アレキサンドの幻燈(4)
……それは、まさに奇跡の産物に相応しい威容であった。
未だ整えられてない身はゴツゴツと、しかしそれでも薄く光っているようにすら見えた透明感。
薄赤いこの宝石は、光の種類によって碧色に変化する奇妙な特性を持つらしい。
そして、何よりもその大きさ。幻晶洞の中でもそうは見ない、片手で握って親指と薬指が付かない程の大きさは、幻想の無い地球世界では尚更見れるものではない。
「こいつは……!」
アルフォースの心の臓が、ドキリと跳ねた。
百分率でコンマ02以下の、そのモンスターにおけるトップレア枠。普段〈○○のモンスターハート〉が入るべきその枠の中にも、幾つかは例外が存在する。
灰かぶり姫の〈アレキサンドライト〉は、ましてやボスレアだ。その鉱石点は36500――否、そもそも魔女が鉱石を集めて模造しようと四苦八苦しているのが、この帝王石である。
つまり、この石があれば全てが終わる。後は〈アレキサンドの幻燈機〉が出来上がるのを座して待つだけであり、そこにプレイヤーの手が入る余地は無い。
毎日のファロス幻晶洞通いという苦行もこれで終わり、後は強装備を手に入れた一流のキャラクターとして、気の向くままに狩場に向かうだけである。
「やったぞこいちろーさん! これでアンタも――」
解放される、と言おうとして。満面の笑みで振り向いた相手が、全く喜色を浮かべていないことに、アルは気付いた。
いや、むしろ瞼を見開き、瞳孔を収縮させ、短く呼吸をしているその様は。
驚いているような、怒っているような――怯えている、ような。
「……こいちろーさん?」
「あ、いや……なんでもないよ。なんでもない」
「大丈夫か?」
「当たり前だろ? はは……ちょっと、いや、心臓が止まるかと思ったけどね」
その次の瞬間には朴訥とした笑みを浮かべ、こいちろーはアルに向かって腕を伸ばしていた。
〈アレキサンドライト〉を渡してくれと、そういう事なのだろう。元より、そういう契約ではある。
アルフォースには対多数用の優秀なスキルがない以上、装備としての幻燈機が必要無いのも勿論であるが。
「そうか……これで、終わるのか」
しみじみと、噛みしめるような口調で彼は言う。
「さぁ、それを渡してくれるかな」
「……わかった」
何か、不穏な気配を感じながら……かと言って、約束は約束。まさか、嫌な予感がするというだけで断るわけにも行くまい。
こいちろーからの受け渡し要請を許諾し、手の平にすっぽりと収まる大きさの宝石が、アルから狙撃手の手へと譲渡される。
「帰ろう、こいちろーさん。サンドラの婆さんにも早くそれを見せてやりたい」
これで良い。これで良いのだ。こいちろーは〈アレキサンドの幻燈機〉が手に入り、アルフォースはクァーティーに頼まれたお使いが終了する。
マニュアル動作で狙いを定めるのにも随分慣れた。何もかも、喜ぶべき点しか無いはずなのだ。
少なくとも、こうも胸がざわつく理由がアルには想像も出来ぬ。一番嬉しいのはこいちろーのはずなのに、なぜ浮かない顔を浮かべているのか。
天井からぶら下がった、煌めく幻晶をつたうように水滴が一粒落ちて、ぴとんと音を立てた。
「うぁ、つめた――」
その下に偶然、アルフォースが居て。彼の兜と鎧の隙間に雫が飛び込んできたのも偶然で。
首を竦めて後ろを振り返らなければ、きっと間に合わなかったのも――0.02%以上の、不幸だったに違いない。
「――何をしてるッ!」
歯を食いしばり、鬼気迫った顔で〈アレキサンドライト〉を叩きつけようとしていたこいちろーが、アルの恫喝によって一瞬の躊躇を見せた。
……この世界において、物質とデータの境は紙一重である。
〈鋼の剣〉を示すアイテムでも物としての形が折れれば〈折れた剣〉になるし、逆にデータ上で消失した物が物質としても光に還元される現象も、あの"化身殺し"事件のあと改めて確認された(今にして思えば、空のポーション瓶が残らないのもそういうことだ)。
確かに、アイテムは「アバターが所有すること」によって格段に変質しにくくなる。だが、繊細な幻晶石が思い切り地面に叩きつけられれば、粉々に砕け何らかの変質が起こる可能性もあるだろう。
「……冗談だろう、こいちろーさん。アンタがそんな事する理由がどこにある?」
「ああ……うん。なんでだろうな」
瞳孔をすぼめ、〈半木精〉の細身の顔に引きつった笑みを浮かべ。
こいちろーが呟いた言葉は、奇しくも最初の頃に尋ねた「何故続けるのか?」の問いに対するのと同じ答えであった。
だがその手は未だ高く掲げられ――弓で言えば、引き絞られた弦と同じとしてある。
「なんでだろうなぁ。終わらせる為に始めたはずなのに、いざ終わるとなれば嫌で嫌で仕方ないんだよ」
「……その手を、降ろせ」
「今で安定しているんだ。やりがいもある。また、生き方を探しなおすのなんて嫌なんだ。
こんなものは、無かったことにしたい。いつも通り30個ちょいの鉱石を持って行って、また明日がんばろうで良いだろ?
