偶然捕まえたあの人は味噌汁の味がした。
今回はのほほんコメディで勝負でございます。特にけったいな設定や複雑な構成などはなく、簡単にさらっと読めてしまうようなものを目指しました。良くも悪くもライトなものになっているかと思われます。悪いライトはなるべく消していきたいんですけどね!
まえがきと言っても何を書けばいいのかいまいちわかってないのです。ある程度の紹介したらなんでもいいよね。
ではでは、いつもより少し長くなってしまった私めの短編小説をよろしくお願いいたします。
私が異変を感じたのは保育園児の頃だった。
当時の私はわんぱく小僧(小娘?)と言うにふさわしいやんちゃぶりで、誰とでも友達になれたし、誰とでも仲が良かった。そして友達と一緒に園内にある砂場で遊んでいた時、鬼ごっこをしていた別の園児とぶつかったのが理由だ。
ぶつかった際、相手の歯が私の手の甲に当たって軽い裂傷を負ってしまった。物心ついてから初めての怪我で、痛くて、大声で泣いた。駆けつけてきた先生が優しく慰めながら、
「どこを怪我したの?」
と、聞いてきたから、手の甲を見せた。すると、先生はぴたりと動きを止めて、怪訝そうに首を傾げていた。その様子がどういうわけか気になって私も自分の手の甲を見た。
ぱっくりと開いた一センチにも満たない傷。そこから、とくとくと粘土色の汁が溢れていた。それは水のように滑らかで、ほんの少し濁りがあって、お腹がすくような香ばしい匂いがした。
――味噌汁だ。
園児ながらそう確信した。私の手から、赤味噌で恐らくかつおだしの味噌汁が垂れている。呆気にとられる先生と味噌汁と涙を一緒に流す私。味噌汁の香りに釣られてか近所の野良猫たちが寄ってきて、園児たちの餌食となった。
その後は、想像に難くないだろう。
結論から言えばいじめられた。
「おまえのおしっこおふくろの味ー!」と何度言われたことか。
「あいつとちゅーすると味噌汁がうつるぞ!」とかも言われた。
中学校に上がって好きな人に告白しても、
「俺、パン食なんだ……ごめん」
などとフラれる始末。別に朝味噌汁を出したくて告白してるんじゃねえよ。
母親には「そんな体に産んでしまってごめんね」と泣かれ。泣きたいのはこっちなのに、母親に泣かれると泣いていいのかどうかさえわかんなくなって。
結果、中学を卒業して遠い高校へ行くことでいじめはなくなった。もちろん、私の血が味噌汁なのは一部の先生しか知らない。血が味噌汁である性質上、怪我をすると味噌汁が固まらずに流れ続けてしまうからだ。ちなみに血小板以外の成分は味噌汁の中に含まれる塩分や様々なダシが代わりを果たしているらしく、生きていく上で問題はないそう。
しかし、怪我をした時に血なら固まるが味噌汁はいくら空気に触れようが冷めようが味噌汁以上の何物でもない。その上足りなくなった血、いや味噌汁は輸血、もとい輸味噌汁をしなければならず、病院に行って専用の輸味噌汁パックが必要になる。
だから、私は味噌汁が嫌いだ。好きになれるはずもない。私が怪我をしたあの日から、我が家の食卓から味噌汁は消えた。お母さんの味噌汁が好きだったお父さんは、いつも不機嫌そうに味気のないお吸い物をすすっていた。
誰かが悪いわけじゃないってわかってるのに、私は私の血が味噌汁という理由でいじめてきた元友達たち、「ごめんね」と謝りながら泣くお母さん、不機嫌そうにお吸い物を啜るお父さん、輸味噌汁をする先生、そして味噌汁。
そのすべてが、大嫌いだ。
*
高校に上がってさえしまえば、私のことを知らない人たちからすれば私はただの大人しい女生徒に過ぎない。自分で大人しいと言ってしまえば世話ないのだが、味噌汁の件もあってなるべく友達は作らないようにした。あとで痛い目を見るのは私なのだ。
夕方のHRを終え、楽しくおしゃべりするクラスの女子たちを避けるように教室を出る。学校にいると息が詰まって、ひどく疲れる。だから必要以上に留まらずさっさと帰るようにしている。しかし廊下に出たところで、偶然他のクラスの女子とぶつかりそうになってしまった。
「あ、藤崎さん。もう帰るの?」
「うん。じゃあね」
明るく話しかけてきてくれたおさげの子の脇を通り抜け、振り向かず足早に立ち去る。後ろを見なくても、他の女子たちが「なにあれ」「感じ悪……」と視線を向けているのがわかった。
朱色に染まる校門を出て、街中の大通りに出る。大きく開いた道路の脇にはぎゅうぎゅうと窮屈そうに飲食店や居酒屋が詰め込まれていて、これから増えてくる客に備えるように従業員が動き回っている。空が真っ赤なこの時間は、私たちみたいな学生や社会人が多い。よって、大通りはいつもどおりの喧騒に満たされている。
「あのー! すみませーん!」
そして突然、私はその喧騒に話しかけられた。
人ごみの中からふらりと現れたその人は、私を見るなりまっすぐ前方から走ってくる。全身黒ずくめのスーツを纏い、目元には丸いサングラス。しかし私より頭ひとつほど高い身長を持つその人は、そんな怪しい格好でなければ誰もが振り返るほどの美人だった。
藍、だろうか。夕焼けで黒く見えるが、その人の髪は深海のような深い青をしていた。それを腰まで伸ばし、黒いスーツという一見堅苦しい服装にラッピングされた体は外から見てもわかるほど豊満だ。ぴったりと体を締め付けるような服装のせいか、私の手などでは到底収まらないであろう胸は今にも弾けそうなほど固い布生地を押し上げ、しかし腰はモデルのようにキュッと締まっている。
「私に、なにか」
目の前で立ち止まったスーツのお姉さんを見上げ、そう問いかける。サングラスの中は見えないが、口元は柔らかく笑っていた。
「今ですねー、実は献血してくれる人を募集してるんですよー」
「献、血」
はい! と元気よく、営業スマイルで返事をするお姉さん。なるほど、献血の募集のためにこのお姉さんを雇ったのならば十分に効果的だ。私が男だったらの話だが。
いや、味噌汁じゃなかったら、かな。
「すみませんが、献血は」
「ああ、ああいいんですよー。でしたら、こちらに名前を頂いてもよろしいでしょうかー」
そう言って渡されたのは、一枚のバインダー。何枚か紙が挟まれていて、その一番上には名前を書くリストのようなものがある。
「献血にご協力いただけなかった方も数えてこいって言われまして。住所とかはいいので、名前だけお願いしてもいいですかー?」
「それなら、まあ」
献血も大変だ。私はお姉さんからバインダーを受け取り、まだ誰の名前もないリストに『藤崎 愛梨』とサインする。そしてバインダーをお姉さんに返そうとしたところで、
「実はですねー、それ献血をご希望されてる方のプロフィールも一緒に挟んであるんですよー。もし該当される方が身近にいらっしゃったら、そのプロフィールを渡していただけると助かりますー」
「プロフィール?」
突っ返しかけたバインダーを手元に戻し、私の名前だけのリストを裏返す。すると確かに、履歴書にも似た顔写真付きのプロフィールが挟まれていた。見るからに貧血気味の男。気難しそうなおばさん。それらすべてに、好みの血液型や血糖値など……好みってなんだ?
