15
"ユニオン"の長であるペトロニウスは、ダークスーツじみた意匠の〈マジシャン〉服に褐色のネクタイを結び、同じ色の髪をオールバックに固めている。
丁寧に切りそろえられたちょび髭で少し風合いを変えてこそいるが、それが無ければ「七五三」といった感想を抱いてしまいそうな御仁だ。
「さて、自己紹介は必要と認めてくれるだろうね、ヴァージニア?
僕の名は〈ペトロニウス〉……ああ、あちらでは『新星一』の名の方が通りが良いだろう。ペンネームでね。
もっとも今は、大学で教鞭をとらせてもらっている身だが」
「ペンネーム?」
「大学教授? 聞いたこと無いけど」
リッツとアルが顔を見合わせて呟くと、精一杯に張られた肩がしょげて萎んだ気がした。
口元の辺りを指でこすりながら、ペトロニウスと名乗ったアバターは寂しそうに自嘲する。
「そ、そうか……やはりもう、世代が違うんだなぁ……結構有名だったんだが」
「あー……たしか30年くらい前の小説家さんデスよう。
代表作がネットワークを題材にしたタイムリープもので、当時のSFリバイバルブームを巻き起こしたっていう……
あの頃はまだ、ぎりぎりTVでニュースを見てた時代デスかね? 懐かしいもんデス」
「おぉ! そうそう、僕がその『新星一』だよ。そうなんだよねぇ、今どきの子ってもうテレビという名前すら知らなくてさ。
いやぁ、嬉しいなぁ。同世代ですかね? うんうん、若い子ばかりで大変だけどお互い頑張りましょう! ね!」
「は、はははは」
見た目だけは子供の身長な小人族二人がシェイクハンドを握りしめ、上下にと振り回す。
クァーティーが微妙に引きつった笑いを上げているのを、残された二人が微妙な表情で見つめていた。
「なぁ……やっぱキュー子って」
「しっ、レディに歳の話題はマナー違反よ」
眉根を寄せたアルフォースの口を、リッツが手で覆い隠す。
幾つになろうと、レディはレディなのだ。その辺りの機微を理解するのは、思春期真っ盛りの男の子には荷が重いかもしれないが。
当の男子は口元に当たる手の平の柔らかさに困惑してそっぽを向いていた。温かいのである、勘弁してやって欲しい。
「いやぁ、あの頃はまだポスドクで、とにかく仕事が欲しくてねぇ。
とても論文には出来ないが理論的には不可能でも無いんじゃないか、という思いつきをこっそり小説にしてみたのですよ。
若いころにやったゲームからストーリー上のアイデアを拝借して……あぁ、あなたもプレイした経験がおありかな?
エル・プサイ……」
「マスター」
「おぉっと、いかん。ついつい喋りすぎてしまうところだった。
いやぁ、すみませんね。そちらもご用事があって来られたのでしょうに、僕だけが喋っては申し訳ないな」
なんと言うべきか、よく喋る人だ。
ヴァージニアのアシストにより、会話の主導権を譲ってもらえたことに少しホッとしつつ、クァーティーは改めて笑顔を浮かべた。
この手の輩は下手に話を遮っても良い結果にならないことが多い。とは言え、どこかで遮らなければ延々と話し続けるという……ジレンマである。
「いえいえ、良いんデスよう。お気持ちはよく分かりますし、敬語も結構なのデス。
こっちが自己紹介しないままと言うのも座りが悪いデスので……ま、軽く我々の経緯から……」
口を差し挟もうとするペトロニウスをジェスチャーで抑え、クァーティーは事情を語りだす。
かくかくしかじか、そう、まずは彼らが此処に来たる理由から説明が必要だろう。
――その時はまだ、身体中にべりべりと"引き剥がされた"痛みが残っていた。
(あー、死んだなー……)
昨日、化身殺しに襲われたクァーティーが「死に戻り」を果たしたのは、今朝になってであった。
死んだ明朝にあの"次元の穴"から吐き出されるのは、以前に死んだ時と同じである。その、身体に残る感触も。
なぜ死に戻りにだけ時間のラグが生まれるのかは不明だが、多くのアバターには既に「そういう物だ」として受け入れられていた。
とは言え、死んだことは死んだのだ。いや、殺されたと言っても良い。
見舞いに来てくれたリッツは憤懣やるかたないようであったし、〈白犬騎士団〉にも軽く事情聴取を受けた。
