18
波のさざなみと言うのは、なぜこうも郷愁を煽るのだろう。
水面に日を映し、風によって姿を揺らめかせる海を見つながら、リッツはなんとも無しにそんなことを考えていた。
「別に私、港町生まれって訳でも無いんだけどね」
「海というよりは、水音そのものが胎児の頃を思わせるんじゃないですか?
リラクゼーションやメディテーションの為にわざわざ雨音を流したりする人も居たりしますし」
「あー、そういうのねー……うんうん」
内海に面したバーデクトの港は、昼を過ぎれば段々と静まり返っていくのが常だ。
もし、岸辺が見えぬまま沖に出れば、海辺の強い風は容赦なく船の穂先を変え、潮流は容易く船頭から位置の認識をずらすだろう。非常用の灯台が焚かれていたとしても、暗い海の底から魔物に襲われればひとたまりもあるまい。
中には、日が沈んでもなお船を出しているような奴は、海の女王に貢物として攫われてしまうという言い伝えも有るらしい。
だからこそ海の男たちは朝早く船を出し、日が沈み切る前には片付けを終えているようなスケジュールで動くのである。
「それで、話って何なのかしら」
「すごく話題を振りかぶって来ましたね……むしろ今なんで海の話したんですか」
「いや、こう……なんとなく、空気が張り詰めてたから……?」
ほぼ無人と言っても良いような港に、男女が二人だけで佇む。それだけならロマンチックと言っても良いようなシチュエーションなのに、リッツはどうにも先程からピリピリとした緊張感を肌で感じていた。
カミイズキは、一見しただけでは未だ泰然たる態度で佇んでいる。これから化身殺しと対峙しなければならないというのに、落ち着いたものだと思う。
涼しげな笑みがふ、と崩されて。彼の唇から言葉が発せられた。
「ねぇ、リッツさん」
「な、なにかしら?」
「宜しければ、僕とお付き合いして頂けませんか」
「はぁ……はぁッ!?」
最初に脳裏に浮かんだのは、「あぁ、アタシはいま間抜けな顔しているだろうな」と、何故か他人ごとのような言葉であった。
「えっ……え、アタシ? ナンデ!?」
予想外の方向からのブローに仰け反って、紺色の髪の上に乗っていた魔女帽の鍔もずり落ちる。
カミイズキの言葉は、リッツからするとまるで想像の埒外から落下してくる爆弾のようであった。既に大学生活も終わった歳、別にロマンスの1つもなかった訳では無いのだが、流石にこうも真正面から告白されたのは初めての経験だ。
「あぁ勿論、答えはすぐで無くても結構です。そうですね……無事、"化身殺し"の問題が解決した時にでも聞かせて下さい。
なぁに、何人もの人が、今日の為に色々と努力してきたんです。きっと上手く行きます、何も心配は要りませんよ」
「あっ、うん、なに、死亡フラグ? そういう冗談? 冗談よね?」
あえてフラグを建てる遊びは、何度か流行り廃りを繰り返しながらネットの僻地で今も生き残っている。
これもまた、その一種だったのだろう。はははは、と思わず二人で笑い合い。
「いえまぁ、3分の1は本気ですが」
「3分の1か……いややめてよ、もっと割り切れる数値にしてよ……」
「しかし、言ってみたところで、あなたはどうせ――彼ら、クァーティーさんやアルフォース君と共に、旅を続けるでしょう?」
「うーん……まぁ、そうね」
それは確かに、言われてみればその通りであった。高揚が引き、冷静に考えることができるようになれば、やはり自分は同じような結論を出すだろう。
別にカミイズキが嫌なわけではない。が、現状特に好きというわけでもないのだ。最終的には、クァーティーの為そうとしていることの方が、面白そうで魅力的という結論に達する。
「何か面白そうなことを、企んで居らっしゃるようで」
「そういう話は、まずはキュー子に聞きなさいな。まったく」
「おや、あなたから聞きたい、と思ったのでは行けませんか?」
「あ、そう」
リッツとて、年頃だ。容姿も悪くない(と言っても、狙って作らなければアバターは大抵容姿が良いのだが)異性に好意を寄せられること自体はまんざらでもない。
とはいえ、ここまでしてやられると嬉しさより恥ずかしさの方が勝って、どこか苦々しい。恥ずかしさで耳も赤くなっているだろうな、というのが容易に知れた。
「……年下よね? まさか二十歳超えてる、なんてことは」
「残念ながらありませんね。若輩ながら、高校2年ですよ」