頼むよ、アル君。知らんぷりをしてくれないか。僕は……僕はまだ、終わらせたくないんだ」
ゆっくりと腕が降りる。声は震え、過呼吸気味に荒く息を吐き。こいちろーは、怯える目を鎧姿の少年へと向ける。
若きアルフォースもまた、怯える彼を理解できぬという目で見ていた。日常は停滞であり、停滞は悪であり、打ち破るべきものであるはずなのに。
試験で。課題で。勉強で。常に前へ、進め進めと。他ならぬ大人が強いてくるのではなかったのか。
「だいたい、これは僕のだ。そういう約束だったはずだ。僕が捨てるのだって自由だろう!?」
「……ダメだ。婆さんに幻燈機を作ってもらわないと、オレたちの探しものが見つからない」
「なら奪うんだな?」
――ぬらりとした粘性を持って、声が響いた。
岩肌から露出した晶石が煌めき、二人の目がいっそう細まる。
こいちろーの右手に集う光の粒子が解けた後、そこには腕ほどの長さの双身銃が収まり。
鋼の銃口が、アルフォースに向けて口を開いていた。
「僕から……僕から奪うと、そう言うんだな?」
「そこまでするのか……ッ!」
アルが被る兜の奥で歯が噛みしめられ、ギチリと音を立てた。
黒い軟革に包まれた指が強く握り込まれる。アルフォースは、睨みつけるように視線で前を射抜き続け。
その額に狙いを定めるのは、〈BGガーデンキーパー〉だ。蒼くライン光の入った銃把が特徴的で、こいちろーの手や頬にもぼんやりと光を当てていた。
「悪く思うなよ。プレイヤーをターゲッティングできなくても、普通に狙いを付けて普通に撃てばその通りの結果になる、と……
そう教えてくれたのは君だぜ、アルフォース君」
武器を構えたことで余裕ができたか――逆に、思考の方向性を失ったか。
焦点のブレはそのままに、こいちろーの口元だけが吊り上がり……いや、銃が手の平に吸い付くように、身体の震えも次第に収まっていく。
システムの補正ではない。こいちろーの、その元となった日本人の本来の技術か。
「約束してくれ。余計なことは言わない。できれば今後、サンドラ婆さんにも会わない。
この距離で外すなんて思うなよ。脅しじゃないぞ」
「脅しだろ、それは」
酷く、腹の底から怒りが湧きだしてくる。
それは果たして、他人の身勝手で喜びを汚されたからか。軽々しく向けるなと教わった銃口が、今こちらに向いているからか。
あるいは、そのどちらでもないのか。アルの目はただ怒りによってのみ前を向き、そこに恐れなど微塵も無い。
一歩進む。少なくとも、あの"化身殺し"に向けられた殺意に比べれば、まるでハリボテのようであった。
「脅してんだよ……屈させてみろよ」
「ま、〈マイティガード〉はボス戦で使っただろ? 無茶をするな!」
「嫌だね! 気に入らないから、嫌だッ!」
一歩進む。バァンと銃声が轟き、周囲の幻晶に囚われた青白い魂の燐光が、僅かに外へと漏れた。
銃はASPDが酷く遅いかわり、通常攻撃でも他武器のスキル並の威力を持つ。その上、ガーデンキーパーは通常攻撃に限りダメージを更に2倍にする特殊効果つきだ。一対一に限り、コスパの良い武器でもあった。
〈アルフォース〉のHPバーから3分の1が失われる。容易く鎧を貫き、肩を貫通した銃痕から、止めどなく光の粒子が溢れる。
そして、それだけだ。
「手だの膝だのを撃った所で、アバターは止まんねえんだよッ!」
「ひっ……」
一歩進む。未だ鬼気迫るアルフォースの迫力に圧され、こいちろーが後ずさった。
痛くないのか、と目が語る。あぁ痛いとも、と身体が応える。けれどもう、痛い程度で止まる肉体では無かった。
目の前の存在に叩きつけてやるために、握る指に力が篭もる。
「オレはッ! 〈アルフォース〉だぞッ!」
叫ぶがままに、拳を振るった。
□■□
……振り切った体勢で一つ息を吐くごとに、人を殴った感触が腕に浸透していく。
苛立ちを吐ききり、舌の根に残った苦々しさだけが、まさしくアルフォースの今の状態を表していた。
「……おい、起きろよ」
銃撃により弾け飛んだ肩が、今更ながらにジクジクと痛む。
〈アルフォース〉のSTRはそう高く無いが、鼻頭を思いきり殴り抜いたのだ。いくらダメージが低いと言っても、それは痛みとは別問題である。
こいちろーは仰向けに倒れたまま顔を抑えてうずくまり、浅く胸を上下させたまま微動だにしない。
いい加減焦れてきたアルフォースが、そう声をかけた時であった。
「嫌だ……」
すすり泣くようなか細い声で、こいちろーから声が紡がれる。
「クエストを完了させるなんて嫌だ……役目が無くなるなんて嫌だ……
こ、このまま街に戻ったら、ま、また何もかも……!」
所々で息をつまらせながら、アレキサンドライトを掻き抱くように胸で抱え、男は首を横に振る。
〈半木精〉の細身の身体が、啜り上げるごとに小さく震えた。
苦さにささくれたアルフォースの胸中に、再び苛立ちが満ちる。
「何もかもなんてことは無いだろ。アンタには〈アレキサンドの幻燈機〉が完成して、それで好きなとこに行けばいい。
