08
……結局の所。10年の時を経て"仮想現実"に突きつけられたのは、他ならぬ「リアリティ」の問題であったという。
間的から層的に発展を遂げたネットワークと、人間の想像力……あるいは"共感力"が緊密に組み合わさり可能となった夢の世界。
その前に立ちふさがったのは、他ならぬ「人間の想像限界」そのものであった。
例えば。大きい鼠のような化け物が一体、あなたの目の前に立ちふさがったとしよう。
その後、あなたはどうなるだろうか? 無慈悲に、為す術も無く齧りつかれてしまった?
あるいは夢の世界で有るのだから、どうにか上手く蹴飛ばすことができた……あるいは、超自然な力に目覚めて一掃してしまえた?
想像の翼で羽ばたける世界は広い。こと、自分の中に留めておくに限るならば、我々は宇宙の果てですら自由にする権利を持っている。
"だが、想像を「細かく」するのには相応の知識と訓練が必要だ"。
鼠の化け物はいったいどれほどの質量を持つのだろう。どれだけの速度で飛びかかってきたのだろう。
それを可能にするには鼠の脚がどの程度の力を出せればよく、その時毛皮の房一つ一つはどのように波うったのか?
現実は厳密である。こと物理演算という点に置いて、人間の想像は現実の足元にも及ばない。
どれだけ回線速度が上がろうと、どれほどCPUが優秀だろうと、機械の計算では現実の速度に追いつけない。
ゆえに、そこに立ち塞がったのは「限界」だ。
見えて触って聞こえる夢の国は、非常によくできたハリボテの世界だった。
それでも人は夢中になり……夢中になるほどに、想像が"現実"に届かない事に失望する。
話をミラージュ&ヴィジョンズ・オンラインに絞れば、ゲームバランス的な問題もある。
プレイヤーは決して、本当にモンスターとの戦いとの為に訓練を積んだ戦士ではない。だが、その役割を味わいたいと思ってゲームをプレイしているのだ。
ならばそこに必要なのは、決して現実感だけとは言えない。
むしろ現実に拘り過ぎれば、モンスター1つ倒すのも満足にできないプレイヤーがゲームから離れて行き、やがて衰退するであろうことが目に見えていた。
だからこそ、MOBの動作にはパターンが有るし、そのAIには穴が有る。
同じ戦法が(過度に問題あるものじゃない限り)永遠に通用し、同種のMOBであれば多くても片手で数えられる程度の個体差しか存在しない。
結果、どれほど素晴らしい出来であってもハリボテに過ぎず……その事を、運営もユーザーも満足して受け入れていたのである。
――そう、だからこれは感じる「リアリティ」の問題だ。
〈Qwerty〉の上半身から漂う、炭化した肉の匂いの問題だ。
未だ微かに痙攣する、不自然な方向に折れ曲がった腕の問題だ。
ついさっきまで言葉を交わしていた相手の、物言わぬ死体が持つ"現実感"が、アルフォースを打ちのめし強制的に立川有栖の顔へと戻らせる。
心臓がバクバクと跳ねている。呼吸ができているかどうかすらの判断もつかない。
有栖はすぐ側で暴れまわるベヒモスの事すら忘れたかのように、腰を抜かしたまま浅く肩を上下させ続けていた。
「う、あ……ひ、ァ……ハァーッ……ハァーッ……!」
悲鳴を上げたくて。それすらもままならぬほどに、頭の中が白く染まっていて。
ほどほどにデフォルメされた少女の顔の、二度と言葉を発する事は無いのだろうと予感させる、土気色をした唇をじっと見る。
ただ、血だけが流れなかった。その代わりとでも言うように、断面から光輝く粒子が粉砂糖のように散って溶けていく。
「アルッ!!」
狼狽したリッツの叫び声が、ようやく聞こえた。
「大丈夫、大丈夫よ。だって、"アバター"なんだから。死に戻りもできるんだし、蘇生だってちゃんと……」
「ぐっ……分かってる、分かってるよ……!」