「やっぱ、年下よねー……うーん、一応聞いとくけど、なんでアタシに拘る訳? そんな、こう、そういうんじゃないとしてもさ」
「そうですね、根本的には一目見て惹かれたのですが……あえて言うなら――」
カミイズキが目を細める。笑っているのだが、その表情が分からずに。
「――"獣が潜んでそうだった"」
気のせいかな、と瞬きをして。やはり彼は、いつもの爽やかな笑みを浮かべていた。
それにしても、惹かれた理由が「獣が潜む」とはどういうことだろうか。あまり女性を褒める言葉には聞こえないし、かといって男に使えば惹かれた理由になるかと言うと、やはりそうは聞こえない。
「ちょっと、それってどういう……」
リッツが微妙な顔をして問いただそうと手を伸ばした時である。
カミイズキの耳に付けられた〈コール・クリスタル〉が、淡い光を放ち、そこから男の声が聞こえた。
『ヨー、ホー、マイクテス、マイクテス。繋がってるかーい? 明日へはどうだーい? 自由、そして、空へ……』
『Yes。くだらない戯言も程々に。もぎりますよ』
『もぎる!?』
この唐突なハイテンションとカミソリのごとき相槌、ペトロニウスとヴァージニアの主従であろうか。
それまでの空気が一気に霧散していくのを感じながら、リッツは肩を落とした。相手の役割を考えれば、無視することもできまい。
「あれ? でもなんでアタシにまで声が?」
二人が繋がっているコール・クリスタルに向けて話しかけているとしても、ギルドチャットであるべき会話がリッツにまで聞こえてくるのはおかしい。
かと言ってパーティ会話は姿が見えないほど遠い所にまでは届かないし、そもそも彼らと同じパーティには入っていない。カミイズキのクリスタルから聞こえてくると言うのも変な話だ。
『驚いた? 驚いたかね? いやぁ僕も驚いたよ! どうやらこれが、"串PT"とやらの効果らしい。まぁパーティと言いつつ、プロクシー役はクァーティー殿1人なのだがね』
『Yes。我々は今、クァーティー様に向けて話しかけています。しかし、彼女の口からはリッツ様の声が聞こえてきます』
「なんとまぁ」
なるほど、クァーティーに向けた会話が、なんやかんやあってパーティメンバーやギルドメンバーであるリッツ達にまで拡散しているということだろうか。
なんやかんやはなんやかんやだ。ペトロニウスに聞けば詳しい原理を並び立ててくれるのかも知れないが、リッツにはその半分も理解できない自信がある。
交流電流が理解できなくてもコンセントは使える。それは、リッツが大学生活で到達した1つの真理であった。
「なんかよく聞くと後ろから『バグだわ……いえ、想定外の仕様よこれは……』と不穏な呟きが聞こえてくるんですが」
『いやぁ、中の人は大変だね! それはそうと、そろそろリッツ君は戻ってきてくれないか。最後のピースもアビエイル君が届けてくれた。ぼちぼち日も暮れるだろう?』
「だ、そうですが……どうします、リッツさん?」
「どうしますったって……戻らないわけには行かないでしょ。こっちは別に、後でもどうにかなるし」
「では、そう言うことで。はい、はい、今から戻るそうですよ」
無視できない告白を行った側の割には、相も変わらず澄ました顔だ。
やっぱり本気では無かったんじゃないかと疑わしくなるほどだが、「共に旅に出たい」という言葉は嘘ではあるまい。
恐らくは、リッツが"強くなりたそう"に見えたという話も。
「……ごめん。やっぱり最後に、1つだけ良い?」
今を逃せば、大規模な行動が始まる。リッツはその前にどうしても1つだけ、聞いておかねばならないことがあると感じた。
「そう言うあなたに……獣は、居るの?」
問いを受けて、既に太陽に向けて歩き出していたカミイズキの姿が、上半身だけ振り返る。
太陽を背にしたことで逆光となり、一瞬、彼の表情が影法師と重なって、ひどく真っ黒なものに見え。
「ええ、とても」
それは、普段通りにアルカイックな笑みを浮かべているだけのようにも思えたが、既にかなり傾いた日差しに目を焼かれ、良く見ることはできなかった。
□■□
「――さて、これで"餌"は撒かれた」
海の区、東地域。既に〈人類種〉の海の男達は、倉庫や船屋が立ち並ぶこの区域から酒場へと繰り出している頃である。
漁師ギルドの私的警備兵や何名かの灯台守を除けば、最早この区域に人影は無い。これならば充分に注意をすれば、戦闘に巻き込むようなことも無いはずだ。
「皆、データ共有された"M&V"時代のタウンマップは見ているね?