なんだかよくわからないプロフィールをもう一枚めくる。すると次に現れた写真は、見たことのある顔だった。空みたいに澄んだ青い瞳と、整った目鼻立ちの美人さんだ。外国人のように見えるその顔立ちは、まさしく、今目の前にいるお姉さんで。
「え、っと」
そろり、と下からお姉さんの顔を覗き込む。お姉さんはニコニコと笑ったまま何も言わない。私はなんだか強迫されているようにお姉さんのプロフィールに目を通す。そこには、
『名前・カルミラ』
『好きな血液型・あなた』
ぞくっ、と。背筋に氷柱を突っ込まれたような感覚がした。
「ご契約、誠にありがとうございまーす!」
お姉さんは私からバインダーを奪い取り、バッと空中へ放り投げる。その瞬間、宙に舞った紙たちが凍りついたように空中で静止し、それどころか周囲の通行人や車、いや私の体さえ、指一本動かせなくなっている!
「先ほどサインを頂いた誓約書に則って、フジサキアイリ様は私の気が済むまで無償で血液を提供することが義務付けられます! いやー、助かった助かった。もー中々相性のいい血を持ってる人が見つかんなくてさ、干からびるとこだったよー。じゃ、魔法が切れる前にあっち行こっか!」
サングラスを投げ捨て、満面の笑みで石のように固まった私を引きずっていくお姉さん。誓約書って、てか魔法って、どういうこと!?
お姉さんは私を人目のつかない路地裏へ連れ込み、豊かな体で押さえつけるようにして私を壁に拘束する。どっちにせよ体は動かせないというのに手首まで押さえつけてきて、生ぬるい吐息がかかるほどまで近づいた口元には、針のように鋭い牙が覗いていた。
「お姉さん、何者……?」
あ、口は動く。
「何者って、吸血鬼よ、きゅーけつき。知ってるでしょ?」
妖艶に目元を細め、体をすり寄せてくる。私より少し体温が低いのか、ひんやりしたお姉さんの体に包まれるようにして、私は抱きすくめられた。股の間に膝を差し込まれ、白い指がうなじを撫でる。
「ま、とりあえず一発、ヌイとく?」
ちろりと首筋を舐められた直後、針に刺されたような鋭い痛みが走る。しかし痛みは一瞬だけで、そこから先はスー……と私の体から抜き取られていく感覚だけが残った。その感覚は眠気にも似ていて、お姉さんの柔らかな肢体に包まれながらまどろみのような心地よさに身を委ねていると……不意に、すとんと地面に落とされた。
「――うん。粘り気もなくさらりとした口触りに、しつこ過ぎない質素な味わい。味も濃すぎず、薄すぎず、適度な塩気があり――」
うんうん、と顎に手を当てて真剣な顔で感想を述べるお姉さん。そして真剣な顔のまま。
「――味噌汁だ、これ」
「味噌汁だよ」
――……。
水を打ったような、静寂。目と目が合う、この瞬間。
「しょっぱぁ!」
ぶふぉあ、とお姉さんが噴き出した。
「しょっぱ、しょっぱい! あれ? あたし血を飲んだんだよね? 血を飲んだつもりだったよね!?」
「血を飲んだつもりならそうなんじゃない? お姉さんの中では」
「味噌汁だったよ紛れもなく疑いようもなくまるっきり味噌の味だったよ! なんで!?」
「私が聞きたい」
「あたしも聞きたいよ!」
ッパーン! と胸ポケットにぶら下がっていたペンを地面に叩きつけるお姉さん。余程ショックだったらしい。私はその間に魔法とやらが解けていたようで、多少の倦怠感を除けば体は動くようになっていた。
「おお……おおお……まさか、まさかだったわ……まさかこんなところで、ジャパニーズ・オフクロノ=アジを知ることになるなんて……」
「水、飲む?」
「ありがと……でも吸血鬼に水はダメなんだ……」
四つん這いになってうずくまるお姉さんの背中をさすり、慰める。
「てか、君――アイリだっけ。吸血鬼っつったのに驚かないの?」
「いや、血の代わりに味噌汁が流れてる人間がいるんだから、吸血鬼ぐらい不思議じゃないかなって」
「ああ、そう……」
吸血鬼に変な目で見られた。誠に心外だ。
*
その後。お姉さんは特にそれ以上の危害を加えてこなさそうだったので、放置して帰宅した。誓約書うんぬんとか言ってたけど、完全に詐欺だし、その結果が味噌汁だったんだからもう追っては来ないだろう。
「おかえり、アイ」
と思っていただけでした。
玄関の側にある階段を上り、部屋の扉を開けた途端に私のベッドに腰掛けるお姉さんが一人。何食わぬ顔でスーツのまま居座っているお姉さんを見た瞬間、思わず部屋の扉を思い切り閉めてしまった。
そろー、と今度はゆっくり、扉を開ける。
「おかえり、アイリ」
「ただいま」
見間違いではなかった。
「まだ私に何か用が?」
「さっきも思ったけどあんた心臓に毛でも生えてんの?」
お姉さん――カルミラと言ったか。カルミラを確認した上で、鞄を机の上に置く。カルミラはじっとりとした視線で私を見つめてくるが、何かをしてくる気配はない。吸血鬼と言えど本当に血を頂くだけで、命まで取る気はないらしい。
「誓約書」
不意に、カルミラが口を開く。
「あたしの気が済むまで、あんたの血を無償で頂く。そういう誓約だから。しばらくはあんたに付きまとわせてもらうよ」
「味噌汁だけど、いいの?」
「よくねーっつの。でも仕方ないじゃん、今のところあんたしかあたしの好みに合わないんだもん」