彼らの上層部は、やはりそこまで事件に積極的に手を出すつもりは無いようだが、思った以上に民衆に不安が蔓延っていることに対して、現場で働く人員たちは焦りを感じているらしい。
(それも当然デスかねぇ)
死体が残らないとは言え、白昼堂々人間の首がすぽーんと飛ぶ。見慣れない者にとってはさぞインパクトのある光景だろう。
クァーティーとて、思い返せば首のあたりを横一文字に幻痛が奔る。後になってそれを告げたら、見舞いに来たリッツがまた怒った。
それだけでも、三人が"化身殺し"に積極的に関わるようになる理由としては充分なのだが、クァーティーにはもう一つ理由がある。
なんでも、ミルドニアン司教がクァーティーたちに推したい人員が、"化身殺し"問題解決に向けてやや独断気味に動いてるそうなのであった。
『とは言え、可愛らしい方ですよ。アバター様がたへの偏見も少ない』
病み上がりのクァーティーに向かい、笑顔を浮かべて"人員"のプレゼンを行うミルドニアン司教を、大聖堂付き看護係の修道女たちが潤んだ眼で見ていたのがどうも印象に残っている。
当の少女は、最近アバターの集団によく接触しているらしく、同僚たちから変わりものとして見られているようだ。
アバターの集団。クァーティーたちとは別口で〈大聖堂〉に対して働きかけているらしい、"協会"を立ち上げようと言う連中である。
『狗竜車やそれを引く狗竜は、クァーティー様がお預けになったあの"束"で頬を引っ叩いてやれば簡単だったんですけどねぇ。
それを引く人材までは、そうも行かない。命令すれば簡単ですが、アバター様がたは命令で動かすことに不慣れなご様子。
あなた方が我々の心配事を解決してくれるならば、彼女の心残りもまた解消されるでしょう』
その辺りの機微に関しては明確に言葉にはしていないと思ったが、流石に司教はよく分かってると言わざるをえなかった。
クァーティー自身は"化身殺し"に対して、特に復讐心が有るわけではない(いや、流石に不愉快に思うくらいはしているが)とは言え、リッツは怒りに燃えているし、アルは逆にやや気落ちしているようにも見える。
それよりむしろ、クァーティーに取って重要なのは、【ヴァージニア】と言う話の種を真っ先に囲い込んだ者達についてだ。
プレイヤーキャラとなったペトロニウスも気にはかかるし、彼らが恐らく何らかの形で"ネットの更新"に関わっている、と言うことはもっと気にはなるが、あくまで興味の範疇。
知る機会があれば知っておいた方が良いとは思うが、必須ではない。
しかし、「古代都市の復活」という目的において、"人形司書"ヴァージニアの協力は必要不可欠となるだろう。
フレーバーストーリーによれば、"M&V"世界における「古代都市の復活」には彼らの働きによるものが大きい。
その中でも、特にヴァージニアは〈人機〉という種族の性質からか、かつての古代都市で何らかの重要な役割に就いていたことが示唆されているのだ。
(であれば、協力し合える仲になるか、あるいはいつか敵対してでも奪取しなければならないのか……)
出来る限り後者にはなって欲しくないものであるが、見極めない訳にも行くまい。
奇しくも、ヴァージニア、化身殺し、そして〈白犬騎士団〉の少女は1つの事件を中心に纏まっているようだ。
故に化身殺しの捕縛が友誼を結ぶ切っ掛けになるならばと、満場一致で3人組も首を突っ込むこととなったのである――
「……予想以上に、手こずっているようデスね」
大方の事情(クァーティー本人の思惑は兎も角として)を話終え、これまでの調査や聞き込みの資料を流し読みながらクァーティーは呟いた。
「そうよ、あなたたち、あの"化身殺し"のことを追いかけてるんでしょ? もうちょっと何かないの、ガツンとくる情報とか」
「うむぅ。彼奴め太陽も沈まぬ内から堂々と犯行に及ぶ割に、一向に我々の前には姿を現さなくてね」
「デスが、この街にも数千人規模の"アバター"が居るのでは? いくらなんでも、そうそう網から逃れられるものでは無いデスよ」
「……本当に、数千人……いや、その10分の1でもいいから動ければ、そうだろうねぇ。だが、そう上手くも行ってないんだよ」
それが"化身殺し"の最も厄介なところだと、ペトロニウスは語る。
「彼奴には、自身の行いなど他の多くの"アバター"にとって『他人ごと』なのが分かっているのだ。
