後始末の話/司教のグルメ
アバターは出ません。
〈大聖堂〉。アバターたち皆がそうとしか呼ばないその場所の、正式名称を聖バル=シエル大聖堂という。
その礼拝堂の先、一般信徒では立ち入ることの許されない区域に、12人程の円卓を囲んでの会議室があった。
磨きぬかれた大理石の床に、それに見劣りせぬ立派なロズベルウッドのテーブルが鎮座する。そこに席を連ねるのは誰もが司教以上、中には枢機卿の名を許された者も数多い。
しかし、彼らが座る椅子だけは、固く質素でどこか急ごしらえ感が否めないものだった。
これは、この地に住まう彼らの「"大いなるもの"への発言は立って行うべし」という宗教観が現れたものだ。
とはいえ固くともしっかりと腰掛けられる椅子を見る限り、老齢の者が多くなってくるにつれ教義との妥協が図られたようではあるが。
「では、やはり"化身"さまがたとの話し合いは、一度白紙に戻すべきだと?」
「ええ、今やアバターさまの多くは、自国のケンポウを再び批准することを選んだようです。
神の代理としてではなく、自身が慣れ親しんだ国の民として在る、ということですね」
そんな、この世界における宗教面でのトップクラスな者達の中で、唯一の若い男が、自身の椅子に腰掛けず立ち続けたまま発言していた。
ミルドニアン=モーレット司教。三十にも満たぬ若年で大聖堂勤めの司教にまで上り詰めた、新進気鋭の若手である。
「彼ら……あえて彼らと言わせてもらうが、彼らが落ち着くまでにはもうしばらく時間が必要そうかね?」
「こちらとしても、すんなりと彼らが彼らの法を用いることを認めてしまえば、治外法権を許すことにもつながります。
お互いが納得する落とし所を探るのに、まぁ、半年はかかるでしょう」
法と言うのは、一朝一夕でできる物では無いのだ。とはいえ、実際に動かしてみたら現状に合致しませんでした、では話にならぬ。
いきなり法などと堅苦しく言わず、まずは約束ごと程度のつもりで少しずつ探っていく必要が有るだろう。お互いに、だ。
「とはいえ、彼らの行動の早さを考えると、その頃にはもう事態の解決が見えているかも知れませんがね」
「そうであればどれ程良いか。聖姫様の御身も心配だが、教皇殿を欠いたままでは、緑王国の奴らに何と言われるやら」
「騎士団長についても頭が痛いですな。信徒としては問題行動も多いですが、替えの効かない人材ではある」
上座に座る、一段と立派な服に身を包んだ者たちが、一見穏やかな様子で憂いを述べ合う。
ミルドニアンは自らの見解をのべた後、恭しく頭を下げて彼らの喧騒を聴き続けていた。
ゴホンと一際重い咳払いが、部屋の空気を押し流し場を再び沈黙させる。声の主は、色の抜けきった白髪に白鬚、しかし体つきは厳しく健勝であることを示す老人であった。
「モーレット司教」
「はい」
「化身組合の長について、君の目からどう見えた」
ミルドニアンの正面に座るその老人こそ、現状〈信興国〉の最後の柱となっている〈シド=バーデクト〉その人であった。
聖姫の義父であり、バーデクトの首都を含む教区を統括する存在であり、当然、この場で最も偉いと暗黙の了解で認められている。
彼に問いかけられ、ようやくミルドニアン司教は顔を上げた。彼はまだ若いので、椅子は使わず膝をついて下がるのが「敬虔だ」とされる。よく見れば、そのような者は他にも何人か居た。
「そうですね。頭は良く、飲み込みも早い。
彼ら曰く、実際は相当にお年をめしていらっしゃるらしいのですが、まるで若者のように新しいことを学びたがる」
「聞くだけだと、学者の鑑のような人物だな」
「実際、天の……失敬、ニホン国においては最高学府での教鞭をとっていらっしゃったようです。
つまり、その。『貴族的』ではありませんね」
「貴族的」。その言葉には様々なニュアンスが有るだろうが、この場で触れられているのは貴族の政治家としての面、及び管理者としての面だ。
頭は申し分ない。人として、好感のもてるタイプではある。ただし貴族としてはあまりに「配慮」に欠けている人物だと、ミルドニアンは、幾度かの顔合わせを通してペトロニウスなる人物をそう評していた。
「おそらくは金品よりも、理論と実証を尊いとする人物の筈です。
特に彼の『実証』に関しては、やや警戒が居るかもしれません」
「危険な人物だと?」
