2:いくつになっても変わらず
俺の名前は、鈴城学人で、日本で二番目に多い苗字……の一文字違い。だから、どこかひとつズレているのだ、とは彼女の弁だが、その理屈でいくのなら、彼女だってズレている。俺の彼女は、佐東咲千という。日本で一番多い苗字……の、一文字違い。言ったら怒るから言わないけれど、実際ズレていると思う。
そもそも――こんなことを自分で言うのもどうかと思うが――俺と付き合っているというだけで、相当な変わり者であることは確実だ。
その彼女は今現在、リビングのソファーでお気に入りのクッションを抱えながら、俺がビデオデッキに入れたまま放置していたホラー映画に見入っている。ホラーは駄目なのに、どうして見るのだろう。夜に眠れなくなって泣きつかれそう。前も同じことをして、「もうホラーなんて見ない!」とぎゃあぎゃあ騒いでいたのに、何故繰り返すのだろう。
コップふたつに茶を注いで、内のひとつはソファーの前に配置してある机の上に置く。ひとつはそのまま手に持って、彼女の隣に座った。いつもならじゃれるようにすり寄ってくる彼女は、今回微動だにしない。相当ホラー映画にご執心だ――目を離したらテレビから何か出てくるとでも思っているのだろうか――。
そういえば、小学校の時の肝試しでも、彼女は同じような顔をしていた。今よりずっと幼い顔で、今と全く同じ表情をしていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
俺がこの街に越してきたのは、小学校三年生の時だった。
さしたる緊張感があった訳でも、高揚感があった訳でもなく、俺は淡々とその状況を受け入れた。元々転勤の多い父であったから、引越し自体、慣れたものであった。
今回の転勤が最後になるだろう、と両親からは伝えられていた。だから安心していい、と言われたが、何をどう安心すればいいのか、よくわからなかった記憶がある。当時不安に思っていたのは俺ではなく、父と母の方だろう。なにせ、俺は元からこんな性格で、転勤があろうがなかろうが、人と上手くコミュニケーションを取るタイプではなかった。よって、友人と呼べる人間も非常に少ない。少ない、というか今考えるといなかったような気がする。親としては、心配だろう。当の本人は気にも留めていなかったわけであるが。
初日から数日間は“転校生”ということで注目を浴びたが、あまりにも打っても響かないからだろう、次第に人の興味は薄れ、俺は壁と同義と化していた。
一人でいる方が気が楽だった俺は、安心して本を取り出し、自分の世界に閉じ籠ろうとした――の、だが。
「なに読んでるの、外で遊ぼうよ!」
「…………」
「ねーえー」
「…………」
いくら徹底的に無視しても、彼女は引かなかった。期待感というよりも使命感に燃える瞳に押し負けて、本を片手に外に出た。さりとて人の輪に入るわけでもなく、木陰で読書を楽しんでいたので、屋内でも屋外でも変わらなかっただろうが。
家が隣で、親から『お願い』されていたということもあったのだろう、彼女は一向にめげなかった。
いつの間にか、彼女は俺の“担当”として認定されたようで、クラスメイトは俺に用事がある時、何故か彼女を通すようになった。「鈴城くんって何考えているかわからないから怖い」――つまり、そういうことらしかった。
班を組む時も、大抵は彼女が一緒にいた。正直俺としては別に誰と一緒でも構わなかったのだが(どのみち話さないから)。
気付けば二年が経っていた。小学三年生が、五年生になる。割と大きな変化だと思う。
それまでは長くても一年の滞在期間しかなかった俺にとって、二年という期間を共に過ごしたクラスメイトは、少し異質だ。
さすがにその頃になると、男子も女子も、彼女を介することなく俺に話し掛けるようになった――気味は悪いが実害は無い、と判断されたのだろう――。男子の中には友人と呼べる存在もでき、次第に彼女と同じ班になることが“必然”ではなくなってきた。