近所で物取りがあったと報道があれば、犯人を探すより戸締まりを気にするだろう? つまり、その程度の警戒だ」
「うぐ……まぁそっか、アタシだってキュー子が襲われたりしなければ、適当に流してただろうしなぁ……」
「Yes。事実として、多くのアバター様がたは生きていくのに不自由しないだけの資産を既に有しています。
この街に残った方々のうち、"昼の鐘どき"にネットワーク"にアクセスしている率は87%。
多くのアバター様が為すべきことを喪失し、自堕落に過ごしているであろうことが伺えます」
「ふぅん? そういうのまで分かるのデスか?」
「なんてったって、彼女は我が"協会"の看板娘だからね!」
クァーティーはヴァージニアを褒めたつもりなのだが、何故か誇らしげにするのはペトロニウスであった。
そう、ある程度育成されたキャラクターのほとんどは、生活資金と言うにはあまりに膨大な金額を所持している。
不自由にはなったが、娯楽もまったく無いわけではない。その結果、多くのアバターが意欲を喪失した生きる屍になってしまったわけだ。
もちろん、残滓と言うにはあまりに膨大なネットの知識と知恵を借りれば、例えば海産物の養殖や、風車や用水路の改良などといった事業を、手掛けることも不可能では無いだろう。
だが、やらなくとも飢えはしないのだ。それでも「やれる」人間は、異世界になど来なくとも日本で充分に意欲的に活動していたはずである。
「……なんか、ヤダな。そういうの」
夢と未来だけはたっぷりとある多感なお年ごろの少年が、僅かに嫌悪感を滲ませて呟いた。
そうはなりたくないなという気持ちはあるものの、だからと言って現実にどうすればそういった人間が減るかなど、思いつきもしないのだが。
「ああ、分かりますよその気持ち。勿体無いですよねぇ、せっかくこんな面白い世界に来ているのに」
アルの呟きに対する返答は、リッツでもクァーティーでもなく、少々意外なところから返ってくる。
青年が一人、いつの間にやら隣の円卓に腰掛けて、折り目正しくヴァージニアに熱い茶を注いで貰っていた。
「おや、カミイズキ君。帰ってきてたのかね」
「えぇ、今しがた。残念ながら成果はナシのつぶてですけどね」
「そうだろうなぁ、まだいつもの"化身殺し"が出る時間には早い。だからと言って警戒を緩める訳にもいかんが」
背筋のピンと張った、今時珍しいタイプの好青年である。
かと言って堅苦しいわけでもなく、爽やかな笑顔には人に好まれる柔軟さがあった。
カミイズキと呼ばれた彼はそのまま一度会釈をすると、椅子の向きを変えてリッツの対面に座る。
「こんにちは。またお会いしましたね?」
「……あぁ、これはどうも。昨日はお恥ずかしいところを見せて……」
「お知り合いデス?」
「いや、ほら、ちょっとね」
流石に不審者感丸出しのところを目撃されたとは言い出し辛く、リッツは苦笑いでごまかして言いよどんだ。
本人もあまり気にしていないところが有るが、一応年頃の女性なのである。イケメンにも弱い。
まぁ、顔だけで言えば"アバター"はほぼ全員が(あえて外そうとしなければ)平均以上であるのだが、それだけに普段目に見えぬオーラのような物が身についた立ち振る舞いから現れる。その辺り、カミイズキと呼ばれた青年はパーフェクトであった。
ペトロの言い方からすると、警邏にでも出ていたのだろうか。カミイズキはキョロキョロと周囲を見渡すと、首を傾げる。
「あれ? ミズシマさん、今居ないのかな。例の作戦のこと、聞きたかったのに」
「うむ、彼女なら昼食の買い出しにいったよ? 昨日、キッチンに何も無くてジャムとポテトで夜食を取ったのがよほど気に入らなかったらしい」
「Yes。この場合、マスターが腐れ舌なのだと思われます」
芋は確かに色々な調理が可能で、醤油からマヨネーズにまで何にでも合うが……ジャムというのはどうなのだろう。
想像に顔を顰めるのもそこそこに、クァーティーは会話から聞き捨てならない部分を拾い出すと、唇を尖らせて突きつけた。
「例の作戦?」
「うむ……まぁ、要は囮作戦だよ。カミイズキ君は、自らその囮役として志願してくれたのだ」
「ウォーリア系ならば、〈マイティガード〉で時間を稼げますからね。
