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――今のAR・VR技術の根底を支えていると言ってもよい、脳-機械間言語「bRead」が商業ベースに乗り始めたころ。
同様に、一躍注目を浴び始めた脳科学の研究題材があった。ゆくゆくは「経験の百科辞典」となると謳われた、.pxe(Packable and EXEcutable Experience/梱包および実行可能な経験)ファイル群である。
その、行おうとしている理念自体はそう難しくも無い。要は知識や計算と同じように、人間の"経験"をコンピューターが代行できるようにした、それだけなのだ。
たったそれだけの.pxeファイルたちは――あるいは.exeや.htmlがそうであったように――地球上の人間の生活を、がらりと様変わりさせた。
例えば。バイリンガルの.pxeファイルを使用すれば、もう海外への渡航で語彙に詰まることは無いだろう。
例えば。アスリートの.pxeファイルを使用すれば、貴方はすぐにでも同じフォームで走り出すことができるだろう。
絵を描き始めるための問題は、最早基礎となるデッサン力ではない。何をモチーフにし、どう配置するかのセンスであった――なにせ、人は明日にでもプロと酷似した絵柄で描き始めることができるのだから。
音楽も、料理も、あるいは――程度の差こそあれ――運転や医療といった専門的な分野から、鍛冶、歌舞伎のような伝統技術まで。
人は、競うように自分が築いてきた能力を.pxeとして残し、また活用して自身の問題解決の糧にして。
もちろん、"M&V"でも当然のように.pxeファイルは使用されていた。「戦闘」という現代人がまず不慣れな行為を補佐する、"モーションファイル"と呼ばれるものたちが、そうだ。
剣技や武術の動きを纏め、素人でも"やりたい見栄えの良い動き"を即座に行わせてくれる妖精。
それは、道場主の娘、麗茉莉にとってはやや苦い存在でもある。
この技術のせいで、あらゆるインストラクターの仕事が激減したのは確かだ。
もちろん完全に不要になったとまでは言わないが、やはり、茉莉の実家もどうにか再び軌道に乗るまで、苦しい見通しだった時代があった。
小遣いも1000円減り、2000円減り……次第に、バイトで昼食費を賄わなければならなくなったことはよく覚えている。
茉莉が高校まで続けていた武術の道を諦め、就職のために大学へ進学したことにだって、.pxeファイルの影響は小さくないのだ。
いくら親と話し合って決めたこととは言え、道を諦めたことに未練が無いわけでもない。それで就職にも失敗しているのだから、本当に合わせる顔が無いとも言える。
「茉莉は、嘘が下手だから」と、呆れたような、悲しむような顔で母が言った一言は今でも忘れられなかった。
逃避をしていた罰だろうか。いつの間にか、茉莉をこの地に誘った旧友たちが先に去っていても、縋るように残り続けたこの幻想で――
彼女は、〈リッツ・サラディ〉として取り込まれた。
「サイコ野郎とは厳しいなぁ。一振りの"刃"で良いと言っているのに!」
「知ぃったこっちゃ無いわよ、変態!」
金属同士が擦れあい、2人の姿は一度離れた。
影は無い。おびただしい量の粒子が無残なアバターの遺体から生成され、足元から光が漂っているからだ。
邪魔も無い。前後関係すら秒単位で入れ替わる2人の間に、水をさすことのできるアバターなど、この場には居ないからだ。
リッツ愛用のミスリル銀で作成された手甲は、この世界において軽さと硬度を併せ持ち、摩耗にも強いと言われている。
対するブレードの使う刀は、ただの黒鋼のようでいて、ぬらりと表面から雫が垂れていた。
「抜けば玉散る――」
楽しそうに。
本当に、今が楽しくて堪らないのだと口元に笑みを浮かべ、ブレードと名乗った男は凶器を振るう。
「氷の刃ァッ!」
「そうやってふざけて!」
冷気を纏っている所から言って、適正レベル60前後に位置する〈村雨〉であろう。
氷属性と多少のAGI補正が有るが、それだけと言えばそれだけだ。当然ながら、レベルが上がればもっと良い装備が用意されている。
だがこの場では、そんな何の変哲も無い装備こそが最もキルを稼いだ武器なのだ。もはや、踏み込んでのカウンター狙いなどできるはずも無い。
リッツは即座に相手の踏み込みに併せて2回後転し、大きく距離を取った。拳と刀ではリーチの差は歴然、しかしリッツにはもう一つ武器が有るのだ。
「『サンダーボルト』ッ!」
一直線に飛んだ紫電の矢が、ブレードの追撃を阻害する。
だが、見てから避けるなど不可能な筈の電光は、相手が大きく身を捻ったことで明後日に飛んでいってしまった。