このためだろう、野外学習の班が同じになった時は、『咲千と一緒になるのは久し振り』だと感じた。だからといって、別に嬉しくも無かったし、逆に特別嫌というわけでも無かった。班が一緒。それだけのことだった。
キャンプ場に行き、自ら火をおこし、ご飯を炊き、カレーを作り、テントを張り、――要するに、野外学習というのは、そういうイベントだ。
親がいない環境で子供だけで何かをする、という空間は、同世代の仲間たちにとっては、特別なことらしかった。みんなが浮足立っている。咲千も例外に漏れず、そわそわしていた。
その気持ちを発散させるために開催したのか、逆に増幅させるために開催したのか、夜に先生主催で肝試しを行うことになった。未だにもってどういう意図があったのかわからないが、個人的には『問題を起こされるくらいならいっそ学校側がある程度のものを用意した方がマシ』論に一票を入れたい。
参加も不参加も自由。誰と行くのも自由。
ならば、と。俺は迷うことなく不参加を決め、踵を返した。
「……って、ちょっと待ってよ、学人、参加しないの?」
逃がさないぞ、とばかりに咲千が俺の腕を掴んだ。その瞳の奥で、いつぞやと同じような使命感の炎が燃えていることを見て取り、肩を竦める。こういう時の彼女は、大概しつこい。
「参加しようよ」
「やだよ、面倒」
「きっとおもしろいから!」
「おもしろくない」
「で、でも……たぶん、楽しい、よ!」
平行線な応酬を繰り広げている傍らで、周囲の人間は次々と参加を決め、列に並んでいく。何分かおきに一グループが出発するシステムのようだ。見れば、普段咲千と一緒にいる女子も、既に並んでいる。俺の視線を追った彼女は、困ったように眉尻を下げた。一人で参加するのも怖いけど、不参加は嫌だな、と言いたげな顔。馬鹿だなあ、と思う。それなら俺など気にせずに、友人と一緒にいれば良かったのだ。
ふう、と小さく息を吐く。
「そこまで言うなら、仕方ない」
何か言われる前に、さっさと彼女を連れて並んでしまう。あれ、という顔をする彼女を意図的に無視する。
こういうイベントで男女二人になると、大抵の場合は周囲からなにかしらのからかいを受けるものだが、こと俺と彼女に関して言えば、何年も前から植えつけられた『固定概念』があるからだろう、何か言われたことはない。
結果的には、それは俺にとっては幸運だったのだろう。彼女はきっとそういうからかいを受けたら、俺から距離を置いただろうから。そして当時の俺には、それをわざわざ追っていくほどの熱は無かった。
家から持ってきた懐中電灯を片手に、暗い小路を歩く。どこからともなく、虫の音が聞こえる。
肝試しのルールは、『この先にある櫓に置いてある物を取って戻ってくること』だ。誰ともすれ違わないということは、おそらく一本道ではないのだろう。それにしても、夜になると風が涼しいな。
そんなことを考えながら進んでいたら、「もっとゆっくり歩いてよ!」と文句を言われた。普段の彼女の歩くスピードに合わせていたつもりだったので、首を捻る。普段と状況が違うと、歩幅も変わるのか。
見るからにへっぴり腰で辺りを薄気味悪そうに窺っている彼女の姿に、「そんなに怖いんだったら、不参加にすれば良かったのに」と思わず本音を漏らす。
「こ! 怖くないよ! 怖くないもん!」
「……嘘つき」
「嘘じゃないよ、馬鹿!」
どうして俺が馬鹿呼ばわりされなければならないのだろうか。しかしこれ以上文句を重ねたところで、良い結果は生まれないような気がする。俺は口を閉ざした。咲千は極限を越えたのか、おばけなんていない、という趣旨の歌を一人小声で歌い始めた。斜め後ろから囁くように聴こえてくる女の子の歌。こっちの方が余程ホラーだ。
結局当然のようにおばけなど出ず、不審者も熊も現れたりはせず、――途中、風の音でビビった彼女に耳元付近で叫び声を上げられるという事故は発生したが――何事もなく櫓に辿り着く。小判型の厚紙(に、金色の折り紙が貼ってある)を手に取りながら、まるきり子供騙しだ、という感想を抱く。もうちょっと何か無かったのだろうか。さすがに小学五年生でも、「わあお宝だ!」とはならない。