弓寄りの〈狙撃手〉なんだ。幻燈機がありゃどこの狩場にだって行ける。
こいちろーさんだって、その為に幻晶洞に通ってたんだろう!?」
気付けばその胸ぐらを掴みあげ、ツバがかかるのも厭わずに怒鳴りつけてしまっていた。
いや、飛び出るツバも無いのだったか。だが反射的に身体を竦めて手で顔を庇うこいちろーが、目頭に皺を寄せて歯を食いしばる。
「……違うんだ」
「なに?」
「行く宛なんて無い……狩場なんて知らない……
僕は、僕はただ、"やる事"が欲しかったんだ……!」
くしゃくしゃになったこいちろーの頬を、目からこぼれ落ちた僅かな光が伝う。
涙すら出ないが、泣いているのか。アルフォースはそれを愕然と見下ろし、小さく呟いた。
「……やる事、って」
「毎日決まった時間に出かけて、達成感を得ながら帰って来れる事だよ。
誰かの役に立って、目標に向かって進んでいる! ……ただ、その実感だけが有ればよかった……」
楽じゃなくて良いのだ。むしろ、多少大変な方がその気持ちは満たされるのだと彼は言う。
この世界で日々を生きる分の金銭を稼ぐのは、アバターたちにとってあまりに楽勝すぎた。
それこそ、バーデクトの街に引き篭もっていた者たちにすら、"戦闘"の範疇外で行えてしまうほどに。
自身が生きているのかいないのかすら、曖昧になってしまう程に……
「くそっ、泣くなよ。大の大人だろうが」
未だ自立した経験も自覚も無いアルにとって、こいちろーの言うことは理解し難い。
だが、それが自身の経験不足によるものだという事くらいは分かる。
故にアルフォースの胸中には、言い様もない苛立ちだけが募り続けていた。解決しようもない、子供であることへの憤りだけが。
「そんな事の為に、銃まで向けて」
「『そんな事』だって? ……そうか、アルフォース君はまだ学生だったか。
じゃあ分からないさ。学校にさえ行っておけば、学生としての義務を果たせるもんな」
「んなっ」
図星である。突かれて痛いからこそ、受け入れることは出来ない。
相手が間違っているのだ。そう思わなければ。そう、信じれなければ。
幻晶洞の地面を、アルの手甲が叩いた。顔面の皺が深まり、今にも涙が感染りそうですらあった。
「ゲームのクエストで何が義務だよ! だいたいそんな物、いつか終わるに決まってるだろ!?
そうなったらアンタどうするつもりだったんだ。露骨に手を抜き始めるのか!?」
「……そうじゃない。そうじゃないんだよ、アルフォース君。
問題にはちゃんと本気で向い合って、やっと満たされるんだ。だから、ボスを倒せるのは嬉しかったんだ……」
「わかんねえよ……ッ!」
問題を解決したいなら、大人しくアレキサンドライトを持って帰れば良いのだ。
クエストを終わらせたく無いなら、自分なんか誘わなければ良かったのだ。
その両方を理解して、気持ちを尊重してやることなど。……大人になれば、出来るのだろうか。
クァーティーには。リッツには。アビエイルには。父には。母には。
「――それでもやっぱり、人を傷つけてまですることじゃねえだろ……ッ」
あぁ、だが絶対に、それだけは間違っていると胸を張って言える。
こいちろーにどのような理由があろうと、アルフォースに銃口を向け、肩を撃ちぬいたのは絶対に悪だった。
涙を流すことで多少冷静になったか。「あぁ、そうだね」という小さい返事が、彼からも返る。
掲げるように手を伸ばし、その手の平の上に拳大の宝石が顕在した。
「これは……君が持って行ってくれ。僕はもう少し、頭を冷やしてから街に戻るよ……」
「……そうするさ」
〈アレキサンドライト〉を取り返し、アルは僅かに舌打ちしながらそれを眺める。
最初に見た時の威容も、宝に相応しい煌めきとオーラも、もはや全てが感じられなかった。
奇跡の産物でもなんでもない。そこに有るのは、ただのクエスト進行の為の石ころだ。
『オレはッ! 〈アルフォース〉だぞッ!』
インベントリに仕舞いこみ、立ち上がる。拳を叩きつけた腕が、あの時の叫びを思い出してぼんやりと熱を持った。
お互いに、ポーションで傷は既に直してある。それでも、そう叫んで力を振るった事実は変わりようが無い。
暴力を振るった。あろうことか、憧れの名を借りながら。
人を傷つけてまですることじゃない? その通りだ。あの時、こいちろーは決して善ではなかった。
だがそれならば、遠慮無く傷つけても良い悪だったのか? ……それも、今のアルにはそうとは思えない。
確かに二人は対立していたが、アルフォースの事情とて個人的なものでは無かったと誓えるか。
早く〈アレキサンドの幻燈機〉クエストを終わらせて貰いたいという理由で、結果的に自分はこいちろーの物であったアレキサンドライトを奪いとっただけなのではないか。
「何が、アルフォースだ」
こいちろーと別れ、帰路を進み暫く。彼を叩いたのと同じ拳が、ガン、とファロス幻晶洞の壁にぶつけられる。
結晶となって突き出た一部の幻晶が、鏡のように兜に包まれたこいちろーの頭部を映し出していた。
やがて、兜は光の粒子となってインベントリへと返る。握りしめた手が、岩肌を二度三度と叩く。