この世界では、そうとう再写実化されているので細かい路地などの参考にはならないが……
まぁだいたい、C-5から6が我々の担当だ。カミイズキ君の担当がC-5、アルフォース君の担当がC-6、そこで君たちは――」
その、大聖堂が管理している内の、1つの空き倉庫に十人足らずのアバターたちがたむろする。どこかで見た、竜牙の首飾りを下げた少女と数人の男たちの姿もある。
冷暗所としても使える作りになっているのだろう、冷たい風の吹き付ける海辺で有るが、中に入れば特別ひやりとしていた。
そんな建物内に無理やり卓を1つ置き、羊皮紙に描かれた港の配置割りを広げ。それをこの世界の人々であるアビエイルやハリスと言った面々が、一歩引いて見つめる。
「この数日の間にも、新たな被害者は出続けている。時間はきっかり夕刻、なんともキザなことだ。
ここまで大々的に動いている以上、あちらさんも挑発されていることには気が付いているだろう。
諸君、ここが踏ん張りどころだぞ!」
「うぇーい」
「あーい」
「うぃーっす」
「締まりがないなぁ、もう」
大学生特有の軽い返事が木霊して、薄暗い倉庫の中、どことなく緩い空気が漂い始めた。
まぁ、これでもグレーなMODを色々投入しているくらいにはゲーム慣れしている若者たちである。
新星研究室でC-VRゲームのプレイを推奨しているのはある理由が有るのだが、その中でも彼らは"ガチ勢"と呼ばれる程度には装備もステータスも高水準でまとまっている者たちだ。
頼りになるかはともかく、戦力になるのは間違いないだろう。この世界での戦闘も、そこそここなしているようだし。
その中に、リッツとクァーティーは居た。クァーティーは普段装備しているカチューシャから、ヘッドホンのような衣装装備に付け替え、ギルドチャットを聞き逃すまいと目を閉じて集中している。
わざわざ頭装備を付け替えるのは、クセのようなものだ。気持ちの問題以上の意味は無いのだが、プロクシー役と言うのは通常のゲームプレイ以上に「気分」と言うものに気を払わなければならない。
そしてリッツは……どことなく上の空、という表情のまま、ペトロニウスから溢れる熱弁を聞き流していた。
まぁ、彼女がやること自体は単純だ。"化身殺し"が釣られてきたら出ていって殴る、それだけで良い。だからと言って、馬耳東風であって良いとはならぬだろう。呆けた彼女の真後ろから声がかかる。
「リッツ様」
「……ん、あ、ごめん。何かしら?」
「いえ、申し訳ありませんが、少し邪魔になっていますので……右足のつま先を踏んでもよろしいでしょうか?」
「良くないわ! 邪魔ならちょっと退くから、無理やり通ろうとしないで」
なんというか、流石は慇懃無礼ロボメイドこと"人形司書"ヴァージニアである。
ヒールの音も高らかに、ツカツカと人の波を掻き分け入ってくると、そこでやっと恭しくスカートの裾を持ち上げての一礼をした。
「……おや? ヴァージニア。ときにミズシマ君は一緒では無いのかね?」
「YES。しかし、つい先程までは一緒でした。具体的に言えば、倉庫の入り口手前までです」
「すぐそこでは無いかね。ふーむ、何をやっているんだ、彼女は」
言って空き箱から飛び降りるペトロにつられ、倉庫内にたむろしていたアバターたちの視線が開けっ放した入り口へ自然と集う。
小さな背が扉から曲がってすぐに、呆れたような声が響く。もう一つは、やはりミズシマ=エリの声であった。
「ほら、何をしているんだね! やや、まだ着替えてもいない」
「教授ぅ……本当にコレ、着る必要有りますか? 私、もうオバさんですよ。ホント、そろそろキツいんですけど……」
「四捨五入で30になる程度で年寄りぶるんじゃあ無いよ! 君という存在は僕ら秘密兵器なのだから、そんなんじゃ困る。