好み、か。献血のプロフィールにもあったけれど、今思えばあれは全員吸血鬼なのかもしれないとふと思う。カルミラが言うには吸血鬼にも好き嫌いはあるらしく、合わない血はとことん合わず甘いチョコレートから泥水までの差があると言う。
で、今のところ、好き嫌いの激しいカルミラの好みに合ったのが私だけだったようだ。
「でも味噌汁だよ?」
「知ってるよ!」
ばふっ、と半分涙目で布団を叩くカルミラ。
「いい? 吸血鬼は確かに血は吸うけど、要としてるのはその人間の精力なの。精力が宿り易い血を吸うことでエネルギーを補充してるだけ。その精力が、あんたしかあたしの肌に合わないってわけ」
「じゃあ別に味噌汁でもいいんじゃん」
「あのさぁ……」
と、カルミラが引きつった笑みを浮かべる。
「百キロ耐久マラソンで、給水所にスポーツドリンクや水じゃなくて味噌汁が置いてあったら、どうよ? 砂漠で散々迷った挙句、やっと見つけたオアシスが味噌汁だったら、どうよ!?」
「なんとなくわかった。ごめんね」
つまり必要としてるのは水分で間違いないんだけど、確かに水分なんだけど、重い。そう言いたいようだ。確かに運動の最中、水でなく味噌汁を渡されれば誰だって怒る。
「でも、そもそもはカルミラが私を騙したのが原因だよね」
「うぐっ」
「それで怒られてもお門違いも甚だしいとしか」
「うぐうっ」
鋭利な槍で突かれたようにカルミラが仰け反り、ぼふっとベッドに倒れこむ。その際に深海のような深い青の髪が散らばって、思わず綺麗だなあと思ってしまった。
「もーやだぁー! 普通の血が飲みたいよぉー……うええええん……」
枕に顔を押し付け、足をばたつかせて泣きじゃくるカルミラ。そんな駄々を捏ねられてもこっちは被害者だし、私だって……好きで体に味噌汁を流してるわけじゃないのに。
いらいらする。またこの味噌汁のせいだ。また、味噌汁のせいでこんな目に……私は何も、悪いこと、してないのに。
「だったら、私が死ぬまで精力吸っちゃえば? 精力さえ取り込めば味噌汁なんて吐き出せばいいし、それだけ備蓄があれば好みの人も干からびる前に見つかるよ」
つい、そんな言葉が口をついて出てしまった。いっそ死んでしまえば味噌汁に苦しめられることも、誰かからいじめられることもないから、死んでしまおうと思ったこともあった。それでも死ななかったのは、私が死んだらきっとそこらじゅう味噌汁まみれになるから、それを片付ける人や家族に悪いなあという気持ちだった。
だから、私の体に流れる味噌汁をすべて抜き取ってくれるのならそれに越したことはない。そう思った。だけど、カルミラは。
「あ……いや、ごめん」
ばつが悪そうに頬を掻いて、素直に謝ってきた。
「そうだよね、別に望んで血が味噌汁になってるんじゃないんだもんね。色々苦労してるかもしんないし……なんか、無神経なこと言ってごめん」
苦笑いで、視線を斜め下に泳がせながら謝る吸血鬼。何故だろう、吸血鬼のくせにさらっと『ごめん』が言えるほどいい子なのは。まるでムキになった私が悪いみたいじゃないか。
「……いいよ、私も口が悪かったから。ごめん」
続けて、私も謝る。『まるで』じゃなくて、これは本当に余計なことを言った私が悪かった。カルミラもまあ詐欺ったのは悪いにしても吸血鬼は吸血鬼なりに苦労してるのかもしれない。結局、お互い様なのだ。
「……ていうかさ、今更だけどどうやって私の部屋に入ってきたの?」
「吸血鬼ですから。日光がキツい時とか、物理的な壁をすり抜ける時には血霧やコウモリになって移動できるんだよ。ほらっ」
得意げに人差し指を立てて喋っていたカルミラが一瞬にして姿を消す。消える、というか霧散したようで、確かに赤っぽい霧がベッドの上に漂っていた。
「ほんとだ。なんかその霧、味噌臭い」
「あんたのせいだよ?」
*
後日。学校とバイトを終え、自室に戻ってきた私は、いつの間にか勝手に居候し始めた吸血鬼から吸血、もとい吸味噌汁をされていた。
「ん……は……っ」
帰ってくるなりベッドに押し倒され、覆いかぶさるようにして四肢を拘束してきたカルミラを振り払う暇もなく、首筋に牙を突き立てられる。最初の頃のような痛みはなく、ただ頭の中がとろとろに蕩けていくような甘い眠気と密着するカルミラの体温だけを感じる。全身の筋肉が弛緩し始めた頃合いで食事が終わったのか、首から針が抜かれる感触と共にカルミラの体が離れていった。
「んー、慣れればぼちぼちかな。ごちそーさま」
ぺろ、と肉厚の唇を舌で舐めてニヤッと笑う吸血鬼。今更だが、この吸血鬼は見た目よりずっと子どもらしい。体だけは立派過ぎるほど育っているのに言動や態度は子どものそれだ。まあ、その体は男を捕まえることに関しては凶悪な兵器と変わらないから、生態上頭より先に体だけ育ったと思っておこう。
噛み付かれた首筋をさすりながら立ち上がる。不思議と、噛み付かれた箇所からの出血もとい出味噌汁はない。唾液に止血効果でもあるんだろうか。
「……ねえカルミラ。思ったんだけど、カルミラの好みの人が少ないならなんでその人にずっと取り憑かないの? 私の前にもいたんでしょ? 好みの人」
「ん? ああ、あたし平たく言えばサイコパスの血しかダメだから」
ぽろっと、何気ない顔でそう言い放つカルミラ。その顔は「なんでそんな当たり前のこと聞くの?」と言わんばかりにきょとんとしている。
