04
翌日の朝に起きた騒動は、ある種の予定調和であったかもしれない。
「大変です、皆さま! 孫娘の……カリンの姿が、村中探しても見当たらなく!」
昨日までの様相とはうって変わり、蒼白になって慌てる夜人族の老人からは、あの漲るほどのエネルギーも飄々とした目の奥に眠った野心も感じる事ができなかった。
ただ、孫を心配する一人の祖父がそこに居る。クァーティーは頭を抱えた。
「……つかぬ事を聞くデスが、ひょっとして今日がカリンさんの誕生日デスか?」
「え、えぇ、そうです! 夕方にはあの子の両親も帰ってきて、お祝いをする筈だったのに……」
「なんてこと」
つまりは昨日、アルフォースが言った通りだったのだろう。
三人に断られたカリンは、だが少なくとも向かうべき場所の情報は知ってしまったのだ。
「約束」がどのようなものかは知らないが、自分一人でも、と言う気持ちが抑えきれないまま。
「しまったわねぇ。今日明日の事だって分かってれば、もっと止めようがあったのに」
「分かってたんだろ。だから、『次の誕生日』なんてぼかした言い方したんだ」
最も歳が近いアルフォースだからこそ、何か思うことがあったか。
子供と言えど、10にもなれば子供なりの知恵が回る。村長がクァーティーの肩を掴むと、触覚のように一房反り返った長い前髪が前後に揺れた。
「心当たりがおありなのですか」
「あー……ちょうど、昨日の夜に相談されたデス。『昔、約束した友人に会いに行きたい』と」
「カリンめ……まだそんな事を言っていたのか! 約束も何も、この村にあの子と同じ年頃の子供なんて居ないと言っているのに」
「何にせよ今は、約束の場所に向かったと思うべきデス。『友人』とやらの正体を探るよりも先に」
「そ、そうですな……それで、その、カリンの行き先は……」
震える声が、彼の心情を的確に表していた。肩に乗せられた手をそっとどけると、両手を握りしめる。
「マームリングの森」
クァーティーが支えなければ、村長の身体は今にも崩れ落ちて居ただろう。
血の気の引いた身体が、ガクリと傾いた。
「……まさかとは、まさかとは思いましたが」
「やはり、彼女には何かがあるのデスね」
「あの子は前にも、あの森に一度迷い込んだことがあるのです。
その時は奇跡的に傷ひとつ無く戻ってきましたが、今は、ああ……恐ろしいリザードマンも居るというのに」
背中をトントンと叩いて、クァーティーは腰を落とした村長を落ち着かせていく。
その最中にも、他の二人は鎧や籠手の装備を整え旅支度を終える。二人に向け、クァーティーも頷いた。
「とりあえず、そっちはアタシ達が行くわ。心配しないで、お爺さん」
「まぁ、知らない顔じゃないしな」
「ええ、村長さんは決して村の人を森の中に入らせないようにお願いするデス。
ミイラ取りが……と言っても分からないか。二次被害のおそれがあるデスので」
「分かりました……どうか、あの子をお願いします」
最後にクァーティーが言い聞かせてやると、村長は小さな手を力強く握り返し、暫くの間頭を下げる。
そして何とか声に威厳と貫禄を取り戻すと、あたふたと慌ただしい村人の指揮へと戻っていった。
「行くデスよ、二人とも」
「そうね。一人でなんて危なすぎるし……まったく、どうしてあの年頃の子って無茶ばかりするのかしら」
「なんかそれ、オバちゃんの発言」
「なんだと!?」
「……あるいは、無理では無い程度の……いえ、どちらにしろやる事は変わらないデスね」
何かを言いかけて、クァーティーは口をつぐんだ。
説明は、道中でも遅くない。今は何より、一分一秒でも早くカリンを探さなくては。
「急ぎましょう……実はさっきから、嫌な予感がするんデス」
普段は飄々と笑っているクァーティーの表情が、珍しくシリアスに歪んでいた。
□■□
「〈透明化呪文〉の効果では無いかと思うのデスよ」
ざくっ、ざくっ、と軽く落ち葉や一年草を踏み鳴らす足音を立て、三人は森の中を駆けていた。
マームリングの森は、葉の擦れや小動物の立てる音がその名の通り「ブツブツ」と聞こえてくる地域である。