リッツには――あるいは、彼女の動きを処理する機械には――必中のタイミングだ、という感触が有ったのだが。
「……デタラメね、ヨシツネもどき。あんた、刀はコラボ装備にしないの?」
トントン、と拳武器の待機モーションであるステップを踏みながら、リッツは男に対して問いかける。
"化身殺し"の構えは、やはりアバターが通常とる刀の構えとは、大きく異なっていた。重心をなるべく手元に、垂直に刀を立てて、微動だにも動かない。
「生憎、これが一番手に馴染むんだ」
「そんな代わり映えしないでしょうに。結局、アバターなら何でも器用に扱ってくれるんだから」
「違うんだよ、滑りやすさとかさ」
言葉は陽動。一瞬でも隙を見せてくれれば、再び電光の矢を打ち込めるのだが。
しかし生憎、こうして会話していても一向にブレードの隙は見えず。垂れるはずの無い汗が、リッツの額を滴り落ちた気がした。
「――"大分、近くなった"」
「なんですって?」
「でも、ダメだね。それじゃあまだまだ、合格点には届かない。話に応じてくれるなら、そろそろネタバレをしたいんだが」
「……言うじゃない、今まで逃げまわっていたのはそっちの癖に」
「けれど、今はその必要も無くなった。 これだけの人が居れば、逆に統率だった行動はしにくいんじゃないか?
もともと僕は、乱戦なら大歓迎だ……本当は、もう少し人を集める気だったけど」
これなら充分、と。舌と唇だけを動かして、確かに彼はそう呟いたのだろう。
この一帯に30近い死体が転がって、なおも100余名のアバターが遠巻きに武器を構えている。
彼らは皆、退くか、攻めるかの境界線上に居るのだ。自分から進んで捨て駒にはなりたくないが、絵に描いた餅が立派すぎた。
騒ぎを聞きつけたのか、後から集まってきた者すら居ないわけでは無い。こうも露骨だと、野良のアバターたちが邪魔で当の"ユニオン"ですら中々手を出せずに居た。
そんな、欲の光が渦巻く瞳をひとしきり眺め回し、ブレードは満足そうに笑みを深める。
「見てくれ、まるで怪物か何かを見る目だ。もう、同じアバターとすら思われて無いのかも知れない。
……ああ、これでいい。この視線が欲しかったんだよ」
「思う存分俺TUEEEができて大満足ってわけ? そりゃ良かったわね」
「そんなんじゃ無いさ、欲しいのは説得力だよ。"これでやっと、話を聞いてもらえるステージに立てた"」
露出した口元でニンマリと笑うブレードに、リッツは不吉の影を見る。
この男は、どこまで本気なのだろうか。全てが真実めいていて、だからこそ嘘くささが拭えない。
「なぁ、どうだ。凄いだろう? 怖いだろう? 悔しいだろう? ――でも、ちょっぴり"憧れる"だろ?
いいぜ、話をしようじゃないか。楽しい楽しい、"化け物"の種明かしだ」
ざわり。
取り巻いていたアバターたちが、再びにわかに騒がしさを取り戻す。
種明かしと、そう言ったのだろうか。種さえ知っていれば、誰もが彼のような強さを手に入れられる話だと。
それは――クラウソラスに惹かれ、無目的に集まってくるような層にとって――非常に魅力的な話のように思えた。
確かに、アバターには金も能力もある。しかし、まだ最初の街で燻っているような者たちにとって、他者から向けられる尊敬は明らかに不足していた。
他者と違う力は、常に一定の尊敬を集める事ができる。それが、ゲームの世界であれば尚更だ。
今、"化身殺し"が、恐れられながらも多くの注目を浴びているように――自分も、この世界で輝いてみたいと。
個性を形成しきる前、経験すら個人のものにならぬ時代にC-VRへ嵌り込むような世代だからこそ、特に強い渇望となって空気を染める。
「あんた、何のつもりよ……?」
「どうもこうも。実は最初からそのつもりだったんだよね。
ひとしきり、注目を集めた後は(まぁ、目的はそれだけじゃないけど)この秘密を、皆と共有するんだ、ってね。
今どき、データベースサイトにも書き込めないからさぁ……検証も自分でやらなくちゃ」
ハハハ、と笑い声が響く。
ブレードと名乗る男はそうやって、自分1人でひとしきり笑い――ス、と腰溜めに刀の位置を変えた。
たった1動作だけで、浮ついていた空気がまるで氷皿の上に乗せられたかのように冷たく沈む。
鋭い殺気を浴びせかけられたリッツが、ごくりと喉を動かした。
「"10回に1回"」
「は?」
「シミュレーターによれば、それが"システム"が僕の即死が発動させる確率のようだ。
10回クリティカル部位に斬撃を叩き込んで、やっと1回。まぁ、高い方なのかも知れないが」
その通り、高い方だろう。即死、必殺、絶命。言い方は色々あるが、ゲームとして慎重にバランスを取らなければならない要素であることは間違いない。