顕になった顔を幻晶に映して、アルフォースは血を吐くように叫んだ。
「これのどこが〈アルフォース〉だ! これの、どこが……ッ!」
麦の穂色の髪に、いくら眉目が整おうとも。
そこに映っているのは、どこまでいっても立川有栖の貌に過ぎなかった。
□■□
「……なんじゃ、お主一人か? 今にも死にそうな顔をしおって」
夜更けに帰り着いた魔女の館は、やはり暖かく迎えてくれるとはいかないようだった。
キィ、と開いた扉の向こうから、アレキサンドラの訝しげな視線が突き刺さる。
「まぁよい、入れ。今日の分の鉱石は持ってきておるようじゃしな」
「あぁ……」
己を隠す兜も鎧も、もう町中で着けることは許されない。
今の自分はそんなにも、幽鬼めいた表情をしているだろうか。すっかり馴染みとなった夜番の兵士にも驚かれたが。
「今日は、アンタにとって喜ばしい報告があるよ」
「その顔でか? ……ま、なら早う言うがええ。まどろっこしいのは好まん」
椅子に腰掛ければ言葉を返すのも億劫になり、アルフォースは小袋から紅くも碧色にも見える宝石を取り出した。
流石のアレキサンドラも、これには驚かずには居られなかったらしい。瞳孔を縮め、卓に手の平を叩きつける勢いで身を寄せる。
「おい、小僧……これは……まさか!」
「〈アレキサンドライト〉……本物だよ。それに、充分な大きさだろ」
「おぉ、おぉ……なんてことじゃ。流石のワシも、これを見るのは900年ぶり……
カカッ、なんと、なんと。記憶を頼りに必死に模造品をこしらえておったのが馬鹿らしくなるのう」
「そうかい」
その中に宿った魂力を確かめるようにためつすがめつ眺める竜の魔女から視線を外し、アルフォースは溜め息を吐く。
その感謝の言葉も、屈託なく喜ぶ顔も、本来はこいちろーが受け取るべきはずだったものなのに。
酷く、気怠かった。どうでも良いと思わなければ、罪悪感に潰されそうな程に。
「ところで、坊はどうした? これで婆の無茶を聞かずにすむとなれば、あやつも喜ぶじゃろうに」
「こいちろーさんは……ちょっと、欲張ったんだ。だからオレが代わりになってる。えっとな……」
「ふぅん……? あぁ、死に戻りという奴かえ。
そりゃあ、あの灰被りは尋常な相手では無いち、いつかそうなるんじゃないかと思っとったが……タイミングの悪い」
どうやらアルが説明するまでもなく、サンドラはこいちろーがボス狩りで無茶をして倒れたと解釈したようだ。
それで納得できるなら、アルフォースからは何も言うことは無い。あの場であったことなど、思い出したくもないために。
「頭を冷やす」。それがかつてネット上での言い回しだったものだと、アルは当然知っている。
恐れや後悔、あるいは怒りと憎しみをたっぷりと抱えて"死に戻る"はずのアバターが、なぜ精神に傷一つ残さず活動し続けられるのかも。
システムが、あの"死に戻り"にかかる明朝7時までの謎の空白が、そう「調整」しているのだ。
いや、真偽はまだ分からない。だがアバターの間ではまことしやかに囁かられている噂であった。
実際に、かの"化身殺し"に殺された者たちを見よ。首を一太刀で切り分けられたにも関わらず、むしろ戦いにおいては以前より積極的になった者たちの方が多いという。
強烈に刻み込まれたはずの痛みすら、まるで実感が湧かなくなるのは、まさに「喉元過ぎれば熱さを忘れる」が如しであり、不滅の存在となったアバターが、その生に嫌気がささないよう気を使われているようだとすら言える。
ついには、苦しみなく自分のHPだけを0にする〈自死コマンド〉が衆知され……プレイヤーが化身となってもう三ヶ月、彼ら自身の"死"は最初の頃にくらべて劇的に軽くなりつつあった。
少なくとも、"M&V"であった頃のキャラクターがそうであったように……。
「……まぁ、明日には戻ってくるさ。オレたちは既に、そういう存在なんだから」
「そうじゃのう。どちらにせよ、こいつが有った所で今すぐ完成と言う訳にはいかん。
一晩くらいは時間がかかるか……まったく、坊が居れば手伝わせるんだがの」
こいちろーが居ない事を今更実感し、少しは気が滅入ったのか。サンドラは微かに表情を歪め、思案したようだった。
一ヶ月の間、お互いに少しずつ、存在が生活に浸透して居たのだろう。それもまた、彼が失うのを拒んだもの。
「おい小僧、パン粥は作れるかえ」
「……蜂蜜とブルーチーズのなら。こいちろーさんが作ってるの、見てたし」
「おう、それで良い。ありゃ元々、ワシが坊に好物として教えたもんじゃしの。
ワシはこれから組み立てに入るち、てきとーな時間になったら作って持って来い。
茶は淹れられるか? それと風呂じゃな」
「あのさ、オレはオレで宿あるんだけど。泊まってけって?」
「古代都市の手がかり、欲しいんじゃろ?」
小さく、舌打ちを一つ。目の前の我儘な竜精は、ゆっくりと暗い気分にも浸らせてくれないらしい。
火呪文でも使えれば別なのだが、あいにく〈重騎士〉にはそんな小器用なスキルは無いのだ。