「〈マジシャン〉の呪文の?」
「村の住人たちの朝はまだ夜も開けきらない内デスから。子供がそれよりも早く起きて、真っ暗な森の中を進めるとは思えません。
事実、騒ぎが始まったのは夜明けより大分遅い、私達が起きた時間帯デスし」
森の中は、既に30~40前後のアクティブMOBが湧く地帯だ。
Lv90近い二人に任せるまでも無く、40ちょっと程度のクァーティーでも負ける事は無い相手であるが、今は絡まれている時間も惜しい。
先程から察知範囲に入ってもスルーされ続けているのも、マジシャンの上級職であるリッツが〈透明化〉と〈加速〉のバフ(有利な影響を与える効果全般。対義語はデバフ)をかけてくれているからであった。
「じゃあ何、あの子マジシャンなの?」
「まさか」
「〈エインセルの指輪〉だろ」
落ち葉の塊を踏み抜きながら、アルフォースが答える。
マームリングの森は、アバターの足で村から1~2時間ほど駆けた場所だ。
「ゲーム内の1日1回だけど、あれも〈透明化呪文〉を使える。
ソロでやってくには必需品だから、オレも持ってるよ」
「あー……アタシ、ファーストも〈魔導師〉だったからなぁ」
「魔法職好きデスねぇ」
『0715』以前、上級職に転職したプレイヤーは〈サブクラス〉を取得する事が可能であった。
下級職の中でもツリー下位のスキルやステータス補正系スキルで自身の能力を補佐する事ができ、"M&V"のキャラクタービルドでも肝となった要素である。
そのサブクラスが、一時期マジシャンのみに集中していた時代があった。
例え〈ウォーリア〉の上級職である〈竜牙兵〉であっても、サブクラスがマジシャンなのだ。勿論〈竜牙兵〉はバリバリの前衛職であるにも関わらず、である。
なぜそんな事になったかと言うと、ひとえに当時の〈透明化〉が強力無比だったからに他ならない。
そもそも"M&V"はシステム上、トレイン(MOBのヘイトを取りPTの陣地に誘導する事を釣りというが、これの数と距離が大量&長大になるとトレインと言われる。ノーマナー行為)ができない仕様になっている。
一人のキャラが10体以上のMOBにターゲット指定された時、防御力と回避力がガクンと下がる仕組みになっているのだ。
だが当時は〈透明化〉を使うと、ヘイトの無い(ダメージを与えても与えられても居ない)敵からのターゲット指定を切ることが出来た。
本来は一対多数の戦闘が出来ないマジシャンへの救済だった筈の呪文が、足を止めずにヘイト稼ぎが出来る〈竜牙兵〉に渡ったことでトレイン地獄が始まったのだ。
「〈透明化〉〈加速〉を併用し美味しい敵だけをトレインして、〈魔導師〉達が絶えず大魔法を唱える陣地へと連れて行く。
トレインされるのだからこちらもトレインしなければ狩りにならないという名目の元、
〈魔導師〉以外のサブクラスはマジシャンで染まりました。国民総〈透明化〉時代デス」
「……地獄絵図だな」
「ごめん、アタシ当時陣地に大魔法撃ちまくってヒャッハーしてたかも」
「まぁ、8系16職の上級職がまだ7系7職だった頃の時代デスけどね。
勿論そんな状況が放置される訳もなく、すぐに透明化を見破るMOBが少数配置されたり
そもそもヘイトを稼いだ状態で透明になれなくなったりして透明化時代は終わりを告げたのデスが」
だとしても、狩場に行くまでのロスが無くなる、と言うだけで〈透明化〉と言う呪文にはメリットがあった。
探索クエストや街とのちょっとした往復でMOBに絡まれる事に、逆にストレスを感じるユーザーが多かったのである。
「〈エインセルの指輪〉は、そう言ったユーザーの要望に合わせて実装されました。
クエスト報酬で誰でも手に入れられる『呪文入りアクセサリ』な訳デスよ」
「んー、それは分かったけど。結局、どうしてそんなものをカリンちゃんが持ってるの?」
「……本来の持ち主だから、か?」
フルフェイスの兜の奥で、アルの声が重く響いた。