「人間としては問題ある奴の血しか飲めないからさー、苦労して見つけても命懸けなんだよねー。仲良くなっても自殺されたり殺されそうになったり、失踪したり逮捕されたり。幸い、取り込んだ血を完全に消化するのは一週間かかるからすぐには餓死しないけど、安定しないったらないね」
肩をすくめ、やれやれとかぶりを振る。それは自分の境遇に言っているのか、そのサイコパシーな人たちに言っているのか。だがそんなことよりも先に、確かめたいことがひとつ。
「サイコパスって、私も?」
「当たり前じゃん。吸血鬼に遭遇して、魔法も目の当たりにして、吸血もされたってのにあたし放置して帰るし、取り憑かれたってのに平然としてるし、吸血されても尚涼しい顔してるし。図太いってレベルじゃねーよ」
不感症か、と最後に付け加えて可哀想な眼差しを向けられる。まさか吸血鬼に人としての神経を問われて貶されるとは今までに考えたこともなかったことだ。まあ、別にいいけど。
私はそれ以上の興味をなくし、机に座って課題を広げる。邪魔するなよと背中だけで語って課題に取り掛かろうとしたその時、無視できないことをカルミラは口にした。
「ただ、味は好きかな。最初はびっくりしたけど」
ノートに頭をつけたばかりのペンが止まる。カルミラの言葉が頭の中を何度も往復して、不意の出来事に停止した思考は勝手に私の口を動かしていた。
「味って、私の?」
うん、とカルミラ。
「血じゃないのは確かに欠点だけどね。ま、味噌汁だってわかってりゃ、たまにはこんなのも悪くないって思えるし。それに精力は別としても、あたしは好きだな、この味」
「味噌汁なのに?」
「あたし和食もイケる口だから」
それは、まあ、グルメな吸血鬼もいたものだ。だけど今はそんなどうでもいいことより、カルミラに言われたことが頭から離れなかった。
好き、だと。私の味噌汁が。今まで一度も言われなかったし、言われようがなかった。何よりも大嫌いで、私の人生をたかが赤味噌ごときに台無しにされた元凶を、好きだと。
「あんたはさあ」
ぼーっと考え事をしている私にカルミラが言葉を続ける。すっかり定位置になったベッドの上に腰掛け、すらりと組んだ足に頬杖をついて退屈そうに私に視線を送っている。
「どーっでもいいって顔してるんだよ。周りも、自分もどうなろうがどうでもいいって思ってる。図太いんじゃないんだ。そんなんじゃほんとーにツマンナイ人生送っちゃうよ?」
「……なんで、そんなこと吸血鬼に言われなくちゃならないの」
「精力は気力だよ。せっかく見つけたのに早々に死なれちゃ困るし、気力が上がれば味も上がるのよ。……っま、そんな話だから、いつまでも死んだ顔で繰り返しの毎日送ってないで、何か新しいことでも始めてみたら? あたしのためにも!」
結局は自分のためか。ふくよかな胸の前でガッツポーズを取り、キラキラと期待に満ちた眼差しを向けてくる。精力うんぬんは置いといて、確かに、新しいことを始めるのは悪くないのかもしれない、が。
「……えと、何?」
じっ、とカルミラを見つめていると、不思議に思われたのか明るい表情のまま私の顔を窺ってくる。
「……うん、まあ……うん」
悪くない。新しいことを始めるというのは、悪くない、と、思う。だけどそれをカルミラに直接言葉にすることはせず、密かに胸にしまった。だって単なる興味でもあるからだ。
今の状態での味噌汁が好きだと言うのなら、その気力とやらが上がった味噌汁は、カルミラにどんな反応をさせるのだろうと。
*
新しいこと、というのはなんでも良かった。だからすぐにそれは見つかった。
「お父さん」
夕食時。炊きたてご飯に秋刀魚、ほうれん草の和え物にお吸い物が並ぶテーブルを私と、父と母が囲んでいる。もちろんカルミラは両親には内緒なのでここにはいない。お父さんは「なんだ」と不機嫌そうに言って、味気のないお吸い物をすすった。
「ちょっとオーストラリア行ってくる」
「んゴッフ」
半ば噎せ返すようにお吸い物を噴き出すお父さん。デジャヴ。
「おま、お前一体何を言ってるんだ!?」
「いやだからオーストラリア行ってくるって」
「そうじゃねえよ!」
だん! とお吸い物の器をテーブルに置き、声を荒げる。お母さんは呆然とした顔で私を見ているだけで、未だ状況を把握しきれていない様子だ。
「お前、自分の体質を忘れたのか? 海外は日本とは違う。日本なら仮に怪我をしても一家に一杯味噌汁があってもおかしくないが、海外では和食店に行かなければ味噌汁はないんだ! しかもスシ以外の和食店でな!」
「それは違うよお父さん。海外で味噌汁は人気高くて、今じゃスシ・バーや日本食レストランでも味噌は扱ってるし、ラーメン店でも味噌ラーメンがあるんだよ。しかもYO!SUSHIやWASABIとかの味噌汁サーバーだって導入されてる。味噌汁はもう世界的に愛されてる食べ物なんだよ。海外の和食レストラン、しかもスシ・バーには味噌汁がないなんてのは、ただのお父さんの偏見だよ」
「……お前、どうやって調べたんだ」
「マル○メの公式サイトに書いてあった」
しん、と食卓が静まり返る。お母さんは何も言わず、不安げな表情で私とお父さんのやり取りを見守っている。お父さんは困ったように顔を手で覆い、何かを考えているようだ。