細々とした雑用までは"システム"に頼れず、アバターでもこの世界のやり方だけでやるしか無い。せめて〈ペコミン茶葉〉と〈黒砂糖〉があれば、茶を調理するのだけは楽だろうに。
「分かったよ、やれば良いんだろ」
「その通り、働け若造」
端末からクァーティーに一報を送り、嫌々ながらにアルフォースは立ち上がる。
動いていれば、少しは気が紛れるのも間違いではない。そもそも気を紛らわせてしまって良いのかという思いはあるが。
わだかまりを抱えながらも、アルは懸命に働いた。やがてあれこれと指図されることも少なくなり、椅子に腰掛けて待機する時間の方がよほど長くなっていった――
……
…………
………………
「……くぁ……」
気付かぬ内に、寝入ってしまっていたのだろうか。深く椅子に座り込んだ姿勢から身体を起こし、アルは周囲を見渡した。
無茶な姿勢での睡眠も全く凝り固まらぬこの体とも、大分長い付き合いである。狗竜車の中で生活する内に、腰掛けた姿勢で寝るのにも慣れた。
「いけね……茶を持ってかないと……」
辺りは暗い。周囲に時計は無いが、体感的に夜明けの1~2刻前といった所だろうか。
慌てて湯を沸かそうとして、アルはアレキサンドラの部屋から漏れる明かりが絶えているのに気付いた。
流石の魔女も、本日の作業を終えて眠りについたらしい。古種も化身も、不滅の存在ではあっても不眠ではないというのは、なんともさもしい話だ。
街も、館も、全ては夜の暗闇に閉ざされ、星の瞬きだけが僅かな光を灯す。その中でも、〈夜目〉を持つアルフォースは不自由なく見通すことができるが。
「……なんか光ってる?」
あくびを噛み殺し、ぼんやりと幽闇の味を噛み締めて、やがてアルは気付いた。
ドアの向こう。戸についた小窓の向こう側から、仄明るい幻晶の光が漏れている。
それが、かの〈アレキサンドの幻燈機〉だろうか。改めて椅子の上で寝る気もしなくなったアルは、そっと戸を開けて中の様子を伺った。
所狭しと資料が散らばった卓の上に、ポツンと置かれた装置。幻燈機と名が付いているものの、中に光源が一つ入っただけのそれは一見して龕灯のようにも見える。
そうでは無いと分かるのは、カメラのようなレンズの存在とあからさまなラジオボタンによるものだろうか。基本、ファンタジーものの"M&V"としては、やや珍しいスチームパンク的な意匠でもある。
「幻燈機、もう完成してるのか……」
その金属的なボディに手を置いて、アルフォースはしばし逡巡した。
例えばここで衝動にかられ、今すぐこれを破壊したとしても、自身に関わる誰も喜びはしないだろう。だが、そういった穏やかでない欲求が己の中に生まれなかったというと嘘になる。
自分が、立川有栖が余計なことをしなかったなら。その仮定が現実になるわけじゃないにしろ、こいちろーとアレキサンドラの付き合いはもっと長く続くのではないか。
「今更、だよな」
馬鹿らしい想像を退けて、アルフォースは静かに首を振った。
それを実行に移すくらいなら、あの時許してやれば良かったのだとは、言われずとも分かっている。
大人は完璧では無いのだとクァーティーは言った。遠からず、アルフォースを失望させることも有るだろうとも。
こいちろーの甘えを許してやれば良かったのだろうか。だがそれでも、嘘をつき続けられる自信は無い。
「オレ、どうすれば良かったのかなぁ……」
立川有栖は、ウェザールーンにおいては〈重騎士〉にして弩持ちのアルフォースである。ずっと、そうありたいと思って行動し続けている。
……けれど、最近。その〈アルフォース〉というアバターの仮面が、剥げかけて居るように感じていた。
「なりきれない」事が多いのでは無い。そもそもアルフォースというキャラクターが、どのように判断を下して行動するのか、自分でも分からない事が多いのだ。
モンスター相手に立ち向かう事は簡単だ。とにかく思うがままに勇敢で、格好良くあればそれで良い。
人間相手が駄目という訳じゃない。ただの悪人が相手であれば、贖罪を抱えながらも殺しを受け入れるのだって騎士的だ。
だが、この世はあまりに「単なる人間同士の諍い」に溢れていた。
良いとも悪いとも言い切れぬ人間たちが、お互いの主義主張を持ったままいがみ合う。
それが現実と言われればそうなのだろうが、そこに上手く割って入るには、アルではあまりに経験値が足りなかった。
故に、アルフォースという仮面のひびから立川有栖が顔を出し……その度に、自己嫌悪に襲われる。
怒りっぽく、嫉妬深く。〈アルフォース〉という理想になりきれぬ自分が、もどかしくて仕方ない。
けれど、己が若いということすら分からぬ阿呆でもない。大人になればいずれはと、無意識に信じて居たけれど。
「……そうでも無いんだってさ、母さん」
『大人になれば分かるわよ』という言葉を無邪気に信じさせてくれていた母に向かって、アルは自嘲混じりの言葉を吐いた。
金髪の下の相貌に、淡く涙が滲む。けして漏らすまいと、両手指に力をいれて堪らえようとしたその時。
ブゥゥンと鈍い音を立てて、目の前の装置から光がこぼれた。