大体、実年齢が気になるような身体はしてないだろう?」
「でも、これに着替えなくったって能力はちゃんと……」
「ダメだ! 別に、後々になって着なくなることは構わないが、お披露目はその衣装じゃなくちゃあダメなんだ。
"M&V"が無法地帯では無い、一定の秩序とルールがあった象徴! それを見せなければ、我々が『そういうもの』だという説得力にならない!」
(何の話かしら?)
声は余すことなく聞こえてくるが、いまいち要領を掴めない。
どうやら、土壇場になってミズシマが何かを拒んでいるらしいが……やがて折れたのだろう、諦めたように肩を落とし、ペトロの後をついて戻ってくる。
「ほら、着替えたまえ。一瞬で済むのだから、恥ずかしがることでもあるまい」
「うう、そうかも知れませんけどぉ」
早々に壇上にまであげられて、やっと覚悟が決まったのだろう。
ミズシマが虚空に向けてジェスチャーを振ると、彼女の金糸で刺繍された厳かなローブが光に包まれる。
しかし装備がそんなに大事と言うのなら、彼女の元の服とて充分に威厳に満ちた装備だと思うのだが。
「うーん? そういえばあの顔、どっかで見た気がするのよね」
ふと、引っ掛かりを覚えてリッツは呟いた。この世界で、ではない。今は懐かしき、日本にいた頃にだ。
「さぁ見たまえ! これが僕らの秘密兵器!」
なぜかペトロが偉そうにふんぞり返ったのち、一瞬の閃光の後に、彼女が現れた。
フリルがたっぷりとあしらわれた学帽風の帽子に、青を基調とした衣装。金の片眼鏡が鎖を垂らし、知的なイメージを含ませる。
深く切り開かれたスリットは、ああ、なるほど、常に着用する衣装としては少々恥ずかしいであろう。リッツでも躊躇する角度にまで切れ上がっている。
ミズエールだ、と誰かが呟いた。確かに、特徴的なこの衣装なら見まごうまい。"M&V"内のイベントなどでの司会進行の他、かつてチュートリアル島のNPCとしても見た顔であった。
「この世界を管理しているはずだった、GMさまだよ!」
朗々とペトロニウスが誇らしげにする傍ら、当の彼女はスカートのスリット相手に虚しい抵抗を続けながら、顔を赤らめて俯く。
「天使さま?」
わぁ、とも、おぉ、とも言わず。うん、やっぱりと言った空気の流れるアバターたちよりも早く、真っ先に声を上げたのはアビエイルであった。
アバターたちの円の中に割って入り、ミズエールの前に傅くと、深くユピ教の祈りの形を取る。
「天使さまなのですか? その背負われた神眼の"しるし"!」
「あぁ、いや、これはね」
「まぁ落ち着き給え。〈"GM"ミズエール〉が種族として天使なのは確かだがね。
根本的には我々と同じ"アバター"なのにそう変わりはない。ミズシマ君はミズシマ君だよ」
〈天使〉という種族は、"M&V"においては世界を見守る"大いなるもの"の使徒として世界を律する存在である……と、設定されている。
要はプレイアブルでは無く、GMおよびややメタ的な位置に配置されるNPC専用種族と言うわけだ。天使と言いながらも翼が有るわけではなく、代わりに光で編まれた"しるし"を背負っている。
イベント時に、人で混雑してもその所在がひと目で分かるための配慮でもあった。
「そ、そうでしたか。すみません、私、勘違いしてしまって」
普段、生意気な口を利くハリスすらも、ぽかんと口を開いて呆けたようにミズエールが背負う"しるし"を見上げているのだ。
アバターに良く接し、比較的その偏見が少ない二人ですらこうなるのである。日本人の想像以上に、信仰による影響は大きのかもしれないと、ペトロニウスは腕を組む。
「しかし、なんで肝心の君たちが驚かんのかね。つまらんなぁ」