「……だが、海外の味噌がお前の体に合わなかったらどうする」
「輸味噌パックをいくつか持っていけばいいんじゃない?」
「学校は。お金だって海外となると安くないんだぞ」
「学校はもうすぐ秋休みだから。お金もアルバイトで稼いだ」
「…………英語は話せないだろう」
「大丈夫。優秀なバイリンガルがいる」
*
「あたしかよ」
事情をカルミラに話した瞬間、ものすごく複雑そうな笑みを浮かべた。
「あたしも色んな人間に取り憑いてきたけど、こんな形であたしを利用したのはあんたが初めてだわ」
「でも、英語話せるでしょ?」
「ルーマニア生まれなんだけど」
「日本語もぺらぺらだし、英語が話せないってことはないよね」
「あんたってもう、もう、もういいや」
諦めたようにがっくりと肩を落とし、大きなため息を吐くカルミラ。諦めたということはついてきてくれると受け取ってもいいのだろう。これで外国人との交流には問題なさそうだ。
「あんたやっぱぶっとんでるわ。わかってたことだけどさ」
半ば恨み言のように呟くカルミラだが、私は別に恨まれるようなことはしていない。だからカルミラからじとっと湿った視線を向けられていても、気にすることはないのだ。
*
オーストラリアと日本の時差は、たったの一時間しかない。そういう意味では、旅行に行きやすいとも言えるだろう。
「ほんとに来ちゃったよ……」
しかし、たとえ秋であろうがオーストラリアの日光は吸血鬼には毒のようで。
「ねえ、日陰行かない? 日陰……」
今はオーストラリアのビクトリア州、メルボルンという街に来ている。オーストラリアと言うと赤い大地の荒野があるというイメージだが、街並みはかなりの都会だった。来る場所を間違えたかと思うほど高い高層ビル郡が並び、私たちが宿泊するホテルもやたら細長い建物だった。
そんな中、ただでさえその背の高いビルで影ができているというのに、街道に面した露店の影を歩く吸血鬼が一人。よほどこの国の日光が嫌いなのか、麦わら帽子を深くかぶり露店で買ったアイスキャンデーをかじっている。アイスはもうとっくに食べ終わっており、未練がましくガジガジと棒をかじっているだけだ。
「私、海行きたい」
「殺す気?」
「夕方なら大丈夫でしょ?」
元から白かった肌を更に青くして、カルミラが半分乞い願うように拒否してくる。だけどせっかくの海外旅行なのだから、色んなところに行かないと損だろう、と押し切って、空が赤く染まる直前に私たちは海岸へと足を運んだ。
初めて見る、オーストラリアの海。それを目の前にした私たちが最初に口にしたのは、
「マンタだ」
と。日本とは比べ物にならないほど広い浅瀬に、マンタが来ていた。二本の角のような頭と、真っ黒な絨毯みたいな体を伸ばした巨大なマンタが浅瀬に浮いている。
「何あれ! 怖っ!」
砂浜からでも見えるマンタに圧倒される私たち。浅瀬にはマンタの他に漁師らしき人がテーブルの上で魚を捌いていて、いらない箇所を海に捨てている。どうやらマンタはそれを食べに来ているようだ。
カルミラが漁師の人に話しかけて行き、私は靴を脱いでマンタに近づいていく。熱くて柔らかい砂を踏んでマンタに近づいてもマンタは逃げようとはせず、私など微生物程度にしか思っていないのかゆったりと浮いているだけだ。自然動物にとって、私が普通ではない味噌汁の血を持ってるとしても、それは些末なことなのかもしれない。
「アイリー、釣具もらったよー」
しばらくマンタを眺めていると、漁師と話していたカルミラが二本の釣竿とバケツを持って戻ってくる。気風のいい漁師なのか、カルミラの美貌が無意識にたぶらかしたのか。まあ、余計なことは考えず、素直に漁師の好意を受け取っておこう。
釣竿を持ち、近くを流れる川に糸を垂らす。その段階で、ヤビーと呼ばれる白いザリガニみたいな生き餌を素手で掴んで針に通していると、カルミラから「あんたほんっと図太い」と言われたが何故だろうか。
釣りの経験はまったくないのだが、こんなもので釣れるのだろうか……と思った矢先、クイ、と手応え。こっちが引きずり込まれそうな力によろめいた私をカルミラが支えてくれ、カルミラの腕力に手伝ってもらいながらリールを巻いていく。
「でかくない? ちょっ、これでかくない!?」と釣りに興奮する吸血鬼。
そして人の顔ほどもある魚影が水面に顔を出したその時、
「やっ――」
ばしゃん、と映画でよく見る横顔が、その魚影を鋭い牙で掠め取っていった。
「うわ!」
「ホギャアアア!」
たまらず驚く私と飛び上がるカルミラ。つい手を離してしまった釣竿は川へと落ちてしまうが、水面はただ波紋を残すのみで何事もなかったかのように静まり返っている。
「サメ、だったね」
「うん、サメだった」
顔を見合わせ、苦笑。大物をサメに横取りされた。オーストラリアにサメがいるのは知っていたが、どうやらサメは川にも上がってこれるらしい。そうこうしている内に日が暮れ始め、私たちは釣具を返してホテルに戻ることにした。
*
東京も顔負けな巨大都市に戻り、ホテルまでの道を歩く。夜のメルボルンは年中クリスマスでもやってるのかと言いたくなるほど明るく、イギリス風の建物の足元を背の高い人々が歩き回っている。
「楽しかったね」
「そう? あたしゃ日に当たり過ぎて疲れたよ……いや楽しかったけどさ」