非常に冷めた目をしていた俺の隣で、「わー、小判だ!」と目を輝かせる咲千。
「…………」
「え、なに?」
「いや、――まあ、いいんじゃない」
「なにが!?」
こっちの話だから気にしないで。誤魔化すように話を打ち切って歩き始めれば、置いていかれては堪ったものではないと思ったのか、咲千が慌てて横に並ぶ。先程までさんざん怯えていたことをまるで忘れたかのように、「答えてよー!」と騒いでいる。
「素直であることは得だなって思っただけ」
「……馬鹿にしてない?」
じっとりとした目を向けてくる咲千を一瞥し、無言で顔を背ける。何その反応やっぱり馬鹿にしてるよね、と喚く彼女は、お化けでさえも敬遠しそうな程、煩い。
交わされる言葉は、普段とまったく変わらなくて、わざわざ肝試し企画とやらに参加しなくてもできそうなものばかり。それならやっぱり不参加でよかったじゃないか、と思う。その考えを読んだわけではないだろうが、まさに抜群のタイミングで、咲千が口を開いた。
「ね、楽しい? 参加してよかった?」
「あー」
少し悩んでから、返事をする。
「楽しいよ。よかった。咲千のおかげ」
社交辞令だ。それ以外のなにものでもない。これ以上騒がれると、いい加減に鬱陶しいな、と思ったから。
――それなのに。
「それならよかった!」
心から自然と湧き出したように、彼女の顔がふにゃりと綻んだ。
「――――」
素直は得だ。改めて強く思う。――裏も無く、そんな笑みを見せて、ありったけを注いでくるくせに、きっと重たいことは何も考えちゃいない。
そうやって心を揺さぶるだけ揺さぶって、どうするというんだ。
「んん? どうしたの、学人。あ、まさか今更になって怖くなったの?」
「……まさか。咲千じゃあるまいし」
「わ……わたし怖くないもん!」
そうか。……俺は怖いよ。貴方が怖い。
だって、俺より良いやつはいくらでもいる。
俺はいつまで経っても、俺にしかなれないのに。
「あ、ゴールだ!」
大人になっていく咲千が駆ける。その背中を、俺は見送る。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「――と、がーくとー!」
薄らと、目を開く。部屋の電気が真っ直ぐに目に突き刺さって、痛い。どこだ、ここ。寝ぼけている頭は、現実と夢の境目にいるようで、今いる場所をうまく認識できない。
「珍しいね、学人がソファでうたた寝なんて」
「……あー」
目を隠しそうな長さの前髪を掻き上げながら(伸びてきたな。そろそろ切りたい)、頭の中の時計が針を進めていく。ぐるぐると。早送り。鼻歌まじりの咲千が温かいお茶を入れて戻ってきた頃にようやく現代まで到達する。
「はい」
差し出されたお茶を飲みながら、ぼんやりと天井を見る。なんであんな夢を見たのだろう。ああ、直前にホラー映画を観る彼女のことを考えていたからか。そういえば、映画が終わっている。今、部屋に響いているのは、バラエティのやかましい笑い声だ。
「映画は? 観るのやめたの?」
「観たよ! 最後まで一人で観たさ畜生め! 怖かったわ馬鹿ぁ―!」
だから、なんで俺が馬鹿呼ばわりをされなければならないんだ。過去とリンクする。
相当深く眉を寄せていたのか、咲千は俺の顔色を確認するように視線を動かしながら、「大丈夫?」と言った。別になんともない、と突っ撥ねる。そっか、と一瞬押し黙った咲千は、しかし次の瞬間、神妙な顔つきとは不釣り合いの陽気な鼻歌を歌い始める。あまりにも突拍子も無い行動に、悪魔にでも憑りつかれたか、と疑った。
俺が警戒するように身を引いたからだろう、咲千はむっとしたように顔を顰め、しかしやっぱり口ずさむソレはあくまで明るい。
「し、仕方ないでしょ、怖かったんだよ! 歌ってたり、笑ってたりしていたら、お化けだって逃げていくはずなんだから!」
――ああ、なるほど。