戦闘役になるとしても、装備もレベルも整っていない僕では足手まといになってしまいますし」
なるほど、確かにウォーリアのOD(1日に1度限り使える)スキル『マイティガード』は、どんなダメージであろうと5分の1にする防御の技だ。
1分間限定とはいえほぼ即死はしなくなるし、囮役として時間を稼ぐには持ってこいと言うわけか。
「ただなぁ……問題は、襲われた後の通信手段なのだ。
パーティを組めばある程度遠くに居ても声を聞き分けることができるのだが、"化身殺し"は1人の相手しか狙わん。
ギルド通話が使えれば早いのだろうが、残念なことに僕らが〈アバターズ協会〉は目をつけられているようでね」
情報公開を最小限に設定しても、所属ギルド名は公開情報の中に含まれてしまう。
「姿を現さない」と言うからには、彼らも頻繁に見回りなりをしているのようだが……その全てがかわされているとなれば、警戒されていると考えて良いだろう。
「……ま、PvP中に端末でメッセージを送る余裕がある奴は居ねぇよな。仮に送れたとしても、動作がバレバレならとっとと逃げられるだけだし」
「性質から考えて、二度も三度も行える作戦では無い。そんなわけで頭を悩ませているのだが……中々いい案が無くてなぁ」
アバターからアバターに対する"注視"で分かるのは、ニックネームにパーティ・ギルド名、公開していればLvに装備だ。
今の時勢、ゲーム内で表示されるニックネームは比較的簡単に変えられるし、逆に変更のできないユーザーネームは個人情報と同様に扱われる。
接続者のLnPアドレスさえ分かれば、企業や行政側から個人を特定するのは簡単なので、ニックネームは呼び名としての意味を果たして居ればそれで良かったわけだが……こうなってしまうと、全てが裏目裏目に働いていた。
「それは良いデスけど、捕縛する目処はついてるんデスか? 話によると、めちゃ強い相手らしいデスが」
「"化身殺し"とやらは、今までLv96を超えたGvプレイヤーすらも綺麗に一撃でたたっ斬っているらしいな。
竜牙兵でそんな桁違いのダメージを出せるのは、恐らく『グランド・スラム』かなぁと思っているのだが……」
「あの『まじんぎり』デス? でもあれ、ソロだとそんな便利に使えるもんじゃ無いデスよ。
状態異常とか、バフデバフとか、そういった要素をちゃんと積み重ねた上で使うからこそ強いのであって」
「何とかしているとしか思えんのだ……まだ見ぬ共犯者が居るか、あるいは、我々がまだ把握していない"システム"の穴にいち早く気付いたのかも知れん。
だがまぁ、相手がそう来るのならこっちにも秘密兵器がある。流石に教える訳にはいかないが、期待してくれたまえ」
"システム"か。あって当然のものとして受け取っているが、謎めいた存在なのは確かであると、クァーティーは唸った。
ゲームのキャラはゲームのシステムに沿って動くのが当たり前。だが、この世界は既にゲームからかけ離れていよう。
ならばそこに、何らかの「不整合」が生まれても確かにおかしくは無い気がする。それがたまたま、悪用できる類であったなら。
秘密兵器と言うからには、ひょっとしたらこの男も裏ワザの一つくらい見つけているのだろうか。そういったことも、頭の隅に留めておく。
「犯人が意図的に、システムのバグを利用して無双しているとなると……要はチートってことだよな」
「じゃ、"化身殺し"の目的って、いち早くチートを使って『オレ最強!』って言い張ること?
なーんか、一気に小物くさくなったわね。そんなのにウチのマスコットがスプラッタにされただなんて……許せないわ」
「マスコット!? リッツさんの中で私そういう扱いなんデス!?」
「さて、どうでしょうね。それなら容易にこちらの挑発にも乗ってくれそうで良いのですが」
大分長いこと"化身殺し"に頭を痛めてきたのだろう。カミイズキが長いため息を吐き、腕を組む。
実際、仮に犯人がそのような性格をしていたならば、もう少し早く事態を解決することは出来たのではないだろうか。
少なくとも、ある程度は知恵も働かせられる。子供じみた執念だけではない。本質は変わらないかも知れないが、恐らくそれだけでは無いのだ。
「……クァーティー様は、何か思いつきませんでしょうか?