「いやまぁ、名前でなんとなく」
「センセが"M&V"の開発部門とコネあるのは周知の事実でありますし」
「と言うか、去年鍵坂センパイがアポロに就職した時OGとして来てたじゃ無いッスか。分かりますよそりゃ」
「あぁ、そうだっけ?」
いかにもつまらなさそうに唇を尖らせ、髭を擦る。実のところ、リッツは驚いては居るのだが、先にアビエイルが驚いたことで声を上げるタイミングを逃してしまっていた。
『ゲームマスター……? おい、そりゃどういうことだ』
代わりに、クァーティーと同期したアルが口を開く。彼にもまた、コール・クリスタルを通じてこちらの喧騒が聞こえていたのだろう。
苛立ちからか、アルフォースの詰問は普段よりも強い口調であった。それがあの小さなクァーティーの口から発声される様は、どうにも違和感が強いものだ。
『そんなチートがあるなら、どうとでもなるじゃないか。なんでもっと早く言わなかったんだよ』
「どうとでも? そりゃ一体、何をどう出来るんだい?」
『それは……こう、BAN(アクセスさせない対象としてフィルタリングすること)したりとか……』
「そうして、どうなる?」
どうなる? ……はたして、BANされたアバターはどうなるのだろう?
リンクが切れて現実日本に戻れるのなら万々歳だが、それはあまりに楽観視が過ぎよう。
下手したらその瞬間に、傷ついた際に溢れる光の粒子となったまま何処ともわからぬ空間を漂い続けることになるのだろうか。
ふとそんな空想がよぎって、アルはゾッと震え上がった。
「まぁ、そもそも私じゃBAN出来ませんけどね……
悪質ユーザーのLnP割り出してフィルタにかけるコンピューターと、GMユニットとしてC-VRにダイブするコンピューターは別だし」
「そうだろうねぇ。いくらGMと言ったって、この世界じゃ1アバターに過ぎないことに変わりはないよ。
彼女にはさしたる権限も無ければ能力も無い。無敵属性やターゲッティング不可設定くらいはしているかも知れないけどね」
所詮、ミズエールはあくまで運営が保有するの案内・広報用キャラクターに過ぎないのだ。
ゲームの全てを好き勝手にできる権限も無ければ、ましてや"ゲーム"の範疇から外れたこの世界をどうこうできる筈もない。
「ただし、世の中そう考えられる人間ばかりとは限らない……だから彼女は、変装する必要があったのだが」
「……そう、なんですか……。天使さまもあくまで、1アバター……」
「分かってくれた?」
「いえ、アバター様がたがおっしゃられてることは、私には良く理解できませんけれど」
BAN、LnP、コンピューター。それらの専門用語がこの世界の人類であるアビエイルに分かるはずもない。
だが彼女とて、決して頭の回転が悪いわけでは無いのだ。むしろ新しい価値観への順応が早いあたり、かなり柔軟な方である。
「つまり、エリーさんが天使さまの格好をしていると、『飢えた神父がパンの施しをねだられる』ような話になるのでしょうか?」
「うむ、まぁその様な理解でおおむね問題あるまい。神父が無尽蔵にパンを取り出せれば良いのだろうが、生憎とこちらにも施しできるような"解決策"は無くてね」
「はー……難しい話してるや。すげぇなぁ、アビィの癖に」
「癖にって何よ、私だって、街のトラブルを仲裁する役目だってあるんですからね!」
一周遅れてやっと理解が追いついたのであろうハリスが、素直じゃない感心の声を上げた。
育ちこそ漁村の出だが、アビエイルは勉強の成果として、字も書けるし簡単な計算だってできる。
〈白犬騎士団〉の衛視はその仕事上、街の住人同士のトラブルに巻き込まれることも多くある。そんな時、お互いの主張を理解し仲裁する能力は必要とされるのだ。