強すぎればゲームとして非常に大味になるし、逆に弱すぎてもあまりにロマンが無さ過ぎる。
ネットゲームであれば尚更。上下の振り幅が大きいこういったゲームでは、特に気を付けなければならないはずだ。
そう考えれば、10%の即死率と言うのは、よほど他の要素を犠牲にしなければ得られない数値であることは間違いない。
「"だけど僕が、そんなことに従ってやる道理が有るかい?"」
化身殺しは動かない。モーションがリアリティとして取り入れる微かな姿勢の上下や、腰の浮き沈みすらなく。呼吸の音すら最低限に、同じ姿勢で構え続ける。
「確率とか、運とかさ。できるできないってのは、そう言うのじゃ無かっただろ。
幸運値? クソ食らえだ。現実をゲームに押しこむには必要だったかも知れないけれど、"つまりもう要らないものだ"」
日が、沈みきる。空に反射した微かな赤い滲みすらも見えなくなって、夜の帳が落ちる。
「小さい時できなかったことがさ、だんだんできるようになって行くんだ。
二重跳びが飛べたりとか、50mを10秒で走り切れたりとか、両手で猫ふんじゃったが弾けたりとか。
人ってのはそういう物だ、強くなるって言うのは、そういう物だったはずなんだ」
「……何が言いたいのよ。チートの話じゃ無かったの?」
「あぁそう、"ずる"の話さ。その通り――」
ゾクリと、背筋が怖気だつ。
このサイコ野郎、とリッツは睨んだ。ああ、全く以って気が狂っているとしか思えない。
麗茉莉は、社会人だ。いや、出鼻は少しくじかれたが、ゆくゆくはそうなるつもりだ。
故に、こんなことを認めるわけには行かない。
……思うがままに、拳を打ち交わすのが「楽しい」などと。
「――今の僕なら、"10回に10回"できるってことだよッ!」
銀閃が奔る。リッツはその切っ先を大きく避け、踏み込んで掌底をブレードの脇腹へと触れさせた。
当たっている。その拳は間違いなく、届いてはいる。"だが躱された"。重心と、体重移動の妙である。
少なくとも、現代社会でなお機械が成し得ていない動作の領域。
「……やっぱりッ! アンタ、モーションなんて最初から……ッ」
「あぁそうだ! 難しいんだぜ、首をちょん切るってのは! 骨も太いし、筋肉だって、そう切れるものじゃ無いからさぁッ!」
それが意味することはつまり、この男が最初から、機械の介入など、妖精の手助けなど、必要としていないと言うことであった。
自らの力のみで剣を振るい、自らの技を以って真っ二つに首を断つ。それを、10回に10回行う為には。
果たして、いったいどれ程の「経験値」が必要になると言うのだろう。かつて自身が積んでいた日々の稽古を思い出し、リッツはゾッと顔を青ざめさせる。
「ひょっとして、この世界に来る前にも!?」
「そんな大量殺人、見逃して貰えるほど警察は甘くないだろうなぁ……心配しなくても、シミュレーションでしか試して無いよ。
『命は大切に』って、お祖母ちゃんに言われたしなぁ。優しい人だったよ、怪我した小鳥を手当したりしてさ」
「だったらなんで、今になってこんなことしてるのよッ!」
「そりゃあ決まってる」
跳ぶ、殴る、避ける。時折大きく距離を取り、『連環』で蓄えた魔力を叩きつける。
頬を掠める死の気配に、リッツは短く呼吸を漏らし、頬をヒクつかせた。
ざくりと、左腕が斜めに切り裂かれる。一瞬の冷たさの後に、痛みが響く。
「~~ッ、あぁぁぁッ!!」
「……僕たちは決して、"命"なんてかけがえの無い存在じゃないんだもの。
少しくらい粗末にしたって、構わないだろう?」
リッツの傷跡から溢れでた光は、この地に何の痕跡も残さず、風に巻き上げられ夜の中に消えた。
□■□
アバターは、"命"ではない。
"化身殺し"が唱えたその一説は、彼の懸賞を目当てに群がっていたアバターたちに、どよめきをもって迎えられた。
脊髄反射的な否定の声が、アバターの多くから上がりかける。当然と言えば当然だ。「お前は生きてなんかいない」といきなり糾弾されて、反論しない者は居ないだろう。
だが、ブレードはそれを刀の一振りでもって押さえ込んだ。彼の目は、眼前の女性にのみ注がれている。ガヤめいた聴衆の存在など、もはや舞台装置の1つでしか無いと言うように。
「――いい加減にして下さいッ!」
それでも。堪らず前へ駆け出して、傷ついたリッツをかばうように立ち塞がる姿があった。
アバターではない。薄桃色の髪を短くまとめ、突き出た角が特徴的な女性従士。アビエイル=クウェイリィである。
切り裂かれたリッツの左腕から、血液代わりの光の粒子が諾々と流れ続ける。
「……なんで、あなたはそんな事するんですか。
なんで、他ならぬあなた方が、そんな事を言い出すんですか!?