どうやら、この場に居る人物の中では唯一、直接相対した経験がおありのようですが」
「そう言われましてもデスねぇ……」
ヴァージニアに促され、言い淀むクァーティーの頭頂部で反り返った触角も心なしかしんなりとする。
思い出すにしても、ちょっと振り返ったらいつの間にか首をバッサリだ。これでは経験もクソも無いだろう。
だが、それでも何かが参考になればと掻い摘んで説明しようとした時、ホールの正面扉から少年の絶叫声が上がった。
「あー! あんたら、何で居るんだよぉ」
「ほ?」
カン高い叫びに気を取られ、クァーティーは腰を回して振り返る。
鹿の耳が生えた〈夜人族〉の少年は、古ぼけた木の扉から一直線にクァーティーたちの一団を指さしていた。
「あ、アイツ……」
見覚えが有るらしいアルフォースが、どうにも苦手としているようで険しく眉根を寄せる。
少年は人と荷物で窮屈なホールを物ともせずに三人へ駆け寄ると、ぐわりとした勢いで顔を近づけ避難の眼差しを送った。
「せっかく俺が情報を売りつける気だったのに。そっちから出歩いて来られちゃ商売上がったりじゃないか、まったく」
「……誰デス? このガキ」
頬をひくつかせたクァーティーが、件の〈夜人族〉の少年にガンを付け返す。
するといきなり、慌てて伸びた手が彼の襟首を取っ掴んで後方に引いた。
「こらっ、ハリス! なにやってるのよ、いきなり失礼なこと言い出して!」
唐突な衝撃に顎を揺らした少年の脳天めがけ、ごちん、と振り下ろされた拳骨が良い音を鳴らした。
勢い良く音が鳴った頭をさすり、彼は目に涙を滲ませて拳を振り下ろした相手を見上げ。
「いちち……なにするんだよぉ、アビィ」
「こっちの台詞よ! ほら、エリーさんのお手伝いしてきなさい。お昼、ご馳走になるんでしょう?」
「ちぇっ、分かったよ。兄ちゃんたち、後で話を聞かせてくれな」
それだけ言い残すと、少年はまた小器用に人の間を縫い風のように吹き抜けていった。
その先ではもう一人――エリーさん、と呼ばれた相手だろうか――黒い髪の女アバターが足元に買い込んできた食料と思わしき荷物を広げ、周囲のアバターたちを呼び集めていた。
呆気にとられるクァーティーたちの目の前で、焦った様子で息を整える少女の清潔感のある薄桃の髪が、呼吸に合わせてかすかに揺れる。僅かに突き出た牛の角と暖色系の瞳が、彼女もまた〈夜人族〉だと示す証拠だ。
「ご、ごめんなさい、アバター様。初めましてなのに、いきなり……」
「あぁ、いや、構わないデスが……ふむ。
その胸印に描かれた翼を生やした犬のシンボル、もしやアナタがアビエイル=クウェイリィさんで?」
振り向いた彼女の姿は、過ごしやすい服装でこそ有るが、ゆったりと胸部を覆うソフトレザーに焼き込まれた印はたしか〈白犬騎士団〉の物だったはずだ。豊かな肉に伸され、僅かに皺が広がっている。
年は16から17と言ったところか。ミルドニアン司教から聞かされた姿とは一致しているが、まさかこれ程までに若い相手とは。
対する少女はぱちくりと目を瞬くと、大慌てで姿勢を正して敬礼の姿勢を取った。
「は、はい! 〈白犬騎士団〉従士、アビエイル=クウェイリィ炊班兵であります!
あの、どうして私の名前……あ、ひょっとしてペトロさんたちから聞きました?」
顔に困惑の色を浮かべるアビエイルを遠慮無く観察しつつ、クァーティーは唇を尖らせる。
やや他人行儀なのは初対面なのだから当たり前だとして、礼儀正しいのは、まぁプラス。その後すぐに雰囲気が砕けたのも合わせて、常にカチコチで一緒にいるのが疲れるような軍人タイプと言うわけでも無いのだろう。
階級を聞くには、ただの下っ端か。まぁ、順当に居なくなっても大きく支障の無い範疇で選んできたと言うことだ。
それに関してはこれでいい。仮に能力が最高だとしても、変に要人に来られてしまっては、こっちとしても扱いに困る。
肝心の能力の方は分からないが、そこはミルドニアンの目を信用するしかあるまい。そもそも騎手としての振る舞いなど、クァーティーにだって分からないのだ。
最低限、炊飯兵と言うからには野外で基本的な飯炊きくらいはできるはず、と考えても……
「ふむ、とりあえずは合格デスかね」
「はい?」
「と言っても、現状フラれてるのはこっちらしいデスけどねー。
ああ、あなたの名前を出したのはミルドニアン司教デスよ。お話、有りませんでした?」
「司教様? ……えっ、えっ、じゃあ……」
どういう縁で名前が知られているのか、頭の中でも思い当たったのだろう。
目を白黒とさせるアビィに向かって、クァーティーは手を合わせるように突き出した。
「一応、私自身の口から直接聞いておかないと気が済まないのでして。
いかがデスか、お嬢さん。我々とまだ見ぬ世界を巡るつもりはありませんか?」




