4:テンションはすこぶる低いし
咲千は、水族館が好きだ。水族館というと静かなイメージがあって、活発に走り回っている彼女のイメージとは少し違うのだが、確かに少しナイーブなところがあるので、そういう意味では似ているのかもしれないな、と思う。魚のために照明を暗くした館内は、不思議と落ち着く。
俺たちの住んでいるマンションから、二駅ばかり移動したところに、行き着け、と言っても過言ではない水族館がある。とんでもなく小さくもなく、とんでもなく大きくもないそこを、年間パスポートを購入して元が取れる程度には、頻繁に訪れる。
近寄れば吸い込まれそうな程に巨大な水槽を前にして、俺と咲千は黙って手を繋いでいる。中には、魚が群れをなして、優雅に遊覧している。その光景を見ていると、どうにも人間というのは不格好な生き物だなあと思う。だからこそおもしろいのかもしれないが。
咲千はまるで熱に浮かされたように水槽に見入っている。こういう時の咲千は、俺が腕を引っ張らない限り、自ら動こうとはしない。普段きゃあきゃあと騒いでいる彼女が静かだと、正直調子が狂う。
「行くぞ」
耳元で囁き腕を引くと、服の裾を、ぐん、と掴まれた。
びくりと肩を震わせてから、この掴み具合は咲千とは違うな、と瞬間的に理解する。視線を落とせば案の定、今にも泣き出しそうに顔をぐしゃぐしゃにした小学校低学年くらいの子供の姿があった。
――何故か。
多いのだ。こういうことが。
水槽を見ているうちに両親とはぐれる子供は、意外と多い。他の大人に助けを求めればいいのに、何故か彼らは俺の服を掴む。自分でいうことではないが、俺は無表情で愛想など欠片も無い。無いのだが、何故か掴まれるのは、咲千ではなく俺だ。正直、咲千にしておいてくれたらいいのに、と思う。俺は子供は苦手だ。好き嫌いではなく、苦手なのだ。何を考えているかわからないし、どういう行動に出てくるかわからない。未知すぎる――咲千にそう告げると、「えー……貴方が言いますか、それ」と心底引いた目をされた――。
しばし無言で眺めていると、子供のぐしゃぐしゃ度合いが増してきた。まずい。おそらくもうすぐ泣き喚く。
固く結ばれた口が、ぱかりと開いた直後、俺は子供の頭を手でぐっと下に押し込んだ。突然の負荷に、子供は目を見開いて大層驚いた様子だ。驚いて、声を上げることを忘れている。
「あ! またそんなことして……」
現実世界に戻ってきた咲千が、その光景を見て、もうっ、と頬を膨らます。これが嫌なら、俺に近寄らなければいいのだ。こんなに大勢の人間がいる中から、よりにもよって俺を選ぶ方が悪い。
「迷子センター行くか」
「ぼく、まいごじゃないもん。ママがいなくなったんだもん」
「そうか。ならママも迷子センターにいるだろ」
ぐずっている子供の首を掴み――一番掴みやすいのがそこなんだ。手を繋ぐのは柄じゃない――、何故かその場にいようとする子供を強制連行する。こんなことが続く所為で、職員や案内所の場所を完全に憶えてしまった。職員の方も、どうやらこちらの顔を憶えたようで、「あ、またですか」という顔をされるようになった。こっちだって好きで行っているのではないのに。
片手に咲千、もう片手に子供を持つ形で、案内所に辿り着く。
「すみません」
「あ、はーい。ぼく、お名前言えるかなー?」
……おい、俺はまだ何も説明してないぞ。
わかっていますから、みたいな顔は止めてほしい。顔を歪めた俺の横で、咲千が口に手を当て大笑いしそうなのを堪えている。
やれやれ、と子供の首から手を離し、そのままその場から立ち去ろうとすると、再び服の裾を掴まれる。見下ろせば、ぐしゃぐしゃの顔の子供。
「あ、すみませーん。ちょっとお兄さん、そこにいてもらえますかー」
「そうだよ学人。ちょっとだけだから、ちょっとだけ」
「…………」
本当に。どうして、俺なんだ。
数分後、館内放送によって呼び出しを受けた子供の母親は、職員と俺、それから咲千に頭を何度も下げながら――そして我が子にも頭を下げさせながら――、子供を回収していった。今度ははぐれないように、手を握りながら。子供はこっそりと振り返り、ばいばい、と手を振る。俺が何もしないでいると、咲千が俺の手を掴み、強引に左右に振る。
親子連れの背中を見送り、短く息を吐く。どうにかひと仕事終わった。
「まったく、なんで俺が」
「えええ、いいことなのに。なかなかいないよ、子供に無条件で好かれるなんて」