「いえ……ですがどうも、『理論的に出来る!』と確信した事柄に対して、思慮が足りなくなるタイプの人柄かと。
まず失敗して、しかる後に反省点を洗い出せば良い、と考えている節もあります」
「なるほど、学者的だ」
自身にも思う所はあるのだろう。深く皺の掘られた顔に苦笑を浮かべながら、シド枢機卿は頷いた。
つまるところ。その道のプロから見れば、ペトロニウスもまたアマチュアに毛が生えたようなものだと言うことだ。
彼は骨の髄まで学者であり、それが何らかの責任を負って(あるいは、彼が一番最初に思いついたという理由で)為政者の真似事をする立場にいるに過ぎない。
「とはいえ、アバターを治める立場の人柄としてはかえって良いのかも知れません。
どうにも彼らは……特に、『中身』が若い人間ほど、彼らはそういった政治的なやりとりをタブー視している印象があります。
ペトロニウス殿の裏表の無い態度は、ある意味で清廉にも映ります」
「ほう」
「我々としても、その点は非常に留意しておく必要が有るでしょう。
取引のための利益をちらつかせるにしろ、地位や権力は逆に顔を顰められることが多いかと」
「うむ、有意義な意見だ」
また恭しくお辞儀をし、ミルドニアン司教は一歩下がり、膝をついた。
パラパラと彼の意見に賛同する拍手が響いた後、議題はまた別の方向へと移り変わってゆく――
ミルドニアン=モーレットは才気あふれる若手であり、次期シド派の有望株でもある。
後20年もすれば自然と枢機卿にも推され始めるだろうし、30年後には実際にその座に付いているかもしれない。
しかし最近はどうも、アバターの方々に係る話ばっかりで司教らしい業務をしてないなぁ、と彼は首を傾げた。
「実際どう思いますかね、騎士グレイマン」
「『アバターに為政者無し』の件についてですか」
「いえ……まぁ、そのことでも有るのですが」
たしかに、何故彼の仕事が増えているのかと言われると、まさにそれが理由では有るのだが。
「"神の化身"との対話」と言葉にすれば非常に高尚なことのようにも思えるが、彼らは自らその座を降りてしまった。
それでも彼らから学び取れるものは多い以上、立身出世において焦りを感じているわけでは無い……とはいえ、あまりに突飛すぎて頭が痛くなるような問題は勘弁願いたい所であるが。
「若者の常でも有りますが、彼らは平均して反体制的というか、どうにも体制側を敵視している印象がありますな」
「そう言えるほど私たちも歳を重ねている訳じゃないでしょうに。でもまぁ、確かにその通りですね」
その理由についても、ミルドニアンはなんとなくであるが掴んでいる。
要は彼らにとって、「物語の中に入り込む行為」は大切な娯楽の一つであり、近頃コッカイ(おそらくは、彼らにとっての教皇会議だ)はその行為そのものに異端の烙印を押す算段を立てていたらしい。
この辺り、やはり規制についての概念が日本と信興国の間で食い違っている。国会が危ぶんでいるのは、あくまで建前上はC-VRの健康被害に関してであり、異端認定ほどの問答無用感はそこにはないのだが。
「五千人という規模に惑わされがちですが、彼らはあくまでニホンのほんの一欠片。
私たちの感覚で言えば、大聖堂セブンディール同好会38名と似たようなものなのです。
思想趣向が一定以上共通しているのも、それ故にでしょう」
「そのようなサークルが有るのですか」
「炊班兵の班長さんとかお強いですよ、君のお知り合いの」
とまぁ、そんな事はさておくとして。
「ニホンの全てを見た気になるには、彼らの数はあまりにも少なすぎるということですよ。
おそらくは、あの"暗がり溝"を超えた先の世界に、海千山千の狸たちが数多く居るのでしょう。
実際、私もクァーティー嬢相手には大分やり込められた。政治も戦と同じです。基本的には、富の多い方が勝つ」
「……ニホン国には、何人の人が住んでいるのでしたか」
「万に万を掛けて少し、と聞いています。この首都に住んでいるのが2万ほどだとするなら、それが五千も立ち並んでいる事になる。
あまつさえそれでも一国の中に過ぎず、彼らの知る世界全てとなると更にそこに50を掛けてまだ足りぬのだとか」
それは、この世界に住む人類種にとっては想像もつかないようなスケールの数。
それでもどうにか考えてみようとして、あまりの果てしなさにグレイマンの身体がくらりと傾いた。