『ふむ。ですが、自然と"パン"が出てくることを期待させる程度には、GMというのは我々にとって頼もしい存在なんでしょうね』
それはちょうど、アルフォースが「どうとでもなる」と言ったようにだろうか。クァーティーの口から、今度はカミイズキの声が響く。
この街に残るアバターの多くは、何をしていいか分からず腐り続けている状態にある。そこに颯爽と運営側に属するアバターが現れれば、自然と状況を打破してくれることを望まれるであろう。
例え、もはやミズエール自身に何の義理も存在していなくとも、だ。「俺は客なんだから当然だろ」と叫ぶ声は、レイヤー化した電網でもそうそう変わることは無い。
『それに、もう一つの秘密兵器だという理由も分かりましたよ。
イベント運営用の能力しか無いと言うことは、逆に言えばそのための技能ならある、と言うことでしょう?』
緊張を感じさせない、小気味良い声がそのままクァーティーを通じて発せられる。
囮役としては自然体で居るに越したことは無いのだろうが、それにしてもカミイズキは普段と変わらぬ調子であった。
『そう、確か……イベント専用のフィールドには、GMが飛ばして――』
人差し指を軽く立て、いつもの爽やかな笑みを浮かべているのだろうな、と想像できる口調のまま。
彼の発言はぶづり、と"途絶えた"。
「ぃだっ、ぁ……ッ!!」
パーティに入り、あるいは、ギルドクリスタルを所持し。同じレイヤーに重なって居た者は皆、その「ヒヤリとした」感覚を覚えただろう。
特に顕著な反応を見せたのは、「プロクシー」として働いていたクァーティーであった。しきりに喉を抑えてえずきながら、きつく閉じられた瞼の隙間から沸き上がってきた涙をこぼす。
「づぅーッ、ふぅー――……!」
「クァーティー!? 大丈夫、どうしたの!?」
慌てて駆け寄るリッツにも反応を返さず……いや、返せもしないまま、クァーティーは首の辺りを確かめるように触り、歯を食いしばって唸り声を上げる。
それはまるで、自分に首から下があることを確かめるような行為であった。その耳元、リッツは彼女のコール・クリスタルが異常な発光をしているのを視認する。
僅かな躊躇の後に引き剥がしてやると、次第に落ち着いてきたのだろう。クァーティーは荒く息を漏らしながら、涙で潤んだ目を拭った。
「ひっぐ……うぅ、この世界でシンクロしたままだとこうなるのデスね……」
「な、何があったのかね……? カミイズキ君は!?」
クァーティーがどうにか立ち直るのを確認し、突然の事態に固まっていたペトロニウス他ユニオンのメンバーたちも再起動をはたした。
"接続"していたもの全てが感じた違和感。それは途切れたと言うよりも、むしろ「断たれた」とでも言ったほうが近いような感触だ。
まだ完全に、幻痛が引いたわけではないのだろう。クァーティーは首に当てた手を離さぬまま、改めて状況を確認する。
「この感覚が正しければ、首をキレーに一撃デス。……ダメージのフィードバック量からして、即死かと」
「……なんてことだ……」
「ちょ、ちょっと、どうするのよ!? 包囲作戦は?」
作戦では、囮役が〈マイティガード〉を使って時間を稼いでいる内に、別働隊で包囲する予定だったのだ。
それが餌だけ食われてまんまと逃げられたとなれば、カミイズキ、それにアルも心配だが何より"協会"としての面子が立たぬ。
「い、いや、今はそんなこと言ってる時間すら惜しいわ。こうなったら、アタシが先行して――」
「待ちたまえッ!」
敏捷性に優れた自分ならば、どうにか追いつけるかも知れないと、飛び出して行こうとしたリッツをペトロニウスが裂帛の一声でもって呼び止めた。
「何言ってるのよ、グズグズしてたらまんまと……」