鋼鉄の足に踏まれて、小指サイズほどの茸の群生が腐れた倒木ごとグシャリと潰れ脚絆の底に張り付く。
憂いのある表情でクァーティーが頷いた。強い風が、森の葉を揺らす。
「〈花畑の約束〉――俗に、お土産クエスト、とも言われていますが」
「うん、教えて」
「まぁ、ざっくり行くデス。聖都の片隅に、〈お上りのマルメロ〉と言う夜人族の青年が居ます。
まずは彼に話かけて『開拓村から来た』と言う話を聞き、娘へのお土産を用立ててあげる訳デス」
「……開拓村に、娘へのお土産?」
この時点で、キュー子とアルの抱いている『嫌な予感』をリッツも抱くことが出来たのだろう。
自然に喉が動き、唾が飲み込まれた。
「ぬいぐるみやコンペイトーなど、欲しがる物はテーブルの中からランダムなのデスが。
ゲーム時間3日以上の時間を開けながら、これを3回。
さらに3日たって話しかけると、クエストが次の段階に進みます」
風が、ひやりと頬を撫でていく。
「4回目。マルメロは娘がお土産をとても喜んでいた事、とても感謝していた事。
そして……娘が死んだ事をプレイヤーに伝え、〈壊れた指輪〉を渡した後、その場を去っていきます。
その後プレイヤー達は残されたヒントを元にマームリングの森に辿り着き、エインセルとの約束を果たすのですが……」
「……分かった、もう、いいわ。つまり、そういう事なのね。
どうして壊れたかまでは分からないけれど、『ゲーム内で〈エインセルの指輪〉はカリンの遺品だった』って事」
「ゲームじゃあカリンと言う名前すら、出てこなかったがな」
拳を握り込んだせいか、籠手の金属が擦れて鳴った。
しばらく、無言の時間が過ぎた。足音の奥から、ぶつぶつ、ぶつぶつと呟く森の音が聞こえる。
「この先に居れば良いんだけど」
「サブクラスがハンターのアル君なら、私達よりもNPC感知の範囲が広いデス。
あの一帯ならMOBの出現が無いはずデスから……居てくれる事を願うばかりデスね」
実際、カリンが〈透明化〉を行っているならば、この辺りの敵に彼女を感知出来る奴は居ないはずである。
ゲーム内の出来事は、あくまでゲーム内の出来事。実際、彼女は昨日までこうして生きているのだから。
……けれど、跳ねる胸騒ぎが、どうしても収まらない。アルの目が細められた。
「……居た」
「ッ! 本当デスか!」
「フィールド4に中立反応、2つ。名前までは分かんないけど」
「ずっと良いニュースだわ! とにかく行ってみる!」
謎解きをしなければならないだけあって、エインセルの花畑の入り口は隠されている。
古い記憶が正しければ、確か赤いバラの咲く茂みが並ぶ中で、一つだけ白いバラの茂みがあったはずだが……。
「あそこから入れるはずデス!」
ザク、ザクと肌を切る感触が終わり、三人は顔の前で閉じた腕を開いた。
腕に絡みついた茨の刺をふるい落せば、色とりどりの花が咲いた神秘的な湖畔が目に映る。
「うー、痛たた……」
一番軽装であったリッツが、肌のあちこちに切り傷を作って痛そうに身を震わせていた。
クァーティーがカートの中から素早く赤色の液体が入った瓶を取り出し、リッツへと放る。
「ほい、回復ポットデス」
「ん、ありがと……」
実は子供かポクル族の体型ならば四つん這いで通れる仕掛けがあるのだが、それはリッツには言わなかった。
僅かに薬臭い赤色の液体を飲み干すと、傷がみるみる内に塞がれていくのが分かる。
時を巻き戻したように治っていく様子は、正直な所、少し不気味でもあるが。
「いやぁ、痛みも綺麗さっぱり。副作用とか心配になるわね、相変わらず」
「ゲームだと気にせずガバガバ飲んでましたけどねぇ。味の変更するパッチもありましたし」
「それで……どう? 姿は見えないけど……」
丸いレンズ越しに辺りをぐるりと見回してみても、リッツの目には穏やかな水面が映るだけである。
パッシブスキルで透明化を見抜くには、〈ハンター〉職に席を譲らなければならない。
「……居る。〈透明化〉で隠れてる。傷は無いみたい」
「そうデスかぁ、良かった……」