そうだ。これはゲームなんだ。いや、ゲームそのものでは無いにしろ、ゲームシステムの幾つかはちゃんと生きている。
そう考えることで、有栖の中でようやく「クァーティーの死」という現実が昇華されていった。
〈蘇生〉をすれば息を吹き返すし、HPを回復させれば欠損した半身すら文字通り生え変わる。
世界転換に巻き込まれたアバター達にとって「死」とは絶対のものではなく、まだ幾らでも取り返しの付く事態なのだ。
ゆえに有栖は、何の疑問ももたずに己のインベントリに入った〈不死鳥の尾羽根〉をクァーティーに向かって行使した。
「あ、だめッ……!」
リッツの静止の声が虚しく響く。
伸ばした手は、自動回避の力によって迫り来る爪撃を避ける動きへと変化した。
少しの待機時間の後、ほんの僅かなエフェクトと共に紅い尾羽根は光の粒となって消えていく。
だが、一拍の間を置いてもクァーティーの状態に変化は見られず、有栖の手には空を切るような感触だけがある。
「ッ、何で――」
失敗したんだ、と続けることすら許されず。
「――ッ!? ぐ、あッ……」
視界がまたたく。いつの間にか、有栖は大の字になって天を仰いでいた。
体中の筋肉と骨が軋みを上げて、熱さが痛みに変わっていく。口から出る唾液混じりの息は荒く、焦点が涙で滲む。
(今、いったい何が起きた?)
有栖の思考が、再び千切れて絡まりだす。鋼同士が擦れ合う、凄まじい音が聞こえたのは確かだ。
殴られた? 誰に? 決まっている、ベヒモスの他に居るはずがない。だが、何故。
今、奴のヘイトはリッツに向いているはずなのに――?
……かつて戦闘バランスを決めるに辺り、"M&V"開発チームは〈蘇生〉の扱いを特に慎重に行う必要があった。
すなわち、「戦闘中にプレイヤーの蘇生行為を全くの無条件に認めれば、ゲーム的面白みの無い手段によって全MOBは駆逐されるだろう」という見通しである。
かと言って、まったくの否定もしたくはない。仮に盾役が崩れたあと完全に巻き返しが効かぬようでは、ゲームの比重が盾役に傾きすぎる。
結論から言えば、彼らは「〈蘇生〉を使用した者のヘイトを短期的につり上げる」ことで折り合いを付けた。
そうすれば、万が一の際に誰が蘇生を行うかは立派な戦術要素の一つになる。もちろん〈蘇生呪文〉を使えるのはクレリック系列のみだが、蘇生の手段は決して呪文だけには限らない。
アイテムという比較的安価な蘇生手段がある以上、むしろ〈詠唱〉の必要がある後衛が戦闘中に蘇生を行うのは下の下策であった。
詠唱中にダメージを与えられたキャラクターは、詠唱中断のリスクを負う。
ギリギリのライン上で数秒のアドバンテージを失えば、当然待っているのは全滅の二文字である。
結局のところ、"立川有栖"は初めて見る死体の現実味に動転し、混乱し、そして〈アルフォース〉であれば犯すはずの無いミスを犯したのだ。
――その事実に気付いた時、既に〈アルフォース〉のHPは半分以上が失われていた。
「ひ……」
巨大な質量に弾き飛ばされた身体が、大きく背後の樹を揺らす。
前後に揺さぶられた肺袋から、空気という空気が絞り出されてゆく。痛み、苦しい。体中がズキズキと軋む。
息を吸おうにも上手く吸えず、地上だというのにこのまま溺れ死ぬのでは無いかと錯覚する程であった。
慌てて『マイティガード』を使用するも、何もかもが遅い。
「う、ああああ! わあああああ!」
仰向けになった身体をベヒモスの巨体にのしかかられ、爪と掌で押さえつけられる。
纏う紫電のバーンダメージとショックダメージの双方が、アルフォースのHPごと有栖の心を灼いた。
まるで開いた傷口を、直接炎で炙られているかの如く。堪え切れぬ苦痛に悲鳴が溢れ、思考を白く灰に変える。
「なんっ、だよぉぉぉ! なんでこんな痛いんだよおおお!