「いいから、固まっていろ! なにせ、その方が早い」
早い? 速さなら自分こそが極まっている筈だ、と眉を釣り上げるリッツだが、一々説明する時間も惜しいと判断したのかペトロニウスがそれ以上何か言うことはなかった。
代わりにアビエイルから渡されたという地図を広げ、周囲の人物に素早く指示を飛ばす。
「クァーティー殿、場所は」
「C-6の3から4……あぁ、その路地の辺りデス」
「……なら、ここの交叉点が広いな。ヴァージニア、座標は分かるか」
「Yes。#A8CC4E57をご入力お願いします、マスター・ミズエール」
「はーいっ」
何をしているのだろう、と。声をかけることすら戸惑われるほどに、その流れは素早かった。
リッツの所在なく伸ばされた腕が、竜牙兵の少女に引っぱられる。
「あれは止まらないであります」
彼女たちの一団は、現実日本でもペトロニウスのプレイヤーの研究室に属しているらしい。
どことない諦めと共に信頼を感じられるのは、だからであろうか。固まれと言われ、素直に少しずつお互いの距離を詰めていた。
通信が途切れる直前に、カミイズキが言おうとしていたこと、それは、ゲームマスターにのみ許される『スキル』の話だ。
いまさら言うことでもないが、"M&V"はワールド中の何処に行こうとマップローディングの無い、今どきのゲームである。
だがそんなゲームにも、「イベント時にのみ侵入可能な特別区域」と言うのは存在する。では、普段は移動禁止区間に区切られたその場所に、どうやってプレイヤーたちは移動するのか?
……戦闘には役に立たない、けれどイベント運営には絶対必要なその『スキル』。
たしかにペトロニウスとミズエールのプレイヤーは現実社会での知人同士だが、ペトロが彼女を手元に置いていたのは、何も人情だけの話ではない。
「アビエイル君はすまないが、周囲の〈白犬騎士団〉の人たちに包囲を強めるよう言伝を頼む」
「は、はい!」
「ハリスは……まぁ、危ないから近寄るんじゃないぞ」
「ちぇー、俺だけ雑じゃん」
「ええい、言ってる場合では無いのだ! さぁさぁ君たち、もっと近くに固まりたまえ、寄せ集まりたまえ!
……よし! 良いぞ、ミズシマ君、やってくれ!」
ペトロニウスの号令と共に、ミズエールの背負う"しるし"がより一層輝きを増す。
小柄な身体を振り回す彼の足元を中心に、少しずつ伸びる光の線が魔法陣を編み描く。
「……――『マスターコード:範囲転送』!」
〈ワープポータル〉の失われた"この世界"に、唯一残存するルール外の転送装置は、リッツの視界を光で包み、次第に重力の感覚を失わせた。
……既に、海に姿を映すほど傾いた日に照らされ、赤く染まる船屋の間。
影が差し込む路地を、アルが慌てふためきながら疾駆する。
金属鎧の重さを感じないアバターの身体が、こういう時だけはいやに頼もしく思えた。身体を覆う金属の固まりも、アバターにとってならば大した枷にもならない。
「キュー子、カミイズキ!? おい、大丈夫か、何があった!」
嫌な感触と共に断絶した後のコール・クリスタルは、先程からうんともすんとも反応を返さない。
ギルドチャットから最後に伝わったのは、まるで首を冷たい指でなぞられたが如き嫌な感触と、クァーティーの凄まじい叫び声のみ。
「……くそったれっ、またオレは、何の役にも……」
思えば、この街での活動中はずっとそうだ。
街の住人との交渉、折衝は全てクァーティーが行う。これはまぁ、仕方のないことだと思う。
彼女自身が望んだことでもあるし、アルフォースとて「オレがやる」と手を挙げるほど自信がある訳でも無い。
だからと言って、少々言葉に甘えすぎたのでは無いだろうか。休日だからと気を抜いて、あまりに先日の自分は"立川有栖"であった。