「あれは好かれているのか」
違うだろう。強いていうなら、“憑かれる”、だ。幽霊に憑かれやすい、という体質と同義のものだ。そうに違いない。
素直に喜んでおけばいいのに、と勝手なことを言う咲千に対して、眉を寄せる。
「そうですよー、いいことですよー。いいパパさんになりますよー」
職員の女性が、にこにこと人好きする笑みを浮かべながら、余計なことを言う。良かったねえ、とますますにやにやする咲千。
「というかお二人、ご結婚の予定はー?」
「え! や、ややや、ないですよー」
パタパタと手を振る咲千の顔は真っ赤だ。相変わらず、考えていることがそのまま顔に出ている。水槽を前にした時の“無”はいったいなんなんだ、と突っ込みたくなるほどに。職員は裏の無さそうな笑顔のまま、「この水族館でプロポーズ、更には挙式をあげる方もいらっしゃるんですよー」と含みを持たせた言葉を続ける。
「……咲千」
これ以上余計なことを言われる前に、と彼女の腕を引く。咲千は話を打ち切られたことを気付いたようで、少しムッとしている。……赤の他人と結婚の話をして、どうする気なんだ。呆れてため息を吐いたのがよくなかったのだろう、咲千は見るからに不機嫌になった。「私、怒ってるんですよー」と言いたげな顔。相手をするのが面倒でしばらく放置していたが、水槽の前に来ても一向に回復しない。仕方なく、宥めるように名前を呼ぶ。
不貞腐れている彼女は、ふいと顔を背けた。――仕方がない。
手を引き、壁側にある休憩スペースに座る。歩き疲れたカップルや家族連れが溜まっているそこは、そこかしこから、小声でひそひそと話し声が聞こえている。
「何が不満?」
声を落として訊ねる。黙り込んだ咲千は、なかなか口を割らない。しばらく待ってもそのままだったので、鞄から本を取り出し、栞を挟んだページを開いた。読み終える頃には話せる状態になっているかもしれない――これまでそのパターンで成功したことはないが、待つのは疲れた――。
しばらくすると、左手に負荷が掛かる。ぎゅ、と服を握る手。――これ、さっきも似たような光景を見たな、などとは口が裂けても言えない。
「何?」
再度訊ねる。むっつりとしている彼女は、「……私ばっかりなんだもん」とようやく不満を口にし始めた。ここまでも長かったけれど、ここからもまた長い。でも、面倒、とか言うとまた初めからやり直しなので、顔には出さないようにする。顔に出さないのは得意だ。
「私だけ、テンション高い」
「それは性格上仕方ない」
「そうじゃなくて」むにゅ、と彼女の口が動く。「絶対、学人よりも私の方が、好きの気持ちが大きい」
どうしてそういう話になるのだろう。何度も経験したことではあるが、何度経験しても、理解が追い付かない。咲千の思考構造――というよりもおそらくは女性の思考構造は、理解に苦しむことが多々ある。どこをどう飛んで、そうなったのか。「好きじゃないなら、嫌いなのだ」という極端な事例と似通った片寄りがある気がしてならない。
貴方に、俺の気持ちなんて計れないだろう。――そう言ったところで、多分怒らせるだけだ。でも実際、そうだと思う。
俺がどれだけ、咲千を想っているかなんて、俺にしかわからない。
ふうん、と呟けば、睨み付けられた。多分、「なんでどうでもよさそうなの!」とでも思い憤慨しているのだろう。
泣きそうだな。感じた瞬間に、ぐ、と頭を押していた。彼女はぽかんと固まる。どうやら子供以外でも有効な技のようだ。しばらくして正気に戻った彼女が文句を言う直前に、唇を重ねた。耳打ちする。
「俺の方が、貴方のことを愛していると思う」
どこかの配線がショートしたのか、ぽかり、とした顔のままの咲千を一瞥し、俺は読書を再開する。おそらく、戻ってくるのにしばらく掛かる。わざわざその瞬間を待つ程、俺は確かに“テンションが高くはない”のだろう。俺は元々、熱く燃えるタイプではないのだから、仕方ない。そんなこと、咲千だってよく知っているはずなのに。
咲千が水槽を前にした時に、その壮大さに静かに見入っているように。
俺も、ずっと貴方に見入っているのだ。
そんならしくもないクサイ台詞を言えば、きっと貴方は「何に対しても静かなくせに」と照れた顔をして口を尖らせるだろう?
復活後の会話。
「なんでそんなことサラッと無表情で言うの……! ずるい!」
(結局怒ってる……)