ま、『マイティガード』、使っでるじゃないがぁぁぁ!」
有栖の涙と鼻水を垂らし叫ぶ声が、森の木々に反射する。
マイティガードは使用中、あらゆる被ダメージを5分の1も軽減する、ODスキルの中でも屈指の強スキルである。
アルの最大HPであれば、ベヒモスに20回殴られてもゼロにならない状態になるはずなのだ。
濁った思考の中、立川有栖が訝しむ。
視界には黒点がチラつき、今は関係の無い様々な事柄が脳裏を巡り回っていく。
怨恨を怒りとして燃やしながら、殺気立った顔で巨獣は有栖を見下ろしている。
『マイティガード』越しの秒間ダメージは、そう大きくは無い。すり減ったアルフォースのHPを減らしきるのにも、30秒はかかるだろう。
回復役が居れば10秒でHPを全快できる"M&V"においては、痛いとすら言えないはずのダメージ。
(ダメージ?)
ふと、遠い所から自身の声が囁いた。
(何を知っているんだ? 本気で殴られた経験も、ましてや死にかけた経験も無い癖に)
あぁ、当たり前だ。立川有栖は、本当になんの見どころも無い、高校受験を間近に控えた中学生だったのだ。
喧嘩なんてしたことがあるはずも無いし、怪我や病気なんてせいぜい捻挫したことがあるくらいだ。
街の中で普通に生活し、普通に成長し、普通に思春期に入ってネット内に居場所を求めた。
やや内向気味に分類されるかもしれないが、特別な所なんて何もない。
(だったら分かるだろ? お前は単に、甘っちょろい勘違いをしているんだ)
勘違い? 有栖は自問する。だって、クァーティーは余裕ぶりながら戦っていたはずだ。
HPはポーションで回復するかもしれないが、殴られた痛みは、自分よりも酷い筈なのに。
それともあれは、無理をしていたのだろうか。メインキャラよりも下がりきった自身の性能に歯噛みしながら、パーティを十全に活かす為に、あえて。
(そうだ、平気なはずが無い)
これが"戦い"なのだと、ようやく気付いた。ただグラフィックを見ながら当たり判定を叩くのとは違う、殺し殺されの"本当の戦闘"。
覚悟がヌルい。無様を晒した。ベヒモス戦前、クァーティーが終始不安気だったのは、それが分かっていたからだったのだろう。
それを、察することさえできずに舞い上がった結果の失敗。
("20回も殴られれば人が死ぬ"ようなダメージ、痛くないはずが無いじゃないか――!)
もう取り返しが付かない状態にまでなって、やっと分かる。
ああ、この瞬間にいたるまで、有栖は「ゲームの中に取り込まれるなんて夢のようだ!」と、心の何処かで喝采をあげていたのだ。
"ウェザールーン"の地では、自分は〈アルフォース〉になれる。魔法のように別の誰かの皮を被って過ごせるのだと。
――アルフォース。
麦畑のような金の短髪に、碧色の目。普段その素顔は兜に包まれ見えないが、実は20にも見たぬ若年者。
全身鎧に大きな弩弓という異色の出で立ちでありながら、〈半木精人〉の中でもその腕前は随一の〈重騎士〉だ。
思慮深く落ち着いた態度から滲む雰囲気は常に大人びており、年齢を倍以上に誤解されることもある。
しかし根本には英雄に相応しい熱い魂があり、時には見返りがなくとも人助けを行う"特別な"騎士――
そんな設定を、別に何かに書き記したわけでも、誰かに語ったことがあるわけでもない。
有栖の胸の中で眠っているだけだ。そういうものが、世に出したら笑われるものだということくらい理解している。
ただ、そうあればいいと思っていた。こう在ってみたいと。ゲームの中で、単なる遊びだからこそ。
「立川有栖」なんてつまらない存在からは離れて生きたいと、夢見ていた。
(だけど本当のオレは、何の変哲もない中学生だ)
そんなことは、とうに分かっている。自分にはどうにもできない部分だと、とっくの昔に諦めている。
自分はいきなり教室を占拠したテロリストを罠にかけることも、先祖返りを起こして不思議な術を使うこともない。
話したことの無いクラスメイトに、声をかけることすらできない凡庸な人間なのだ。
いくら浮かれてみたって、戦闘なんて"特別"なことが完璧にこなせるわけが無い。
"立川有栖"では、あの黒鋼の獣に太刀打ちできる理由など、最初からなかった。
「う……」