あなただって、"アバター"なんでしょうッ!?」
「うーん、この世界の子か。どいてくれないかな……危ないよ?」
「どきませんッ!」
普段、警邏に使っている槍は、突き飛ばされた時に手放したままであった。
自身が手ぶらな事に気が付いたアビィは、2、3瞬目線を漂わせて、腰に下げた緊急用のブロードソードを鞘から抜く。
今まで一度も使ったことが無いような、まっさらな刀身が顕になった。一応、訓練だけは軽く積んでいるが、どこまでやれるか。
「街の治安を守るのが、〈白犬騎士団〉の仕事です!」
それでも。周囲のように、「アバターの問題だから」と見ないふりするのが嫌だったから、自分は首を突っ込んだのだ。
アビエイルは己の信条を強く思い定め、真っ直ぐにブレードを見る。
増え続けるアバターの波から、先程まで華奢な身体を庇っていたアルフォースが、戸惑い気味に声を上げた。
「お前っ……駄目だ、そんなの。危険だぞ」
「だ、大丈夫です。私だって、まるっきり素人なわけじゃ……」
「……参ったな。そうは言ったって、素振りくらいしかやったこと無さそうじゃないか」
「うぅ」
図星であった。アビエイルは、所詮騎士階級でもない平兵員である。
訓練といったってそんな上級な設備を使わせてくれるわけでも無いし、そもそも炊班兵はひと通りの危険を掃討した後にキャンプを準備したりするのが主な仕事だ。
平剣もどちらかと言えば、穴を掘ったり枝を打ち払ったりするための万能ツールに近い。勿論、槍を用いて野生動物やゴブリンを打ち倒すくらいの事はできるが、その程度である。
「その勇敢さは尊敬しよう。でもさ、命は大切にするべきだぜ」
「……今更あなたが、そんな事を口にするんですか。これだけの人を殺しておいて……!」
「いいや、だって、"死んでないだろ"?」
そして彼は、さも当然のことを語るように淡々と口にした。
首を切られて"即死"させられたアバターたちの亡骸は、未だ少しずつ光に溶けながら道端に打ち捨てられている。
当然ながら、彼らが突如むくりと起き上がるようなことはない。呼吸している様子すらなく、地面の光だまりを広げていた。
「死んでないって、そんな……」
「まぁ、ゲーム的には死亡してるのかも知れないけどさ。でも明日になれば、ケロっと死に戻りしてくるわけだ。
なんなら、蘇生アイテムを使ったって良い。……なぁ、生き返るような"死"を、君たちは本当に死として認めて良いのか?」
口元は笑っているものの、彼の声は真面目そのものであった。
君たち、つまり、アバターでは無い、この世界の〈人類種〉に向かって問いかけ、憂いている。
――本当に、こんな呆気無い物を、君たちのかけがえの無い"死"と同列に置いて良いのか? と。
「蘇生だけじゃない。腹を貫通するような傷ですら、ちょっと回復すればあっという間に元通りだ。
そんなのさ、やっぱり"生きてる"なんて言えないよ。生き物をシミュレートしてるだけの、只の現象だ。
そりゃ僕は、生物学の専門家って訳じゃ無いがね。科学的にも一応、生命ってのには定義が有るんだろ?」
即ち、自己を維持するための"代謝"、"成長"とその果てに有る"老化"、自身を再生産する"複製"――及び、"繁殖"。
「なぁ、同胞よ。僕たちに可能なのは、どれと、どれと、どれだい?」
ゆらり、ゆらりと。アバターたちの傷口から溢れる光の粒子が、月に吸い上げられるように軌跡を描く。
ライトアップされた霧が立ち込めるような、幻想的な惨劇の上で、"化身殺し"は立ち続けていた。
彼の問いには、誰も答えられない。生半可な誤魔化しを許さぬほどに、彼は既に己の力を見せつけている――
「……どれでも良いわよ、そんな物」
たった1人。この世界、今この場に居る、彼の同類を除いては。
「死ぬとか生きるとか語りたいなら、中学までに済ませときなさいよ……」
「く、ははは! あぁ、言われてしまった。まったくだ。僕だって別に、そんなことを本題にしたいわけじゃない」
未だ足取りが確かならずも、紺髪の女がくらりと立ち上がる。