「そのような世界に、聖姫様はお招かれなされたと」
「彼らの弁を信じるなら、そうなるでしょうね」
先程お自分なりに会議の内容を書き留めていた羊皮紙に捺印し、ミルドニアンはようやく一息ついた。
地道ではあるが、これも大事な作業である。もし教皇がお戻りになられた際、それまで何をしていたのかを説明できぬようでは非常に困るからだ。
「……あぁ、しかし。キリの良い所までとやっていたら、なんだか小腹が空きましたね」
「侍女たちに茶を用意させましょうか」
「この時間は概ね休憩の時間帯でしょう? あまり無茶を頼むのも彼らに悪い。
『もし今が安息の時であるなら、月を見て休むるべし』と聖ヤビスも申しておりますから」
一瞬、グレイマンは「彼女たちは、嬉々として茶を口実に貴方の顔を見たがるでしょうに」と言いかけ、己の言葉を飲み込んだ。
天性の色男であるからして、ミルドニアン自身もその辺りは重々把握しているだろう。だからこそ彼は、自らが侍女たちに競い合って仕事をさせることを望まないのだ。
彼もまた、小さいながらも教区を預かる立場にまで上り詰めた神官である。聖典だけで世界は回らぬと熟知していても、その信仰心は間違い無いのであった。
「外に行きましょうか。たまには、港の方で何か買ってみるのも面白いかもしれません」
□■□
バーデクトの都は、教会や上流階級の家が立ち並ぶ上品な区域を一歩外れれば、案外あちらこちらに露店が並び、見るものを楽しませる賑やかな町である。
と言うのも、まず国として観光業に力を入れている、という点が一つある。
巡礼だ何だと気取っては居るが、砕けて言ってしまえば観光なのだ。これは、この世界の旅行文化を紐解いてみても頷けると思う。
他に大きな産業もない国であるから、けしからんと思いつつも国を上げて支援せざるをえない。特に皇霊祭の頃になれば人口が2倍になるほどに巡礼客が訪れ、〈白犬騎士団〉も大わらわとなる。
一挙に溢れたアバターたち五千人を一時的とはいえ完全に受け入れられたのも、宿泊施設だけは多めに作られているお国柄からだ。
これが例えば、鋼鉄国あたりからのスタートであれば、ツテもなく野宿同然で転がるしか無い者も出始め、アバター間の格差は無視できない程に広がっていたことだろう。その幸運にクァーティーたちが気付き始めるのは、だいぶ後になってからである。
そして次なる点として、内海に向けて港を開き、足の早い海産物が毎日大量に入ってくる点も強く挙げられる。
腐るのが早すぎて、国同士での取引には使えない。取引に使えない以上、この場で食わねばならぬ。
とはいえ、その多くは要するに売り物にもならぬ雑魚どもだ。一々手間暇かけてやるのも馬鹿らしく、また途方も無いとなれば、これらを大雑把に調理した料理が大衆文化として根付くのは無いわけではなかった。
ところがそれを、他では食べれぬ珍味として売り出す所が最近増えてきた。観光客も、なるほど確かに見たことがないとあっては、思い出料に大胆な金額を払ってこれらの怪しげな食べ物を口にするのである。
「しかし近頃は、また一風変わった料理が増えてきましたねえ」
「はぁ……その、なんでもアバター様がたがあちこち入れ知恵をしているとか」
「あぁ、彼らは実に食にうるさいですからね」
最初はありもので工夫した似非みそ汁であったが、どうやらそれがアバター全体に与えた影響は大きかったらしい。
次の週には硬くなったパンの粉を纏わせ、オイルで揚げた魚が露店に出回り始め、その次の日には随分と巨大な芋のニョッキが、甘く煮られたレッド・ビーンズを種にして鎮座していた。
これまでの発想を数段跳びで駆け上がったような品々は、だいたいがアバターが直々に、あるいは馴染みの店に口を出しながら作り上げたものなのだろう。
普段ミルドニアンを敬愛する女中たちも、彼女らの間ではやれこれが美味しかっただのあれが美味しかっただの口さがなく噂しているらしい。
中には思わず小首をかしげてしまうよな珍奇な味(けして不味いわけでは無いのだが)も有るらしいが、それはそれで話の種になるのだとは彼女たちの弁であった。
「アバター様がたとの関係を預かる身としては、一度も食べてみぬわけにも行かないでしょう」
「……その割には機嫌が良さそうですな、司教。案外、この手のがお好きでしたか」
「グレイマンは揚げたサソリを食べたことがありますか?