そして多くのプレイヤーが、その特別なことができずに剣を置いたのだろう。
そんな彼らを、軽蔑の眼差しで見たことが無いとは言えぬ。だからこそクァーティーに誘われた時、本当は心の底から踊りださんばかりに喜んでいた。
自分は"違う"のだと、誰かから認められたみたいで――
「……ぐ、けほっ」
不意に、視界が光を取り戻す。
叫ぶ精根も尽き果てて、少しの間気を失っていたらしい。
自身を地に縛り付けていた重みはもはや無い。気絶したことで標的から外れたのか、純粋にリッツがヘイトを剥がしたのか。
「いっ、てぇ……」
ダメージを受け続けていたせいだろうか。身体を少し動かそうとしただけで激痛が走った。ひび割れのように身体に残る裂傷から、光が溢れて漏れていく。
手も足も、持ちあげられないほどに辛い。軽く骨が折れているのか、浅く呼吸をするたびに胸の下がギシギシと痛んだ。
こんな思い、もう二度としたくないと考えてしまうほどに。
「ちくしょう」
手を動かす余裕すら無いのに、涙がとめどなく溢れてくる。
鼻の下でパリパリと、乾いた体液の違和感が気分を不快にさせた。
「ちくしょう……」
背にした大地から地響きが伝わる。
いつの間にか、ベヒモスの紅く血走った瞳が自身を見下ろしていた。憎悪と、怒りと、嘲笑に光る目が。
「……リッツは、どうした」
GRRRRRRRRR――……
軽く蹴り飛ばされるように一人分の肉塊が中を舞い、そして光の弧を描いて地に落ちた。
巨獣の呟きの持つ言葉を、有栖は理解する術を持たない。だが、にわかに歪んだ口角から、意味を察することはできた。
これはつまり、勝者の余裕だ。今、奴は勝ち誇っているのだ。
じわじわと自分を苛んでいた魔法使いの女をこうして屠り、手痛い一撃を食らわせてきた弩持ちの男も眼下に置いて。
アルフォースは、横目で投げ捨てられたリッツの身体を注視する。その腹部には深々と抉られたらしい爪痕が残り、光る粒を吹き出していた。
充分なステータスが有るとはいえ、ソロでは持ち堪えられなかったか。1人だけになった時点で、逃げたって良かっただろうに。
「死にたく、ない」
気づけば有栖は、呆然とその言葉を呟いていた。
"システム"があれば蘇生できる。死に戻りできる。自分達がアバターである限り、真なる死は訪れない。
――だが、それがどうした?
有栖はもはや、数日前の自分をそう罵倒してやりたい心で一杯であった。
ゆっくりと近づき、背筋に冷たい指を当てる「死」の恐ろしさを知っているのか。
肉体から生命の力が抜けていき、体の芯が冷えた鉄の棒にだんだんと変わっていくような、この寒々しさを知っているのか。
そう叫んで、叩きのめしてやりたい気持ちであった。
「目を覚ませよ、ちくしょう……!」
涙でぐしゃぐしゃの顔を歪めて、有栖は奥歯を噛みしめる。
あぁ、立川有栖は凡人だ。正義だとか、勇気だとか、そんな正の感情で敵に向かっていける英雄的素質を持ってはいない。
クァーティーもリッツも、これを乗り越えているのだろうか。怖いと分かった上で、戦っていたのだろうか。
自分だけが、しっかりと理解していなかった。硬い鎧に身を包んで、安全な所から矢を打ち込んでいただけでは。
「オレだって……オレたちだってなぁ……」
だけど、そうして恐怖を押し付ける相手ももう居ない。
この場に残ったのはただただ己と獣のみであり、打ち勝てなければ食われて死ぬ。
死ぬのは嫌だ。死なせるのも御免だ。自分たちは追い詰められて、もう何も、誰も、言い訳にすることはできない。
「――この世界で生きてかなきゃ、いけないんだよぉッ!」
「覚悟が決まった」なんて言えないが。有栖は引き千切れそうな腕を無理矢理動かして、矢を一本地面に突き刺した。
瞬間、強烈な光が刹那の間だけ森を覆い、木々の隙間から曇天の空へと溢れ出す。
『スタンボルト』自体はなんてことのない、虚仮威しのための矢に過ぎない。その本来の効果も、ボス属性に阻まれて意味を成さぬ。けれど、目を眩ませるのには充分だった。
本来、弓を使わなければ発動しないはずのスキルだが、それはいい。
土に磔とされたかの如く重い身体を地面から無理矢理引き剥がし、有栖は己の相棒を手に握る。
ARRRRRRGH――ッ!?