「っ、幻燈機……?」
死者の魂すら引き寄せるというその輝きは、赤紫にも蒼にも見える。
言語の範疇外から人の魂魄に直接揺さぶりをかけてくるような、奇妙な灯火。じっと眺める先に、セピアトーンの光景が映る。
そんなまさか、と首を振った時には、既に囚われてしまっていた。
――『この春、魔法使いになります。ディグミー・ニューリゾート 5thアニバーサリー』
生まれて初めて被ったARグラス越しに、色差やかなPR文が浮かぶ。
今ならなんの変哲もないただの広告エフェクトですら、当時の自分にとっては魔法にも等しい。
あぁそうだ、ここいるのはもう10年も前の立川有栖。小学校に通い始める直前に家族で行った、最初で最後の遊園地の記憶だ。
(馬鹿だったなぁ、こんなもんに気を取られて、親からはぐれてやがる)
丁度、日差しも赤く染まりはじめ、拡張現実の一つ一つに大興奮する元気も失ってきた頃だったろうか。
両親も疲れがあり、また、昼ごろの騒がしさが無くなったことで油断していた部分も有ったのだろう。
混雑する帰宅ゲート前から静かに抜け出した幼い有栖は、人の壁と綺羅びやかな装飾に阻まれ、帰るべき道を失った。
(あぁ、オレってこんなに泣き喚いてたっけ。もう随分、覚えてないんだろうか)
自分の記憶では『心細く彷徨った』程度だったが、過去は美化されるものだなと苦笑する。
鼻水や涎を撒き散らしながら歩き回る"有栖"を、アルフォースは薄いガラス越しに眺めていた。
無声映画めいて音は無い。周囲に居ると思わしき通行人は黒靄がかかり、童話か何かのモブめいている。
それでも、有栖に向かって迷惑そうな視線が突き刺さっているのは分かった。ここは夢と魔法の園であるべきであり、泣き出す子供なんていう現実感は異物でしか無いのだ。
(いや、覚えてるよ、覚えてる。そう、確かこの後は――)
肌を刺すような居心地の悪さが子供にも伝わり、余計に有栖の涙を流させる。
そんな周囲の目から庇うように、影が一つ、覆いかぶさる。
(――騎士が)
白銀色の甲冑に身を包んだ騎士が、そっと自分を見下ろしていた。
昼に公演を見に行った、ドラゴン退治劇に登場する銀の国の騎士。そう、その活躍は今でも記憶に残っている。
泣くのも忘れ、呆気に取られた有栖に向かい、彼は恭しく膝をついて有栖に手を差し伸べてくれた。劇中で、攫われた姫にそうしたように。
(……あぁ、そうだ。これでオレは、凄く安心したんだ)
今にして思えば、身を包む白銀の鎧はARによるCGで、中にいるのは単なるスタッフの一人に過ぎないのだろう。
でも、幼い有栖にとって、彼の姿は紛れも無く寡黙ながらも優しく勇敢な騎士として映っていた。
手を引かれついていった先に、狼狽した顔の両親がいた。きつい言葉で有栖を叱りつつも、涙ながらに破顔していた。
(父さん、母さん)
……今もそんな顔をしているのだろうかと、ふと思う。
幻燈機に映し出された思い出から10年が経ち、親も自分も関係は変化している。
だが剣と魔法の世界の中で有栖は迷い、そして今、銀の騎士は居ない。
(……そうだ、だからオレが、騎士にならなきゃ行けない番なんだ。こんな下らない茶番に付き合ってる暇あるものか)
泣き喚く子供にならないように。強い大人で、いられるように。
吐き捨てるが如く、アルは息を短く吐きだした。幻燈機が何に反応したかは知らないが、こうしては居られないと下唇を噛む。
やれるはずなのだ。自分にも。この〈アルフォース〉のスキルとステータスが有れば。立川有栖で無いならば。
「なんじゃ、泣かんのか?」
拳を握りしめ決意を固めた所で、夢を覚ますように後ろから声が掛けられた。
不意に、幻燈から意識が引き戻される。黒のローブを着流した魔女が、ベッド上で頬杖つきながらニヤニヤと笑いを浮かべていた。
「……泣かねえよ。オレは、アルフォースだぞ」
「はぁん、そうかい。つまらん男じゃのう」
「笑われたいとも思ってねえよ」
不機嫌だと言わんばかりの声で、アルはサンドラに応える。
ただでさえ今日は心がささくれだっているのだ。あまり余計な刺激を与えるな、と。
言葉にせずとも全身で主張するアルフォースを鼻で笑い、アレキサンドラは言葉を繋ぐ。
「違うな。つまらんのは貴様の狭量さよ。斜に構え、見渡すもの全てに下らぬ下らぬと毒づくその精神がつまらん。
いや、そうしなければ夢も満足に見れぬ愚かしさ、じゃな」
そう言われた途端、カッと喉奥が熱くなり……思い切り怒鳴りつけてやろうと振り向いたところで、アルは息を呑んだ。
竜の眼が――瞳孔が縦に割れ、白目まで濁り染まり、闇世の中で威圧的に輝く紅い眼が、アルフォースを睨み付けている。
心を撫でるように触れられている。きっとこのまま、〈死の眼光〉で握りつぶすことも出来るのだと、データではない、本能がそう訴えていた。
レベルでだけ言えば、決して叶わぬ相手では無いはずなのだ。イベント時の能力はNPCとしてかなり高い方とはいえLv80程度。アルフォースでも既に上回っている。