いや、いや、クリプツカの食べ物なんですけどね、あれが思ったより悪くなく。面白いものですよ」
「はぁ」
司教付きになってからと言うもの、数年の付き合いとなる年若い神官の意外な趣味を発見し、グレイマンはどうにも気の抜けた返事を返した。
直接の上司と言うわけでは無いが、一応は上役と言って問題ない相手である。彼が口にするものを自分が口にしない訳にもいかず、せめて味が解りやすいものに興味を持ってくれと、グレイマンは祈るような気持ちで周囲を見回した。
ざわざわ、ざわざわと。港の一角がやけに騒がしく、人の垣ができている。
喧嘩っ早い海の男たちだ。それ自体は不思議でも無いが、潮風に混じり妙に芳醇な香りが漂ってきて、ミルドニアンたちの空きっ腹を強く刺激した。
居並ぶ者たちも、喧嘩の空気に浮ついていると言うよりは、どこか背を丸め、しかし消沈するでもなく腹の落とし所を決めかねて居るようであり。
「やぁやぁ、どうなされましたかな」
それは眉目秀麗な若司教の首を突っ込ませるのには、充分に奇妙な光景であった。
「おぉ、これは……ミルドニアン様!」
「なんだってぇ!? おお、本物だ、ありがたいことだねぇ」
対する民衆の反応は様々である。突然のお偉いさんの襲来に慄くものもいれば、眼福、眼福と手をこすり合わせ祈りを捧げる婦人もいる。
一概に通ずるのは、皆彼が「ミルドニアン司教」という個人だと認識している、という点だろう。
仮にも宗教の聖都、住人はほぼ全て信心深い者達だ。アバターたちが来る前は、月ごとの〈大聖堂〉における聖歌合唱会において、皆の前でオルガンを弾くのも彼の大事な役目であった。
「まぁ、少し落ち着いて。いったい何があったのですか」
「それがねぇ、海から『悪魔』が引き上げられたのです」
「ほう?」
悪魔とは。実際に魔族からの襲撃を受けている人類種としては、また随分と剣呑な響きである。
しかしその割には、住人の顔に困惑はあれど焦りや恐怖が無いのが気になった。
「生きているのですか?」
「それが情けないことに、おとっつぁんが呪いにビクビクしてるところにふとアバター様が通りかかりましてねぇ。
あたしから包丁を借りると、慣れた手つきであっという間にスパスパと」
「ふむ、それならば良かった。皆さん、怪我がなくて何より……」
ミルドニアンが指で聖印を切ろうとした所で、しかしそれでは周囲に流れる微妙な空気の説明にはなっていないことに気がつく。
問題の種は、未だ残っているのだ。それも恐らくは、この芳醇なスープの香りに付随した形で。
「しかし、その……鍋が残ってるんですわ」
「鍋?」
「アバター様が、悪魔を捌いた身をですね。ブツブツと切っては大きな鍋に入れ、しばらく煮込んでいたものが」
「鍋の中に」
「えぇ、残していくから好きに食べて良いとは言われたのですが」
それはまた、なんとも奇妙な話であった。
アバターであれば多少の悪魔など物ともしないだろうとは思っていたが、流石のミルドニアンとてその後鍋の中に放り込む光景は見たことがない。
なんでも件のアバターは、ふらりと現れて悪魔を調理し終えた後、それを数杯食べただけでまたふらりと立ち去ってしまったらしい。
好きに食べろと言われたものの、食って良いものなのかすら分からぬ。だから住人たちは、この悪魔の鍋に口をつけてみようものか迷っているのだ。
しかし先程から鼻孔をくすぐるこの香りは、なんとも耐え難い魅力に満ち溢れている。塩とニンニク、バターのような濃厚な脂の匂いに、たっぷりの香草が混じる。あるいは魚醤か、少量の酒が混じっているかも知れない。
「悪魔の骨と思しき物が残っておりました、司教」
恐らくは、かのアバターの手によって顔と骨だけになった『悪魔』の姿をグレイマンが見つけ出す。
なるほど、悪魔の名に相応しいグロテスクな姿だ。人の上半身ほどもあっただろう体長の、多くの部分が顔によって占められており、赤ん坊くらいであれば丸呑みに出来そうな口とそれに似合わぬ小さな瞳を持つ。
大口の中には尖った牙がびっしりと生え揃っており、体表はどことなくぬめっている。
「……とてもではないが、旨そうだとは思えませんな」
騎士グレイマンは辟易とした顔で、端的に己の見解を述べた。