狼狽したベヒモスが滅茶苦茶に振るった爪が、つい先程までアルフォースが寝ていた位置を切り裂く。
不思議と、心が揺るがなかった。もはやとっくに振り切れているのだ。恐怖と本能に突き動かされ、頭は黒く染まっている。
自身の中で残響する言葉は一つ。――生きたい。生きる。生きる。生きろ! その為に!
「テメェが、死ね――ッ!!」
駆け回る。弦を引く。矢を放つ。
生まれて初めて心の底から湧いてくる「殺意」に対し、傷だらけの身体は驚くほどに素直に動いた。
ああ、有栖自身は確かに何の変哲もない中学生である。だが、この世界に居るのは純粋に立川有栖とは言いがたい"何か"だ。
〈アルフォース〉はロマンである。そのLvは90に近く、弩の扱いであれば誰にも負けぬ。それは、他ならぬ立川有栖の夢の姿。
あぁ、ただの"立川有栖"であれば、当然のように死ぬしか無かっただろう。
だが今、この騎士の体だけは、立川有栖の"凡庸"からかけ離れている……!
――GAAAAAARRRRRRRRRRRRFッ!!
ベヒモスが視界を取り戻し、その紅眼に騎士の姿を捉えた。
そして今度こそ完全に殺し尽くすべく、闇雷を纏った腕を振りかぶる。
あまりAGIの無いアルフォースでは自動回避など望むべくもない。凌ぐしかないのだ。今、この身体に残る能力、この技術で!
「う、わあああぁぁぁー――ッ!!」
腹の底から声を出したのは、果たして何年ぶりだっただろう。
身体に残ったあらん限りの力を振り絞り、少年は、ベヒモスの腕に向かい拳を突き出しながら一歩前へと踏み出した。
〈重騎士〉の常態スキルの発動条件を満たした体勢が、叩き付けられる右掌を打ち払う。
「オレはッ! 〈アルフォース〉だッ!」
叫んでしまえば、ふっと身体が軽くなったようであった。
流しきれなかった衝撃が身体を打ち据え、鎧の隙間から光の粒子が溢れていく。
背中を打った際に金具が外れていたのか、顔を覆っていたフルフェイスの兜が弾け飛んだ。
犬歯を剥き出しに叫ぶ少年の相貌に張り付いた、汗でしめった金の髪が風に流され。
「二人と居ない! 恐れ知らずのッ! 弩持ちの〈重騎士〉だぁぁぁー――ッ!」
本来両手持ちであるはずの弩弓を、片手で無理矢理に振り回しベヒモスへと向ける。
遠心力に引き伸ばされた筋肉が、みしみしと悲鳴を上げた。痛みをこらえながら、引き金に指をかける。
狙いを付ける必要は無い。矢尻は既に、黒鉄の皮に刻まれた傷跡に直接口づけを行っていた。
だが、次の攻撃はすぐに来るだろう。『ミストルティン』発動までの5秒間が、雲のように遠く。
「リィー――ッツ!」
「……ゲホッ……怪我人づかいが、荒いわね……!」
だからこそ〈賢者〉が、パーティ戦では「時」を消し飛ばす役目を持つのだ。
地に倒れ伏していたリッツが最後の精神力を振り絞り、己から湧き出る光の粒子を束ねてアルの弩へと流し込む。
賢者が誇る『瞬唱』の力を借りて、倍速再生をするかのように展開した魔法陣が、完了を示す撃鉄を降ろした。
肩を奔る痛みを堪え、アルが引き金に指をかけた、その時。
――GARRッ!!