少なくとも、自分が横着しなければ。クァーティーが化身殺しの手にかかることは、無かったはずなのに。
「なに、やってんだよ、オレは……ッ!」
ガチリ、と。刃が痛むのも構わずに、アルフォースは腰に帯びた剣をまるで杖をつくかのように鞘ごと地面に叩きつけた。
情けない。不甲斐ない。そう責めるのは、自分の内なる声だけに過ぎないが。クァーティーと交わした契約は、彼女の支援を受ける代わりに、自分が騎士として戦うことであったはずだ。
だのに、ポッと出の見ず知らずの奴に一番危険で難しい役目を取られかけ。あまつさえ自分は、得意武器である弩を使うことすら禁じられている。
……話が進むごとに、ジリジリ、ジリジリと少年が「自分の立ち位置が無い」ことに焦りを感じるのもやむを得ないことであった。
今だってそうだ。無理矢理、2人目の囮役として話を受けたのにも関わらず、実際に襲われたのはやはりカミイズキの方。
クァーティーたちとて、馬鹿ではない。恐らくは不意打ちで即死したのは想定外ではあるが、同時に想定の範囲内でもある。
彼が居た地点は分かっている以上、即座に連絡を回し包囲網を狭めてゆくだろう。
1PT分の前衛に、魔導師や賢者との混成部隊が十数。"キャラクター"1人に対して、過剰とも言えるほどの戦力だ……その中に、自分が居ないとしても。
「ちくしょう、オレは、〈アルフォース〉は」
生まれ変わったのだ。能力だって、ベヒモスすら倒せるのだから無いはずがない。
なのに、自分の活躍の場が現れない。一度、手を抜いたことですり抜けていってから、ずっと。
働けなければ、自分は。クァーティーたちに必要とされないのに。
「戦わなければ、いけないんだろうが……ッ!」
焦りが、身を焼き続けていた。
目の前に"戦闘"という障害があり、それを打ち破るだけの能力があるからこそ、自分はパーティーに存在する意義がある。
もしここで、仮にクァーティーが否定したとしても、その意識は変わらない。他ならぬアルフォース自身が、自分をそう縛り付けている。
「……いや、全く同感だね」
中性さが売りの声だった。
その瞬間、アルフォースにはまるで、太陽に染みが生まれたかのように見えていた。
聞いたことの有る声だ。いや、この世界でではない。金曜夕方6時半、"ネット"で毎週配信開始されるような声。その、合成音声であった。
「アバターは戦わなければならない。素晴らしい、その通りだ。……君も見たところ、筋は悪く無いんだが」
白仮面、白装束。そのどちらもが、夕暮れの太陽に染められて赤黒いコントラストを浮かべる。
水面の自分と融け合い始めた、太陽という皿に乗せられて、影法師は不吉のように揺らめいていた。
「お前、は」
「今更なこと聞くなよなぁ。あんまり気に入ってないんだ、"化身殺し"とか言う名前。まぁ、理由は後で話すけれど」
笑っている。笑っているのだろう、コントラストがキツくて、よく見えないが。
その余裕が気に入らなくて、アルフォースの額に青筋が浮いた。実際にはそんな機能は無いが、気持ちの問題である。
「なら、なんて呼べって?」
「……うーん……そう言われるとそうだな……」
それにしても、相手との距離がよく分からない。10歩も離れているようでもあれば、既に2、3歩の距離にいるようにも感じられた。
腰に下げた鞘から、ぬるりと刀が解き放たれる。あまりにゆっくりで、それはまるで知人に対する気軽な挨拶のようにさえ見え。
「"刃"。そう、とりあえずはブレードとでも呼んでくれ。昔、友人に貰ったアダ名でね」
この日、この聖都に居るあらゆるアバターにとって、最も長い夜が始まろうとしていた。
次回投稿は6/2日です。