ジッと一点を見続けるアルフォースが一歩踏み出すと、いよいよ隠れきれないと悟ったのだろう。
視線の先から光弾が飛び、アルの肩に当たって弾けた。
先程まで誰も居なかった筈の場所に、白く揺らめくつるりとした貌の、少女のようなシルエットが現れる。
「大丈夫デスか?」
「問題ねぇよ」
「なら良かった。……やめて下さい、こちらに攻撃の意思は無いのデス」
「チカヨルナ!」
主の声はやたら甲高く、まるで機械合成のような。
肩を怒らせて使命感に燃える姿は、カリンを庇うように両手を広げて立っていた。
後ろでカリンが、何かを言いたそうな表情のままモジモジとしている。
「オマエタチ、ミタメドオリ チガウ。キモチワルイ ヒト」
「……望んでそうなったのでは無いのデスよ。この地の人たちからは、"化身"と呼ばれていますが。
私達は、カリンさんのお爺さんからその子の探索を頼まれただけデス、〈エインセル〉さん」
「……ナゼ シッテル」
敵意はまだ消えていないようだったが、こちらに向けられていた魔法力は引っ込められたようだ。
申し訳なさそうな顔で、カリンがおずおずと前に出る。
特徴的な耳がびくびくと震え、その脚に――森を行く途中で切ったのだろう――擦り傷が幾重にも付いていた。
「この子に薬を」
キュー子から差し出された赤ポットを、カリンは舐めるように飲む。
森の中を走り回り、緊張と疲労が溜まっていたのか。彼女は深く溜息をついて、安心したかのように目を細め。
「……はぅ」
「カリンちゃん! 良かった」
「リッツさん、キュー子さん、ごめんなさい、わたし……」
「『かつて森に迷い込んだ時に、〈エインセルの指輪〉を借りる事で無事戻る事が出来た』
『そしてこの日に返すと約束していたため、どうしても会いに行きたかった』……と言う所デスか?」
「っ……ごめんなさい……!」
図星だったのだろう。しょぼくれていた背中が、微かに跳ねた。
緊張の糸が緩み、小さな声で謝罪を繰り返しながら泣きじゃくるカリンの背を、リッツが抱きしめる。
「こんなに怖い思いをしても、約束を守りたかったのね……」
「……カリン」
「ありがとう、エインセル。大丈夫……この人たちは、良い人たちだもの。
また会いに来れる……ううん、絶対、また来るから」
エインセルの寂しげな眼差しに、振り向いたカリンが微笑を向けた。
……ふと、クァーティーたちの脳裏にゲーム内でのエインセルの姿がよぎる。
妖精たちが森を去っていった後、たった独り花畑と泉を守り続け、やっと出来た友人も無残な運命に奪われた彼女。
修復した遺品を「アノ子ノシルシ」としてプレイヤーに譲り渡すよりは、ずっと救いのある結末だと思っても良いだろうか。
「"M&V"でも十指に入る鬱クエストに、こんな形で介入する事になるとは……」
張り詰めていた気が抜けて、クァーティーはふうと息を吐いた。心なしか、触覚の反りもしなびている。
やや子供じみた敵意の眼差しを見る限り、エインセルの好感度を稼いだとは言いがたい形であるが、まあ良い。
兎にも角にも、カナンが無事であった事を喜ぶべきだろう。
「……いや、何終わった気になってんだよ、キュー子」
それを見咎めてか、アルフォースがやや硬い声で後ろから声を掛け。
「むむ、そうデスね。帰るまでが遠足と言いますし、村長さんに無事を伝えるまでは……」
「……? お前、もしかして知らないのか?」
「何の話デス?」
振り向いた視線の先に、アルが憮然とした様子で立っていた。
そう言えば、しばらく会話に参加して居なかった事を思い出す。この花畑に来るまでは一緒に行動をしていた筈だが。
「ちょっと、こっち来い」
「んなっ、とっと」
「リッツはそいつらを頼んだ。オレ、こいつと話があるから」
「んー? まぁ別に良いけど、急いだほうが良いんじゃ?」
「……あぁ。急いだほうがいい」
ふざけて対応するにはあまりにシリアスなので、クァーティーもリッツも訳の分からぬままに首を捻るしかなかった。
忘れていると言われたが、何かそれほどまでに大事なことが有っただろうか?