その表情は、不思議と幾分か力が抜け、穏やかな顔もちであった。
血が――いや、血では無いが――余分なものが抜けて随分とスッキリした、と言うところだろうか。
斬られた部分はまだ随分と痛いが、結局、痛みを感じるようになっているだけだ。
筋も骨も、別に裂けちゃいないし自由に動かすことすらできる。そう考えれば、一々顔を顰めてやるのも、なんだか馬鹿らしい。
「僕が言いたかったことは、アバターという在り方が既に、"恵まれている"だってだけなんだからさ」
「そうね」
「失敗したってなんともない。危ないこともやり放題だ。なら、なんでやらないの? って話だよ。
そう、最初から僕たちは"ずる"なんだ。だけど"ずる"に頼りきってばかりでは、この世界では先に進めない。
……だから、努力を始めよう。この世界で生きていく為の、一歩を踏みだそうッ!」
「そうね」
……つまるところ、彼は。彼なりに本気で、理解者を作ろうとしていたのだろう。
自分の所業を誇示しようとするのも当たり前だ。より多くの人に見てもらうことは、より多くの人に自分の意見を聞いてもらうことにも繋がる。
かつて、リッツたちの居た現代で、"強さ"は何の役にも立たなかった。多少の経験は.pxeファイルに塗り潰され、いくら足腰を鍛えようと、結局は自動化された移動手段が完備されている。
運動と言うのはせいぜいが健康や美容を維持するための体操程度のもので、それもプログラミングされたアシストコーチが、相応しいファイルを探してきてくれる――スポーツや格闘技で食っていけるだけの椅子は、本当に少なくなっていた。
「それでも"アタシたち"は、強くなりたかったのよね」
「ああ」
「他人に怪我なんてさせる訳には行かないし、規制や法は本当に厳しいし、そもそも、強くなったからって活用する場所なんて無かったけど……
それでも、楽しいのよね、強くなるのって。どれだけ意味が無くったって、頑張るのを止められなかったわね」
「ああ、そうなんだよ。分かるだろ?」
分かる。分かってしまう。
諦めて、"社会"に適合しようとして。……それでもリッツは、馴染むことができなかった。
"M&V"にハマりこんだのは、レベルやステータスを上げて強くなることに意味が有ったからだ。
職業に〈モンク〉を選ばなかったのは、拳の振り方を練習することに意味が無かったからだ。
「アビィ……ありがと。アタシたちのために、怒ってくれて」
「リッツさん……あの、せめて、回復を……」
「要らない。アイツもまだ、使ってないもの」
二人の間を塞いでいたアビエイルの肩を叩き、横に避けさせる。
これでまた、剣戟を防ぐものは何もなくなった訳だ。じくじくと肩が痛むし、口元は酷く歪む。
だが、どれ程痛かった所で、何を失うわけでも、何を失わせるわけでも無いのなら。
――もう、誤魔化すのは止めるか。
随分と長く着ていたダークグレーのスーツを、脱ぎ捨てたような感覚があった。
真っ白なブラウスや、ウーステッドで作られた皺のないジャケットが、風に解けて消えていく。
パチパチパチと音を立て、体を動かしていた無数のスイッチが切れていった。妖精の囁きは遠くなり、体中に、血の(あるいは代替する何らかの)潮が巡る。
深く息を吸い込んで、リッツは腰を落とす。大地に根を張るような、重々しい構えであった。
「そうね。アタシ、きっと……」
太陽は落ち、黄昏も消え、月が顔を覗かせる。周囲の星の輝きすら呑み込むかのような、見事な満月が。
一際強い海風が吹き抜けて、溜まりきったアバターの粒子を、荒く吹き流した。風下に居た者達が、顔を覆い目を細める。
獣が住むというのは、獣になるというのは。なるほど、きっとこういった気分なのだろう。
全てが心地良かった。"死なない"敵が、なんの気兼ねなく殴り飛ばせる相手が目の前に居るという状況も、全て含めて。
「アンタをぶん殴る時、凄いスカッとするわ」
「ああ、良いね。とても楽しみだな」
そのやりとりが、最後の引き金となった。