ガクンと、突きつけていた砲口が傾く。
攻撃も防御もかなぐり捨て、支えの一端であったベヒモスの身体が『ミストルティン』の射線から退くように跳び避けたのだ。
「なっ……」
「驚くことかよ……」
絶句するリッツを、アルフォースが諌めた。
リッツの驚愕もまた当然の事ではある。これは命中ステータスが足りない事による、敵側の自動回避とは訳が違う。
ほんの一瞬、些細な動きを穿って見ればであるが、今ベヒモスは「逃げた」のだ。そのような行動、通常のMOB用AIには用意されて無い。
逃げ出す敵、あるいは特定の行動に対するカウンターとして避難を選択する敵は居るとしても、「死にそうだから逃走に力を注ぐ」などと言う仕様は"M&V"には無い。ましてや、ボスであるならば尚更に。
「コイツだって"生きて"るんだ……覚えもする、避けもするんだ」
しかしアルフォースとって、それはむしろ納得がいく行為であった。『ミストルティン』の威力は絶大で、それを一度この巨獣は喰らっている。
だとすれば、生命として当然の警戒を行っていたとしてもおかしくはないだろう。
思えば、MA中に仕掛けようとした時も反応があったのもそのせいか。
プレイヤーが探知範囲に居なくとも、己が攻撃対象にされれば逆探知を行う〈干渉感知〉の能力。それは、ベヒモスに元々設定されていたものではあるが。
この世界では、獣が持つ直感として顕現している。己に向かう"死"の匂いを、それで嗅ぎ取ったのだろうか。
「だが今、お前は恐れたな……!」
そして今度は、アルフォースが嗤ってやる番だった。
相変わらず腕は重く、予想以上に肩は回らない。照準を再び合わせるのと奴の爪がこの身を切り裂くのとどちらが早いかは、まだ五分五分といった所。
だが確実に相手も限界に近づいている。この一撃で決まるという確信が、〈アルフォース〉から恐れを吹き飛ばした。
"特別な"ボスであるはずの兵器巨獣が、平凡なるこの自分に怯えを見せたのだ。それはどうにも、気味が良いことであった。
碧眼が、巨獣を射抜く。
「オレを恐れたな、ベヒモォスッ!!」
――GAAAAAARRRRRRRRRRRRFッ!!
痺れる左腕を弩弓の下部へ、アルフォースは奥歯を食いしばり砲口を持ち上げる。
侮辱された、という空気は伝わったのだろう。憤怒に染まったベヒモスの紅蓮の瞳孔が、殺意に縮んだ。
獣の王は侮辱を許さぬ。身体に纏う闇雷が輝きを増し、その黒鉄の毛皮を照らし出す。その眼にはもはや、不遜なる騎士しか映ってはおらず。
――ゆえに、"転換者たち"の勝利がここで決まった。
「もってけ200kェー――ッ!!」
少女の声とともに、轟音が爆ぜる。
かつて、PC間取引でもっとも高価な〈爆弾〉系アイテム――しかし、その需要はほぼ合成素材として――が、横合いから飛び出してきた〈マーチャント〉の手で叩き付けられる。
20万という金額には少々つり合わない、とはいえ最上級消費アイテムとしては相応しいその威力は、完全に不意をつかれた形のベヒモスに見事たたらを踏ませ。
「キュー子……!?」
アルフォースもまた、予想外の登場にたじろいだ。だが、それもほんの僅かな間のみ。
ベヒモスが体勢を立て直すより、アルが我を取り戻すのにかけた時間の方が一瞬早く。
その一瞬で、照準が定まる。
「やっちゃいなさい、男の子ォ!」
「そうやって呼ぶなぁッ!!」
裏返った声の、アルフォースの叫びと共に引き金が引かれ、ついに『ミストルティン』は放たれた。
暗紫の輝きと相反するような黄金の燐光は、灰色の雲の下で一直線に軌跡を描き、見事に見開かれた真紅の眸の真芯へと吸い込まれていった。
……空が、晴れてゆく。