アルに先導されて歩くうちに、花畑を出て再びブツブツと呟く森の声が戻ってくる。
妖精がまだ森に居た頃であれば、本当に妖精達の囁きが聞こえる森だったのだろうとクァーティーは思いを馳せる。
「ところで、どこまで行くつもりデスか?」
「……ゲームの時代、〈マルメロ〉の話をどこまで聞いた?」
「どこまでって……」
「クエストクリアの後。まだ、マルメロに話しかければ台詞の続きがある。聞いたか?」
聞いてないはずだ、とクァーティーは首を振った。少なくとも、覚えてはいないのは確かである。
クァーティー自身、あまり熱心にストーリーにのめり込むタイプのプレイヤーでも無い。
〈花畑の約束〉をクリアしたのは2年以上前であるし、記憶が多少曖昧になっていても無理もないだろう。
二人は苔の生えた、微かに水が流れた痕を飛び超える。
「……"今"がクエストの通りに進んでるなら、あの村は滅びる。"マルメロは、帰る場所を失っていた"」
アルフォースの言葉にあわせて、シンと辺りが静まり返る。
あるいは、クァーティーにとってそう感じられただけかも知れないが。
「おかしいと思わないか? さっきからずっと探してても、リザードマンの姿だけ見当たらないんだ。他のMOBは居るのにな。
マームリングの森には、下級のウォーリアとアーチャーがウロウロしてるはずだ」
「それは」
反射的に答えようとして、クァーティーは口をつぐんだ。反射的に言おうとした答えを出せず、下唇に指を当て。
「それは……?」
「オレなりに考えてみたんだ。ゲームならそりゃあ、MOBは湧き場所から生えてくる。
でも"ウェザールーン"じゃあいつらだって生き物だ。"別の何処かに行けば、何処かの場所での数は減る"」
先程から、アルにしては珍しく口数が多い。
何か、焦っているのだろうか。そう考えるクァーティー自身、喉がカラカラに乾いていた。
いつの間にか二人は、巨大樹の根本までやってきている。マームリングの森の中で、一番の高所。
かつては隠れた絶景ポイントとして、話題になった事もあったが。
「……もう一つ。カリンの指輪、壊れてたんだよな」
「"M&V"では、デスよ」
「でも、この辺のリザードマンに〈透明化〉を感知できる奴は居ないだろ」
「まぁ……〈透明視〉を持つのは、基本的にアンデッドか……」
――GAAAAAARRRRRRRRRRRRFッ!!
呟き森の空気を、足音の重なりを、異形の雄叫びは破り捨てるかの如く塗り替えていった。
ビリビリと、風が震える。鳥肌が立ち、粟の粒のようになった上を冷や汗が滑り落ちていく。
アルフォースから渡された双眼鏡をひったくるようにして、クァーティーは身を乗り出した。
「〈ボス属性〉……」
まだ霞がかった視線の先からですら、ずしり、ずしりと響く大地の音が聞こえる。
隣を歩く、二十三十のリザードマンたちの5倍はあろうかという全高。黒光りする毛並みに、角が雄々しく聳え立つ。
「そんな、どうしてこんな所に。ここはまだ下級リザードマンが出るだけの、低レベルMAPの筈」
「……ゲームの中じゃ、多分まだ"点"と"点"だった」
苦々しく声を歪めて、アルが言う。青臭い表情を、フルフェイスの兜が覆い隠す。
「ビジュアルファンブックに書かれてたような設定と、何百とあるクエストの一つだぜ。
一々、関連付けて考えるか? 同じ設定を元にはしてるかもしれないが」
「……でも、この世界は"世界"デス。繋がる点と点があれば、それが線になってもおかしくない……」
水筒から一口だけ水を含み、唾とともに嚥下する。
あぁ、思い返せばそんな記述もあったかも知れない。奴はその体躯を用いて、村や砦を轢き潰すための最終兵器としてリザードマンたちに飼われている、と。
「リザヌール港のボス、兵器巨獣〈ベヒモス〉デスか」
なるほど、遠目で見ただけでプレッシャーで腸がひっくり返りそうだ。
"M&V"の中では、幾ら巨大なモンスターであっても、初見で驚きはすれど恐れなど感じなかったと言うのに。
いや、今なら分かる。どれだけ現実感があったとしても、ゲームのグラフィックは所詮ポリゴンとテクスチャでしか無かった。
これは、「肉」の恐ろしさだ。足を振り上げ、振り下ろす。その一つ一つに、鋼のような重みがある。
――そしてあの黒鋼のような獣は、このまま行けば一つの名も無い開拓村を蹂躙し、滅ぼす。
「どうする、クァーティー」
そう問いかける、アルフォース自身も迷っているのだろう。
もしここが"ゲーム"の中であったなら、運命と宿星に振り回されるまま、意思を挟む余地など無かっただろう。
もし自分が"日本人"のままであったなら、現実と諦観に押し潰されたまま、手を上げる事など出来なかっただろう。
だが今、ここに在るのは"日本人"でも無ければ"ゲーム"でも無い。
非常によく似た、だが決定的に異なる世界で生きる「第二の世界を歩む者たち」なのだから。
「オレたちは、どうするべきだ」
不釣合いな木漏れ日の中、黒曜の瞳が兜の奥で輝いた。