「吸血鬼って肌焼かないの? 日光じゃなくても、日焼けサロンとか」
「あんたそれ電子レンジに入ってこいって言ってるのと同じだからね?」
どうやら人工的な日光もダメなようだ。光というより紫外線だろうか。
「じゃあ、ホテルに戻ったら精力を補充しなきゃね」
と、そう言った途端、カルミラがきょとんと呆けた顔をする。
「……? 吸血、しないの?」
「え……あ、いや、そりゃするけど、まさか吸血対象からそう言われるとは思ってなくて」
「今日、楽しかったから。精力は気力なんでしょ? 味変わってたり、しないの?」
へあ? と更にカルミラがキテレツなものを見る顔になる。口を開け、訝しげに眉を寄せて覗き込んでくるその表情はまさに「頭大丈夫?」と言いたげな顔だ。
「ぶっとんでるのは承知だったけど、まさかここまでぶっとんでるとはあたし思ってなかったかな……吸血鬼に噛まれたがる人間なんて初めてだよ。あんた、さてはマゾでしょ」
「さあ。サドかマゾかなんてどうでもいいよ」
ま、あたしはいいんだけどさー、と言って、カルミラは両手を頭の後ろに組んで歩く。口では憎まれ口を叩きながらも、その顔はどこか嬉しそうだ。私だって、カルミラに吸われるのは嫌じゃない。というか、むしろ……。
…………やはり、マゾなのか?
「っていうかさ、今更だけど血が味噌汁なのにどうやって生きてるの? ほら、ヘモグロビンとかさ、味噌汁にはないわけじゃん」
「イソフラボンで代用してるんじゃない?」
「マジかよ。大豆すごいな」
「畑の肉だからね――え?」
がん! と車道側から大きな音がした。咄嗟に音のした方向に目を向けると、交差点を横切ろうとした車が衝突したのが見えて。
「え」
車道側を歩くカルミラへと、スリップしながら突っ込んできていた。
ぎゃりぎゃりとタイヤがアスファルトで削れる音がする。カルミラもあまりに突然だったそれに驚いたのか、他人ごとのように自分目掛けて飛びかかってくる鉄塊を眺めている。まあ、吸血鬼だし、車ごときでは死なないのかもしれない。
けれど。
「ひゃ!」
私は咄嗟に、カルミラの襟を掴んで思い切り引っ張った。直後、真っ赤なテールランプが、私の懐に飛び込んでき――
痛みはなかった。気がついたら、空を飛んでいた。目にも止まらない速度で景色が流れているというのに、私の体はなかなか着地をしてくれない。これは、死ぬのかなと、ふと思ったところで。
「っぐ」
固い地面に歓迎された。眼球になんどもフラッシュを焚かれたみたいに色がぼやけ、全身に痺れるような痛みが走る。横になるようにして倒れた私は体を起こそうとして、力が入らず仰向けに倒れた。
ウェイッ、とか、スターップ、と誰かが叫んでいる。動くなって言ってるんだろうか。視線を横に向けると唖然とした通行人が見えて、次に、
「あ、はは……こりゃ、やばい」
今まで見たこともないほどの味噌汁が、歩道に橙色の水たまりを作っていた。
「やばいじゃないよ! 何やってんの!?」
耳鳴りの先から、唯一の日本語が聞こえてくる。地面と平行になった視線をわずかに持ち上げると、驚いてるような、怒っているような何とも言えない顔をしたカルミラが私の側に膝をついていた。
「だって……危なかった、から」
「あんたほんとぶっとんでるよ! 吸血鬼だよ? この世界のどこに、人外をかばう奴がいるかぁっ!」
人外とか、関係ないよ。とは口にできなかった。味噌汁が、喉を逆流してきていたから。
「ねえ、ちょっと、死ぬのとかやめてよ。あたしのせいじゃん。あたしの……」
ごぼっ、と咳をしたら、口から味噌汁が溢れ出した。生暖かい味噌とカツオのにおいが不愉快極まりないが、おかげでなんとか声は出せそうだ。
「ごめんね、カルミラ……」
なんとか、声を絞り出す。カルミラは今にも泣きそうな顔で私の体から流れ出る味噌汁を止めようとしてくれていて、カルミラの両手は既に味噌臭かった。
「味噌汁が、味噌汁が止まんないよ……! どんどん流れて……止まらない……!」
「ごめん……」
「なんで謝るの!? 謝んなくていいから、後でいくらでも謝るから、今そんなこと言わないでよッ!」
「もう、私の味噌汁、飲ませて……あげられない……」
「やめてよッ!!」
半ば悲鳴に近い叫びを上げて、カルミラは私の体を押さえたまま片手で私の鞄を漁る。だけど、鞄に入れていた輸味噌パックは吹っ飛ばされた衝撃で破れてしまって、使い物にならなくなっていた。
「……っ! 誰か! あ、日本語じゃダメだった。っこほん!」
カルミラが咳払いをひとつ。そこから先は英語だったが、なんとか理解できる程度で聞き取れたのは、
『誰か! 誰か味噌汁を持っていませんか! フリーズドライでもいいんです!』
とカルミラ。それに対し、一番近くにいた男性は。
「What the hell are you talking about?(お前は何を言っているんだ)」
言葉は伝わったが本意は伝わっていなかった。そりゃそうだ。
遠くの方でサイレンが聞こえる。救急車が来てくれているようだが、私にとっては何の救いにもならない。だんだんと視界のちらつきが強くなってきて、味噌汁が抜けてきたのか、頭もぼーっとしてきて……。