お化けを、明るい曲や人の笑い声で掻き消そうとしていた、らしい。お化けを退けようとして歌うところは、昔から変わらない。
一人でお風呂入るのも精神的に厳しい、と涙目で項垂れる彼女を見、しかしあの映画はそこまでして観るものだっただろうか、と思わないでもない。生活に支障が出るくらいだったら、観なければ良かったのに。本当に、昔から根本的な部分が変わらない。
変わったことといえば、俺の無表情から多少の感情を読み取れるようになったことだろうか。呆れの眼差しを向けられていることを察知した彼女は、ぷっくりと頬を膨らませた。
「好きで見たわけじゃないもん。学人がい……っつも本に夢中だから、せめて共通の話題を作ろうと思ったの」
ぱちり、と目を瞬かせる。そこにまさか自分が出てくるとは思わなかった。てっきり怖いもの見たさでやっているのだとばかり。ぽかんとしている間に、どんどん膨らんでいく頬。思わずふっと笑えば、「なんで笑う! 私は真剣に怒っているのに!」とますます両頬の袋が大きくなる。
「読書も楽しいけど、咲千といるのも楽しいと思ってる」
「う、嘘だ!」
「……なんで昔の嘘は簡単に信じて、今の本心は信じないんだ」
あの時の方が余程、あからさまにどうでもよさそうな響きしか持っていなかったというのに。大体、「楽しくない」などと言ってもやっぱり怒るくせに。いったいどうして欲しいんだ。理解できない。人付き合いは咲千の方が上手いんだから、俺に過度の期待をしてくれるなよ。
どう伝えれば良いのかがわからなくなって眉尻を下げれば、咲千もまた、自分がどうしたらいいのかわからないという顔で立ち尽くしていた。まるで迷子みたいだ。なんだ、咲千だってわかっていないのか。暴走した挙句に、自分で収集がつけられなくなったようだ。高い木に駆け上って、降りられなくなった馬鹿な猫と同じ。――難しい問題はわからなくても、それくらいなら見て取れる。
手を伸ばし、木から救い出すと、自分の胸に閉じ込めた。二人分の重さに、ソファが沈む。
「意地っ張り」
「そんなことないもん」
「おばけ、怖い?」
「怖くない」
「本当?」
さっきは「怖い!」と叫んだのに。耳元で笑うと、咲千は、きゅう、と俺のシャツを握り締めた。彼女が顔を上げる。至近距離で視線が絡む。挑むような瞳。
「怖いよ! 悪いか!」
「別に悪くない」
再び距離を縮めながら、密やかに笑う。
貴方が怖がりだったから、俺は今ここにいて、とても幸せで。
俺は貴方よりも怖がりのくせに、それなのに怖いなどとは口に出せないくせに、――欲しいものを、手に入れている。
それは、ああ、なんと狡く、幸運なことだろう。
言葉にしたところで、咲千はきっと信じないだろうけれど。俺だって、それを上手く伝える術を持たないけれど。
熱を共有するように、強く抱き締める。驚いたのか身体を強張らせた彼女の耳元で「今は?」と訊ねれば、ぼそぼそとした声で「今は大丈夫」と返ってきた。どうやら及第点を得ることができた模様。じゃあしばらくこうしているか、と呟くと、ようやく彼女はリラックスしたように肩の力を抜いた。
「……あったかい」
「それは良かった」
「あったかいと、怖くないね」
だから人は手を握ったり、抱き締めたりするのかな、とぼんやりした顔で静かに声を吐き出す彼女に、「そうかもしれないな」と俺は無難に同意を示す。
(なあ、咲千)
心の中で、こっそり囁く。咲千は知らないだろうけど、――いくつになっても、どれだけ温かくても、むしろ、温かければ温かい程に、俺はやっぱり貴方が怖いんだよ。
それでもずっと手放せずにいるのだから、もう救いようがないんだろう。
彼女を抱き締める腕に、力を込めた。
小学校の時に、学校主催で「肝試し!in夜の学校」をやりました。自由参加。グループも自由。
真っ暗な廊下で懐中電灯が電池切れを起こした時は、ほんと怖かったです。怖かったけど、楽しかったです。
お化けの「わああ!」という声よりも、「きゃああ!」と悲鳴をあげつつ走り始めた友人にビビった記憶があります。