第七章 キャストとゲスト
翌朝、村は深い霧に包まれていた。 視界が悪い。 だが、それは俺たちにとっては好都合だった。 監視カメラの視界が遮られ、ドローンの巡回も制限されるはずだ。
俺は朝食もそこそこに、準備を始めた。 動きやすい服に着替え、懐中電灯、軍手、ロープ、そして護身用の催涙スプレーをバックパックに詰める。 これは取材ではない。潜入工作だ。
「おはようございます、相馬さん」 宿を出ると、島田が立っていた。 心臓が口から飛び出しそうになった。 霧の中からぬっと現れた彼は、相変わらずの笑顔だ。
「……おはようございます、島田さん。早いですね」 「ええ、今日は霧が深いので、お客様の足元が心配でしてね」 島田の視線が、俺のバックパックに向けられる。 「これからどちらへ? 山歩きですか?」
「ええ、ちょっとハイキングに。運動不足解消も兼ねて」 「そうですか。ですが、あまり奥へは行かないでくださいね。この辺りは熊も出ますし……迷子になると、戻ってこれなくなりますから」
「戻ってこれなくなる」という言葉に、独特のアクセントがあった。 単なる遭難への警告ではない。 「余計な場所へ行けば消すぞ」という、暗黙の脅迫だ。
「肝に銘じておきます」 俺は平静を装って答えた。 島田は一礼して道を譲った。 その背中にじっとりとした視線を感じながら、俺は村外れの山道へと向かった。
約束の場所は、神社の裏手にある雑木林だ。 そこに麗子が待っているはずだ。
山道に入り、島田の視界から消えたのを確認してから、俺は走った。 息を切らせて神社の裏手に到着すると、すでに麗子の姿があった。 今日の彼女は、いつもの白いワンピースではない。 黒いパーカーにカーゴパンツ、そして黒いキャップ。 完全に「仕事モード」のハッカーの姿だ。
「遅い。減点1よ」 彼女は腕時計を見ながら言った。 「島田に捕まってたんだ。勘弁してくれ」 「あいつ、鼻が利くからね。……ま、いいわ。行くよ」
彼女が指差した先には、古びた井戸があった。 石組みは苔むし、上には腐りかけた木の蓋がしてある。 権藤の言った通りだ。
「ここから降りるのか?」 「ええ。この下が地下施設の排気ダクトに直結してる。ファンが回ってるけど、今はメンテナンスモードにして停止させてあるわ」 「ハッキング済みってわけか。さすがだな」 「お世辞はいいから、手を動かして」
俺たちは協力して重い木の蓋をずらした。 暗い穴が口を開ける。 底からは、湿った空気と共に、微かな機械油の匂いと、低い駆動音が響いてきた。 それは、地獄の釜の蓋を開けたような感覚だった。
「私が先に行く。あんたはロープを支えて」 麗子は躊躇なく井戸の縁に足をかけた。 「おい、危ないぞ」 「レディファーストでしょ? それに、中のセキュリティを解除できるのは私だけ」
彼女はするするとロープを伝って降りていった。 その度胸には感服するしかない。 数分後、下から合図のライトが点滅した。 俺も後に続く。
井戸の壁面は冷たく、滑りやすかった。 慎重に降りていくと、横穴が見えた。 人が一人やっと通れるほどの太さのダクトだ。 その入り口で、麗子がタブレットを操作していた。
「ここから先は、センサーだらけよ。私の指示通りに動いて」 「了解」
俺たちはダクトの中を這って進んだ。 埃と油の匂いが充満している。 閉所恐怖症なら発狂しそうな狭さだ。 だが、進むにつれて、奇妙な音が聞こえてきた。
ブーン、ブーン、ブーン。 それは、巨大なサーバーファンの音であり、同時に、何千人もの人間が囁いているような、不気味なノイズにも聞こえた。
「……聞こえる?」 麗子が立ち止まる。 「ああ。何の音だ?」 「『シナリオ』の生成音よ。AIが、村人たちの会話、行動、感情を計算し、次の瞬間の演技プランを弾き出してる音」
俺たちはダクトの出口にある格子の隙間から、下を覗き込んだ。 そこには、想像を絶する光景が広がっていた。
巨大な空間。 体育館ほどの広さがある地下ホールに、無数のサーバーラックが並んでいる。 そして、その中央に、巨大な円形のモニターがあり、村の地図が映し出されていた。 地図上には、数百の光の点が動いている。 住民たちだ。 それぞれの点には、ステータスが表示されている。
『佐藤家:ストレス値上昇中・要注意』 『島田:巡回ルート正常』 『相馬:監視対象・レベル4』
「俺たち、完全に管理されてるな……」 俺は呻いた。 「見て、あれ」 麗子が指差す先には、ガラス張りの部屋があった。 その中には、数人の白衣を着た人間と、スーツ姿の男たちが座っている。 運営委員会だ。
彼らはモニターを見ながら、まるでゲームの駒を動かすように、何かを指示している。
「佐藤の精神状態が限界? じゃあ、明日のシナリオで『宝くじ当選』イベントを発生させろ。少しガス抜きさせないと壊れるぞ」 「了解。金額は?」 「十万でいい。それで十分喜ぶ」 「次は権藤老人だ。あいつ、また余計なことをゲストに吹き込んだな」 「そろそろ『退場』か? いや、まだ使える。彼がいると、村のリアリティが増すからな」
彼らの会話は、スピーカーを通じて微かに聞こえてきた。 人間を、感情を持った生き物として扱っていない。 ただのパラメータ、ただの消費材。
「……許せない」 麗子が呟いた。 彼女の手が震えている。 「あいつら、私の人生も、あんな風にパラメータで弄んでたのね」
「麗子、落ち着け。データを抜くのが先だ」 俺は彼女の肩に手を置いた。 「……分かってる」
彼女は深呼吸をし、再びタブレットに向き合った。 「ここからメインシステムに侵入して、村の全記録と、運営の資金の流れ(マネーフロー)、そして『棄民ビジネス』の証拠データをダウンロードする。そうすれば、この村は終わる」
「頼む」
麗子の指が高速で画面を叩く。 プログレスバーが進んでいく。 10%……20%……。
その時だった。 突然、ホール内に赤いパトランプが回転し始めた。 けたたましい警報音が鳴り響く。
『侵入者検知。侵入者検知。エリアC、排気ダクト内』
「バレた!?」 俺は叫んだ。 「罠よ! ハニーポットが仕掛けられてた!」 麗子が顔を上げる。その顔は蒼白だ。
下のホールでは、警備員たちが武器を持って走り回っている。 「そこにいるぞ! 確保しろ!」
「逃げるぞ、麗子!」 「待って! まだデータが……!」 「命がなきゃ意味がない!」
俺は彼女の腕を掴み、来た道を引き返そうとした。 だが、背後からも足音が聞こえる。 挟み撃ちだ。
「……こっちよ!」 麗子はダクトの横にあるメンテナンスハッチを指差した。 「あれはゴミ処理シュートに繋がってる。イチかバチかよ!」
「ゴミ処理……って、ゴミと一緒に捨てられるってことか?」 「捕まって殺されるよりマシでしょ!」
選択の余地はなかった。 俺たちはハッチをこじ開け、暗闇の中へと身を投げた。 長い滑り台のようなシュートを、猛スピードで滑り落ちていく。 絶叫する間もなく、俺たちは村の最も深く、最も暗い場所へと堕ちていった。