……それでも、アルフォースは既に、竜精の魔女にその魂ごと跪いてしまっていた。心を読む忌まれし力に。いや、あるいはそれ以前に、自らが纏った鎧の重さにか。
「随分とまぁ、高尚な存在になりたいらしいが」
アルフォースが悔し気に顔を歪ませるのを見て、再びサンドラの顔に微笑が戻る。気圧されるような空気は、あっという間に霧散してしまった。
「のう、アルフォース。貴様の言う騎士は、若造が一人泣くことすら許さぬ冷血漢かね」
「それは……きっと、違う」
「だったら何故許してやらぬ。今にも泣き出しそうな小僧が一人、そこに居るというのに」
ああ、騎士の仮面がひび割れる。許せと。〈アルフォース〉は、立川有栖を許してやらねばならないのだろうか。
そう確か、昨日の夜もクァーティーが何やら言っていた。どうか許して、情けない大人であることを許してくれと。
自分はそれを、言い訳じみたものとしか捉えていなかったが。
「己自身、何かが違うとは感づいていたのだろう?」
騎士として。自分が、大人だと思うのなら。泣き喚く子供を許してやれと、そう言っていたのだろうか。
「……オレは」
幻燈機の隣に光の雫が一つこぼれて、すぐに机の天板に滲んだ。
「……オレは……ッ!」
ミニチュアのホログラフィックで映しだされる父と母。崩れ落ちそうになる身体を、アルは机に手をついて支える。
せき止めていたものが、あっという間に鼻の奥まで上り詰めた。ずっと、こらえていたはずの思いが、言葉にすらならずに。
「父さん」
もし帰れたら、仕事の話を聞かせてくれ。あなたが大人になるまでに、思ったことや考えたことを。
そして、冒険の話を聞いて欲しい。異世界なんて、お伽話のような話だけれど。
「母、さんっ……」
もっと子供と向き合う時間を増やして欲しいと、我儘を言っても許されるだろうか。
それとも今、現実の自分へ必死になって呼びかけてくれているのか。無理のし過ぎで、身体を壊したりしてないか。
幻燈機の向こう側の親子は、セピア色の世界の中で泣き笑いながら抱き合っている。
立川有栖は、未だここにいる。
「オレ、頑張ってるよな」
一度せきを切ってしまえば、もう止められるものは何もなかった。
他人を攻撃してまで抑えていたはずの嗚咽が、汲めども汲めども湧きだして〈アルフォース〉を押しやっていく。
「帰ったらどうか、褒めてくれるよな」
たった15歳の少年の顔はくしゃくしゃに歪み、顔の皺をなぞるように流れる粒が、離れると同時に光となって溶けていく。
啜る度にツンと後頭部の裏側を叩き、これもきっと、"システム"のまやかしに過ぎない。
「きっと、帰るからさ……お土産いっぱい持って、帰るからさ……」
もう、あっという間に頭が真っ白くなって、情けないと考える余裕も生まれなかった。
頭蓋骨の天辺から痺れるように、泣くことは気持ちが良かった。
「う、ぁぁ……わあああ――……」
アレキサンドの幻燈が、溢れる涙の色を染め。
闇の深い夜に、少年の慟哭が長い間響く――……
□■□
……そして、朝を迎えた。
読みかけの本や昨日のカップが放置された食卓に、羊肉の腸詰めごと茹でた卵の乗った皿を置く。
とうもろこし粉で焼いた薄いパンを引っ張りだして、簡易な朝食の出来上がりである。
「そう言えば例の……古代都市に関するアレをどうしたか、思い出したんじゃがな」
「なんだよ、言い辛そうに」
果実酢とマスタードを混ぜた調味料をドバドバと皿に出す途中、アレキサンドラが唐突に口を開いた。
アルフォースは茹で卵だけ乗った皿を目の前に置き、相も変わらず不機嫌そうに返事を返す。この世界の塩辛い腸詰めは不味い訳ではないが、朝から口にするには少し辛い。
「いやぁ、何かよく分からん割に金色で綺麗だったからのう。
指輪か何かに加工して血族の娘にくれてやったんだったわ。すっかり忘れとった」
「んなっ……!」
はっはっは、と悪びれもせずに笑う魔女を睨みつけ、しかもそのまま匙で卵を潰して皿の上でかき混ぜ始めたので、アルの眉はさらに顰められた。
サンドラは腸詰めと卵マスタードをたっぷり乗せた薄焼きパンへ、小僧の視線など何するものぞとご機嫌に齧りつく。
たっぷりと咀嚼をして飲み込んだ後、ようやくアルフォースは質問の機会を得た。
「どうすんだよ。まさか一々遺族あたって回れってのか? 冗談じゃない」
「はん、そこまで知ったことじゃ無いわい――と言おうと思ったがな、安心せい、恐らくまだ生きておるよ。
ウン百年ぶりに先祖返りを起こした不運の子ち。顔も合わせてやれんかったが、まぁ、不憫でな」
そう言って憂い気に遠くを見つめるアレキサンドラを、アルはやや意外そうに眺める。
「アンタでも気を使うんだな、そういうの」
「ほんにのう。人の雌から生まれ、竜石も持たない以上竜ではない。しかし、人の世に溶けこむには力が過ぎる。
案の定、"忌み子"として腫れ物のように扱われておった。孤児を寄せ集めた狭い石倉の中での」
「忌み子……?」
「竜の息吹とは、魔法より古き原初の力。マナにもオドにも属さぬ純然たる力としての作用……