「しかし、足は生えていませんね。これでは陸上で活動することは不可能だと思いますが」
「まだ幼体なのではありませんか? 沖に出た者を船ごとこの口で一飲みにする。魔族ならやりそうなことです」
「魔族なら食せないと決まったわけではありませんよ、騎士」
「どうしようもない緊急時であればです」
ミルドニアンは、この頃既にアバターが残した謎の汁の味を確かめたいという気持ちで一杯だったのだが、どうやら騎士グレイマンは一向に反対のようである。
確かに、この悪魔を調理(調理と呼ぼう、もうこの際なのだから)したらしきアバターが影も形も無いのは不気味ではある……だが、だからこそ、検分する道理もあるのではないだろうか。
恐らくは住人たちも、この鍋の中身に何か耐え難いものを感じては居るのだ。でなければとっくにひっくり返されて、海の藻屑になっていてもおかしくはない。
「しかしね、騎士。この悪魔の鍋が本当に『悪魔』によるものなのか、我々には判断する義務があると思いますが」
「……分かりました、分かりました。そうまで言うのでしたら、もうお好きになさると良い」
真剣な面持ちで詭弁を弄するミルドニアンに対し、ついにグレイマンが根負けし、司教の前に木製の椀が差し出された。
根菜、茸、玉葱はわかるとして、熱によって縮れた部位は、どこかの皮のようだが妙に厚ぼったい。
だが何よりも、この黄味がかったパテのような具材が気になった。恐らくは「悪魔」の肉の何処かなのだろうが、果たして。
「如何ですかぁ、司教様。やはりこれは悪魔の肉なのですかねぇ」
「……うむ、これはいけない。これはいけませんね」
頷きながら椀を啜るミルドニアンの周りで、群衆がどよ、とざわめいた。
「悪魔的ですよこれは。グレイマン、食べてご覧なさい」
「どっちなのですか!?」
かと思えば更に一杯をつがせ、己を護衛してきた騎士に向かって差し出すのである。
グレイマンが思わず叫ぶのもむべなるかなであった。とはいえ、勧められたものを断ることもできぬ。
(ええい、毒なら恨むぞ)
誰をと言わず心の中で呟いて、グレイマンは匙を入れた。
味の分からぬものを、いきなり口の中に放り込む勇気はない。身の部分だけ見ればまぁ魚のようでもあるし、そうとんでもない味はせぬはずだ。
身は随分とふっくらしていて、匙でほどける程に柔らかかった。スープごとひとすくいにし、恐る恐る口に含む。
「これは……」
まず、汁の香りが鼻へと抜けた。荒々しい海の風味を香草がうまくとりなして、これがなんともじんわりと残る。
身を舌で押せばプリプリと心地良く、一つ一つの筋の隙間から脂がしみだして味覚を喜ばす。
「うまい、ですな」
たまらず、くるりと丸まった皮を頬張れば、これもまたたっぷりと脂を蓄えていて、甘い。
空腹もあり、黙々と椀の中身を平らげていく二人に、ついに辛抱ならぬといった様子で住民たちが声をかけた。
「う、うまいのですかぁ」
「うむ、これほど美味いものが悪魔だとは思えませんが、しかしこれは人を虜にしてしまうでしょう。
これほど濃厚なスープ、私でも中々食べれるものではありません。これは肝でしょうか? ねっとりとした旨みと言ったら」
ごくり、と生唾を飲む音が聞こえてくるようであった。
畏怖よりも興味が打ち勝ち、今にも鍋に向かって雪崩れ込んできそうな野次馬を、グレイマンが手で抑え。
「そのアバター殿は、これを好きに食べてよろしいと言ったのですか?」
「ええ、確かに。なんだか作り終えた後、味を確かめただけで満足した様子でした」
ミルドニアンはふむ、と少し考える仕草を取ったあと、何か思いついたように、瑞々しい唇に薄く笑みを浮かべた。
「いやしかし、やはり私の一存では決められませんね。これはぜひ、枢機卿の方々にもご試食頂かねば」
「そんな、殺生な!」
「いやいや、流石に今からこの鍋を持っていくような真似はできませんよ。なので、こちらはご自由になさって下さい。
その代わり、またこの『悪魔』が釣れたら、教会に届けていただければ相応の謝礼を払うと言うことで」
「そ、それならば……有難いことですが」
「ふふ、それでは我々はこれで。いやぁ、良い収穫でした」