音すらも遠くなってきた感覚の中、カルミラが顔を近づけているのがかろうじてわかる。しかしそれは私の意識を引っ張り上げるにはあまりにひ弱過ぎて、私は、後頭部から倒れこむように、闇の、中へ、と、
――――……。
*
という夢を見たんだ。と言ったら一体どれだけの人を怒らせることができるだろう。
だが今の私の状態を一言で言えば、それしかなかった。
「ケガ ドコモ ナイ。モウ ダイジョブ」
「あ、はあ……」
カタコトの日本語で喋ってくれる若い男のお医者さんに会釈をする。あのまま意識を失った私は病院に担ぎ込まれた……かと思いきや、駆けつけた救急車が来た時には私は無傷のまま味噌汁まみれになって倒れていたそうな。血ではなく味噌汁が撒き散らされたせいで、周囲の人たちも変ないたずらかコントだと思ったらしく事故以外はさほど話題にならなかったようだ。
「どう考えても無傷なわけないんだけどな……」
車に吹っ飛ばされたのは間違いないので、念のためと救急車で病院に搬送されて検査を受けた。ちなみに私の意識が戻ったのは検査が終わった後で、まったくもって異常はなかったとのこと。血が味噌汁なこと以外。
味噌汁のことは適当に言葉を並べ立てておいたが、私がここまで綺麗に無傷だとするとカルミラが何かをしたとしか思えない。気がかりなのは、水たまりができるほど出血もとい出味噌汁があったのに、貧味噌汁さえ起こらないこと。そして、カルミラが姿を消したことだった。
「あの、私の他にルーマニア人の女の子見ませんでしたか? 一緒にいたはずなんですけど」
「シラナーイ」
試しに聞いてみてもこの通り。助けてくれたのは間違いないはずなのに、どうしていなくなってしまったのか……。
病院を出て事故現場に戻っても、警察が事後処理をしていること以外に変わったことはなく。私の味噌汁もキレイさっぱり掃除され、ここで人が轢かれたことなどなかったかのようだ。無論、カルミラの姿もない。
「……どこ行っちゃったの?」
オーストラリアに来た時みたいな賑やかさを失い、私は一人でホテルに戻った。ホテルに戻ればカルミラがいるんじゃないかと思ったけれど、所詮、それは私の希望に過ぎなくて。
結局誰もいない部屋に戻ってきた私はそのままベッドに倒れこむ。探さなきゃ、と思っているのに体は動いてはくれなくて、夜も遅いことも相まってつい寝てしまった。
そして朝になって目覚めても、あの見た目に反して幼稚な性格で、黙ると死ぬんじゃないかってほどよく喋ってて、意外と自虐的で、私に新しいきっかけを与えてくれて、一緒に歩いて、一緒に遊んで、一緒に笑って、最後に命まで助けてくれて、何より――憎しみしか沸かなかった私の味噌汁を、好きだと言ってくれた吸血鬼は。
「……」
夢のように、私の目の前から消え去ってしまった。
*
帰国した私を迎えたのは、まず両親だった。空港に降りた私の無事を心から喜んでくれて、帰るなり豪勢な食事を用意してくれた。その中に味噌汁はなかった。
そして次に私を迎えたのは。
「手紙?」
「そう、愛梨が帰国する直前にね、海外から手紙が来たの。オーストラリアで友達でもできたのかしら」
食器の片付けをしながら、上機嫌なお母さんが便箋に入った手紙を渡してくる。私はお母さんに一言お礼を言って、すぐに自分の部屋に戻った。そしてよくカルミラがくつろいでいたベッドに腰掛け、封を切る。
『ハイケイ、フジサキアイリさまとかそういうニッポンの礼儀正しい作法とか知らないからてきとーに書くね! この手紙読んでたら無事帰国されたと思いまーす。とりあえずはおかえり! あたしまだオーストラリアだけどね! 事故のことだけど、あの時は本当にありがとうね。車ごときじゃ死なないけど気持ちは嬉しかったです。ごめんなさい。でも自分から飛び出すあんたも悪いと思います。バーカ』
真面目なのかふざけたいのかよくわからないな。
『あんま自分からこういうこと言いたくないけど、心配のないよう伝えときます。あの時は本当に危ない状態だったので、誓約破棄と一緒に(ここだけ消した跡があり、うっすらと「消滅覚悟で」と書いてある)まだ消化しきってない味噌汁を吐き戻しました。これによる副作用や吸血鬼化などの心配はないです』
吐き戻しって……いや……それゲ○じゃないよね……。
『その後はもー死にかけだったんだけどさー、路地裏で行き倒れてたら話しかけてきた奴がこれまたあたしの好みドストライク! かろうじてあたしも一命を取り留めて、今は元気にこの手紙書いてるよ! 今はこっちの男と誓約交わしちゃってるから会いに行けないけど、せめて別れの言葉ぐらい伝えとかなきゃなーって思ってさ。っま! これ読んでたら元気してるってことだよね! そんだけ! んじゃね!』
手紙はそこで終わった。……まあ、大方の謎は解けたのでよしとしておく。元気そうで何よりだが……男か……私より男を取ったか……ふーん……別にいいけど。元々は私の自殺行為が原因だし。
妙にもやっとした気持ちを抱えて、私はベッドに潜り込む。なんだかんだ、カルミラのことは気に入っていた。それだけに手紙が来たことは嬉しかったし、この手紙が別れの手紙であることも、素直に受け止める。騒々しい数日間だったが、まあ、こういうこともあるだろう。
こんな私と味噌汁を好きでいてくれた、ちょっと不思議な友達がいただけだ。その思い出は適度に心に留めておくとしよう――……
*
「宅急便でーす」