と、言っても理解は及ばんじゃろうが。まぁ、幼子には過分な能力ということよ。見つけた頃には既に親から見放されていた」
〈竜の息吹〉。あるいは〈竜の祝福〉とされることも有るが、どちらにせよ竜にまつわる者にしか許されぬ特殊スキルだ。
いくらか理論だてられた『魔法』よりも古に依るらしいそれは、"M&V"的には無属性の純エネルギー属性として扱われるものが多い。サイキック、サイコメトリ、サイコキネシス……そういう、超能力じみた力だ。
子供の癇癪によって振るわれるべき力じゃないと言うのは間違いないだろう。その結果が親による育児の放棄、というのを因果応報とするのはあまりに残酷ではあるが。
「可哀想でのう。せめても、強く生きて欲しいと願ってのう。
クリプツカの学舎に引き取られると聞いて、こっそりと我が血縁たる証を持たせた。思えば、その装飾に使ったのじゃったわ」
「それを今まで忘れてるのも、貰い物の加工品ってのもどうなんだよ」
「丁度良いと思ったんじゃよう。確か、ギィン=ガラテアが落ちたのもあの辺じゃったからの」
「ギィン=ガラテア?」
知らない名である。アルは首を捻った。
「知らんのか? 法王サリルの時代に浮かぶ〈空の陸〉の、ギィン=サリルに次ぐもう一つの都市。
今は砂の深くに埋もれたと、そう聞いておったが」
「……そうか、〈ガーテナ遺構〉か」
そちらならば、よく知っている。文華宮クリプツカのメインとなるようなダンジョンで、奥が深く、受け入れるレベル帯も広い上にイベントも多い。
ピラミッドめいた灰色四角錐の中に宇宙船内部のような空間が広がっているという摩訶不思議なデザインであるが、やはり旧時代の文明に関わってくるらしい。
Episode4.0の後、恐らく4.2や4.5などのアップデートで更に内容が追加されるという噂だったので、本来その辺りで判明する事実だったのかもしれない。
そして、アルとてこのゲームに触れて長く、ファンブックまで買うほどのプレイヤーだ。
クリプツカの〈学園〉、忌まれし子、竜の血とまでキーワードが揃えば、もう一つのキーパーソンも自然と浮かび上がってくる。
「……じゃあ、そのアンタの遠い子孫ってのは、〈クラリカ=アリエスティ〉か?」
「そう。確か人としての名はそんなじゃったの」
「なんてこった……公式じゃ、血筋までは名言されてなかったぞ」
ファンによる推測は長いこと行われてきたが、まさかこんな所で確定するとは。
〈クラリカ=アリエスティ〉。当時はまだ新人だった人気ビアター「花咲おとは」が声を当てている上、古き良き正統派ツンデレの性格もあって"M&V"でも特に人気の高いNPCである。
竜の血を引く彼女と堕ちた竜精であるアレキサンドラの関係は、なんとも信憑性の高い推理に見えつつも運営からの確定情報は無いという……まぁ、非常にもどかしいものであったのだが。
「……まぁいいさ。クラリカにガーテナ遺構、おまけにペトロニウスとヴァージニアの出生地……
全部纏めて〈文華宮〉だ。次の目的地としては、いっそ分かりやすい」
「おうおう、頑張るがよい。何する気かは知らんがの」
どうでも良さそうにひらひらと手を振り、サンドラは腸詰めを咀嚼する作業へと戻る。
かと思えば、今思い出したと言わんばかりに目を見開き、「そうそう」と言葉をつなげた。
「その金の小板を渡した奴は、『時が来れば、神の座への鍵を送る』とかスカしたこと言っておった。
ま、時とやらが来る前にあっさりおっ死んだ訳だがのう」
「神の座ねぇ……」
それもまた、なんとも胡乱な響きだ。
プレイヤーとしての知識でも、それらしき単語に心当たりはないが。
「……ま、キュー子にはこれだけ情報があれば充分だろ。じゃあな婆さん、もっと野菜食えよ」
「嫌じゃ」
残ったパンを冷めた紅茶で流し込み、アルフォースは席を立つ。
そしてそのまま未だ食事を続けるアレキサンドラにも構わずに、卵とチーズと燻製肉しか無い魔女の館を後にした。
……目の前の小道から、一人の男が歩いてくる。弓を持ち、お供の鷹にカンテラを持たせた、朴訥そうな〈狙撃手〉である。
「……行ってらっしゃい」
「ああ」
それ以上、言葉は交わさずに。
だがしっかりと地面を踏みしめて、二人はそれぞれに歩き去っていった。
しばらく街の路地を行くうちに、やがてアルフォースたちの本来の宿が屋根を覗かせた。
備え付けの簡素な厩の周りで、拳装備の賢者が、見習い従士が、そして小人族の商人がそれぞれに慌ただしく狗竜車に荷を積み込んでいるのが見える。
向こうからもこちらが確認できたのか、特に背の高い女賢者が、大きく手を振りながら言葉を投げて。
アルが普段、あえて言わないようにしていた事が、今は自然と胸の奥から取り出せた。
「ただいま!」
彼が言うアルフォースとは何ぞや、にフォーカスを当てた短編(中編?)もこれにて終了。糸を緩める事を覚えて、ほんの少し大人になりました。
途中一週間ほど風邪やら出張やらで空いたりもしましたが、リアルタイム更新だと基本的にはこの位のペースですね。