にこやかに場を収めるミルドニアンを、グレイマンはどこか胡散臭そうな目で見ていた。
だがすぐに、野次馬だった者達が椀を奪いあうようにして押し寄せてきたので、慌てて二人はその場を去るのであった。
……しばらく後。港を立ち去り、腹も膨れた状態で大聖堂へと帰る二人を傾き始めた日が照らす。
「ああ、美味しかったなぁ。やはり食材を見た目で判断するものではありませんね」
「……それで、今度は何を企んでいるのですか」
「企むとは人聞きの悪い。美味しい食材に、スパイスをふりかけただけの事ですよ」
スパイスの名は悪徳。芳醇な味わいにかけられたちょっぴりのスリルは、お偉方をおもてなしするのに覿面に効果を発揮することだろう。
「なに、あれは見た目が恐ろしいだけのただの魚です。
しかし取り扱いようによっては、魚一つが同じ重さの金塊にも化ける。どうです、面白いでしょう?」
「……次もまた手に入るとは限りませんが」
「ま、その時は珍しいものが食べれて良かったね、ということで」
実際に見えたのは骨だけだが、それでも彼らが見たこともないような大きな口をした魚であった。
おそらくだが、早々に見つかるような生態はしていないのだろう。それで良い。『悪魔のように美味い魚』の噂が広まれば広まるほど、今日ミルドニアンが手に入れたカードの価値は上がるのだから。
しかし気になるのは、そんな素材を事も無げに料理してみせたアバターの存在か。
「面白いですねぇ、彼らの文化は。あれほど美味い鍋に2、3口を付けただけで他人に分け与えるとは。
あのくらいの物であれば、食べ慣れているということなのか。あるいは……何かを再現しようとして、失敗したか」
「失敗ですか!? あれほどのもので……」
「ですが彼、あるいは彼女の望んでいたものとは違ったのかも知れません。調味料の再開発については、ペトロニウス様からもお話を伺っていますから」
信興国バーデクトの味付けは、塩、乳、香草、にんにくのそれぞれの配分で決まるものであり、アバターに取ってはどこか物足りぬものらしい。
トマト味なども有るには有るが、これも最近になってクリプツカの料理などを参考に出来上がった新しいものだ。
大衆酒場でならともかく、格調高い式典などに出せるものではない。
「折角の海産物を、我々は焼くか、蒸すか、あるいは干すかしか行っていませんでしたが。
彼らは随分優れた文化をお持ちのようだ。聞いてみれば、まったく新しい活用の仕方を提案してくれるかもしれませんね」
「……別に、我らの文化が劣っているわけでは……!」
「それを判断するのは、あちらにお伺いなさっている姫様たちが戻って来られたらにしましょう。
実際の所、私たちは『アバター』と言う限られた層を通してしかニホンに触れられない」
そして、"今後"についても。という呟きを、ミルドニアンは口の中でのみ呟いた。
やはり軍人だからだろうか、騎士グレイマンはどうにもアバター達への対抗心が強い。
それ以外はまったく素直で良い男なのだが……まぁ、戦が仕事である以上、致し方ないところも有るのだろう。
2ヶ月ほど前、一度だけ開いた異邦への扉。あれが再び開き、そして閉じなかった時、「聖姫」があちらの世界に触れているという経験は、おそらく四国家・五都市間での大きなアドバンテージへと化けるはずだ。
その予感は、おそらくはまだ、この世でミルドニアンくらいしか確信に至っていない。
「……まぁ、それもこれも聖姫様がお帰りになられたら、の話ですが」
吊り上げていた口角を下げ、ミルドニアン司教は浅くため息を吐いた。
帰ればまた、仕事は呆れるほどに多いのだ。こんな時にはアバターの無尽蔵な体力が羨ましくなる。
聞いた話によると、彼らには疲れと言うものが無いらしい。元から無かったわけではなく、まるでこの世界に来る際に切り取られたかのようだ、と語っていた。
「聖ヤビス曰く、『疲れを知らぬのは、神の両目と山の民くらいなものだ』……と」
出かける前に呟いた一文に繋がる句を唱え、若き司教はつかの間の休みを終える。
空では、沈みゆく右目に代わりやや瞼の閉じかけた神の左目が、地平の褥から離れようとするところであった。