家のインターホンが鳴り、元気の良いお兄さんの声が響いてくる。現在、両親は不在。つまり至極面倒ながら私が出なければならない。
玄関に立ち、ドアを開ける。すると背の高いお兄さんが受領印を差し出してきて、「フルネームでお願いします」と言われたそれにサインする。そして胸いっぱいに抱えた大きなダンボールを玄関先に置いて、白猫大和の宅急便は去っていった。
「でかい荷物……」
通販か何かだろうか。このまま玄関に置いていても邪魔なので、開封して中身だけリビングに置いておくことにする。カッターを持ってきた私は丁寧にダンボールの封を切り、ぱかりと蓋を開けると――
「おっ」
死体が、入っていた。真っ青に変色した体を丸く折りたたみ、狭苦しそうにダンボールの中で横たわっている。ただその表情はやけに安らかで、彫刻のように美しい女の顔が……カッと開眼した。
「ぶっはー! 空気! 空気だ! ひゃああああう空気サイコー!」
花瓶でぶん殴った。
頭から水をかぶり、花を脳天に乗せたカルミラを玄関に正座させる。吸血鬼にとって水は硫酸に近い毒らしいが、車ごときでは死なないんだから、多少は我慢してもらおう。
「おかえり」
「……ただいま」
まずはご挨拶。心なしかカルミラの元気がない。
「なんでダンボール入ってたの?」
「驚かそうと思って……でもまさかピッタリ密閉されるとか知らなくて、中で酸欠起こして、わりとマジで死ぬかと思った」
アホだ。というかあれは死ぬかと思ったというより死んだ人間そのものだった。吸血鬼以外ならほぼ死んでいたということか。
「オーストラリアにいたんじゃなかったっけ」
「逃げてきた」
「逃げた?」
「いや、確かにサイコだとはわかってたけど、まさかエリザベートオタクとは思わなくてさ。本気で処女の血で若返ると信じてやがんの。吸血鬼が吸血されるとこだったよ」
あぶねーあぶねーと汗を拭うフリをしてこっそり水を拭うカルミラ。それは災難だった……とかそういうことの前に、え、処女なの?
「それにさー、聞いてよ! あいつったら味噌汁すら作れねーでやんの」
オーストラリア人に無理言って差し上げるな。
「仕方ないからスシバーや和食店で頼んだりしたんだけど、味が違うの。同じ赤だしの味噌汁なのに、あんたの味と違うのよ! 何故か!」
「味噌汁なんてそんなもんだよ。色んな味を楽しめばいいんじゃない?」
「ちっがーう! あたしは、あんたの味噌汁が飲みたいの!」
ビシッとガラス細工みたいな指で差され、思わず身を引いてしまう。私の、って。いや、それは、その。そんな真正面からハッキリと言われたら、なんて言えばいいのか……。
「……っあ、あげないって言ったら? 今までほったくってた罰として」
「ああ、さっきの宅配便のにーちゃんが持っててあんたがサインしたやつ、あれ誓約書だから」
ダンボールからお前が出てきた時点でそんなこったろうと思ったよコノヤロウ。
ハア、と誰もがわかるように嘆息し、肩を落とす。カルミラはうずうずうずずと猫じゃらしを前にした子猫みたいに体をしならせているが、私は右手を前に突き出してそれを拒否した。
「うにゃ? なによ?」
「趣向を変えない? 精力というより、味噌汁が飲みたいんでしょ」
だったら、と私は台所につながる廊下を、親指で指差した。
「作るよ。私に流れてるものと味が一緒かは知らないけどね」
今まで、味噌汁なんて最悪のものだと考えていた。だけど私の友人がそれを、しかも私のを好きだと言ってくれるのなら、そこまで悪いものじゃないような気がしてくる。少なくとも、私を救ってくれた友人を喜ばせられるものなら決して悪いものではないはずだ。
私の友人が好きと言ってくれるなら。
私も、味噌汁のことを好きになれるかもしれない。
「……お父さんも、食べてくれるかな」
「なんか言ったー?」
「なにも」
我が家に味噌汁が復活するのは、きっと遠くない。
別に僕は味噌汁に恨みはありません。好みで言えば白味噌より赤味噌です。白味噌の家庭で育ったので。学校の給食も白味噌でしたし。
本当はもうひとつホラーを書こうかなーと思ってたのですが、気分的にこちらの味噌汁コメディを選びました。けったいな設定はないとまえがきに書きましたが、少しはエッジが効いてるんじゃないかなー、とは思います。思いたい! 満足度としては、イマイチなんですけどね。もう少し無駄なくストーリー展開してのスベらないギャグを学びたいものです。
あ、芋。芋が入ってる味噌汁おいしいですよね。さつまいもよりじゃがいもが入ってると嬉しいです。芋が入ってる味噌汁は白味噌の方がおいしい気がします。どんなにおいしくても、一杯頂ければそれで満足しちゃうのも味噌汁の不思議なところ。僕だけでしょうか。
あとがきって味噌汁トークをする場所でしたっけ。ああ、もっとおいしそうな味噌汁の描写しとけばよかったなあと思いながら、そもそもちゃんとした味噌汁は一ッ度も登場していませんでした。残念。
ともかく、こんなくだらないネタとあとがきを読んでくださって誠にありがとうございました。今回に限らず毎度快く書き合いっこに参加してくださる高沢さん、そして久々に書き合いをした久保さんにも、最大限の感謝を申し上げます。
では、今回はここまでにしておこうと思います。ありがとうございました。