような事を。
「少しは考えているようで結構。だが、そういった者達には任せられん」
「……何故でしょうか?」
「いくつか理由はあるが、一つは詩を書く必要は無いということだ。君が子供の頃に読んだというように、小さな子供でも理解できるお話が必要なのだ。欲しいのは比喩や美辞麗句をいくつも並べて賞賛する詩ではない」
「では、物書きでは?」
「……もう一つは、勇者様方は我々の希望であり、願いであり、最後の拠り所だが、必ずしも品行方正な人物ではない、という事だ」
奥歯で何かを噛み潰したようなもの言いに引っかかる。
「それは……どういう」
「……喧嘩などならまだ良い、国王の名を出しての代金の踏み倒し、勇者の名を使っての女漁り。民家に押し入り、物品を接収、などなど。魔王の討伐までにそれら総じて百件超、これは嘆願のあったものだけの数字だ」
「……随分と殺伐とした英雄譚になりそうですね」
憧れだとか、夢だとか、そういうものが崩れていく音が聞こえた気がした。
「ひとまず、嘆願のあった者に関しては、国から口止めも兼ねて金子を出している。が、英雄譚の編纂をするにあたり、そういう話を耳にせずには居られないだろう。だからこそ、在野の者ではなく、信用のおける者に任せるのだ」
「うわぁ……そんな物語書きたくないなぁ……」
「安心しろ。君が書くのは、そんな薄汚れた物語ではない。一人の勇者が。命を賭し、民の為に魔王を倒す、まさしく英雄譚たる物語だ」
「……つまり、創作と」
いやな汗が背中を伝った。そして何か、違和感。
「人聞きの悪いことをいうな。創作物は史書足り得ないという事を、君も知っているだろう。ただ、聞こえの悪いところはわざわざ語る必要はない、という事だ。多少の脚色はあるかもしれないがな」
「それを創作っていうんじゃ……っていうか、ちょっと聞捨てならない事言いませんでした?」
違和感の正体を確かめようと、記憶を遡り、答えに辿りつく。
「ふむ、何かいったかね。君が書くのは、英雄譚だ。と、そういっただけだったと思うが」
一部、意図的にアクセントを変えて、悪魔が微笑む。
「……分かってて言ってますよね」
「くっくっ。すまない、少しおかしくてな」
案外お茶目な所のある悪魔さんですこと。
「それで、私が書くんですか、英雄譚」
「うむ、私は先代のものに携わっているのでな。英雄譚の編纂の経験がある若手を作っておきたいのだよ。……なぁに、一応私も目は通すさ」
思いっきり、嫌悪をあらわにして言ってやると、悪魔の口から意外な言葉がこぼれた。
先代の英雄譚に、私が憧れた英雄譚に、この人が携わっている。
あの、男の子であれば誰も憧れるような冒険に、女の子であれば誰もが憧れるようなエルフの姫君との恋愛。
想いの通じた人と離れ離れになってしまう話ではあったけれども、そこには悲恋を超えた何かがあった。
子供の時だけでなく、成人した後も何度も読み返した、美しい物語。
この、皮肉屋で、意地悪で、性根の悪そうな悪魔が、その物語にほんの一部でも関わっているなんてとても信じられなかった。
「疑うのならば、奥付を見てみるといい。私の名前も入っているはずだ。幸い、この部屋には勇者の記録は全て揃っている」
【第八十代勇者 トモカズ=タカツキの記録】
机の上に無造作に置かれた眼鏡を付け。
簡素な名前の打たれたその本を見つけ、ゆっくりと最後のページを開く。
【著者 マーカス=ウィンストン】
そこには、確かに、悪魔の名が、しっかりと記されていた。
「理解してくれたようでなによりだ。それでは、早速情報収集を始めてもらおうかな」