第五章 監視塔の老人
火の見櫓は、村を見下ろす小高い丘の上に立っていた。 鉄骨は錆びつき、赤い塗装は剥げ落ちているが、その高さゆえに異様な存在感を放っている。 その根元に、トタン屋根の粗末な小屋があった。 綺麗にリフォームされた村の他の家々とは対照的な、本物の廃屋のような佇まいだ。
小屋の前に、一人の老人が座っていた。 古びたパイプ椅子に深々と腰掛け、双眼鏡で村の方角をじっと見つめている。 白髪はボサボサで、着ているシャツも薄汚れている。 マニュアルにある「清潔感」とは無縁の姿だ。
俺は足音を忍ばせて近づいたが、老人は振り返りもせずに言った。
「足音がうるさいぞ、若造」
心臓が跳ねた。 距離はまだ十メートル以上ある。 それに、俺はかなり慎重に歩いていたはずだ。
「……耳が良いんですね」 俺は観念して声をかけた。 老人はゆっくりと双眼鏡を下ろし、こちらを向いた。 その顔には、無数の皺が刻まれている。 だが、その目は濁っておらず、鷲のように鋭い眼光を放っていた。
「耳じゃない。気配だ。お前さんのような『嗅ぎ回る鼠』の気配は、風に乗って臭ってくる」 老人はしわがれた声で言った。 敵意はないが、歓迎もしていない。
「相馬と言います。昨日から移住体験に来ていて……」 「嘘をつくな」 老人は俺の言葉を遮った。 「お前の目は、移住者の目じゃない。獲物を探す猟犬の目だ。……それとも、ハイエナか?」
俺は苦笑した。 この村には、俺の演技を見抜く人間が多すぎる。 あるいは、俺の演技が下手すぎるのか。
「ハイエナかもしれませんね。死肉の匂いがしたので」 俺は開き直って答えた。 老人は鼻を鳴らし、面白そうに口元を歪めた。
「正直でよろしい。座れ。茶はないがな」 彼は顎で近くの切り株をしゃくった。 俺は言われた通りに腰を下ろした。
「あんたは、誰なんだ? 他の住民とは違うようだが」 「わしか? わしはただの観客だよ。特等席で、この茶番劇を眺めるだけのな」 老人は再び双眼鏡を目に当てた。
「観客?」 「ああ。あいつらは演じている。運営委員会は演出している。だが、誰かが見ていなければ、劇は成立せん。わしはその『証人』というわけだ」
禅問答のような言い回しだ。 「名前を聞いても?」 「権藤とでも呼べ。本名なんぞ、とっくの昔に忘れた」
権藤は双眼鏡を覗いたまま、ポツリと言った。 「あそこの角の家、佐藤の奥さんだ。今、家の中で皿を割ったな。……いや、投げつけたのか」 「見えるんですか?」 「想像だよ。だが、当たる。十六時を過ぎると、あそこからはいつも破壊音がする」
彼は双眼鏡を下ろし、俺を見た。 「お前さん、あのマニュアルを見たな?」 俺は息を呑んだ。 「……なぜそれを」 「顔に書いてある。『世の中には知らない方がいいことがあると知りました』って顔だ」
権藤はニヤリと笑い、懐からスキットルを取り出して一口煽った。 酒の匂いが漂う。
「教えてやろう。この村にはな、表のルールと裏のルールがある。マニュアルは表だ。裏のルールは、もっと単純で、残酷だ」 「裏のルール?」 「『不要になった役者は、舞台から退場させられる』。それだけだ」
彼はスキットルを俺に突き出した。 「飲むか?」 「いえ、仕事中なので」 「仕事か。……前のライターもそう言っていたな」
俺の背筋が凍りついた。 「前のライター……彼を知ってるんですか?」 「ああ。ここに来た。お前と同じように、正義感と欲にまみれた顔でな。地下のことを嗅ぎ回っていた」 「彼は、どうなったんです?」
権藤は遠くの空を見上げた。 一番星が光り始めている。
「ある日、いなくなった。村の公式発表では『急な事情で帰京した』となっていたが、彼が乗るはずのバスに、乗客はいなかった」 権藤の声は淡々としていたが、それが逆に恐怖を煽った。
「消された、ということですか?」 「さあな。だが、この村の畑の土は、やけに栄養豊富だとは思わんか?」
ブラックジョークにしては笑えない。 だが、権藤の目は笑っていなかった。
「いいか、若造。地下には近づくな。あそこは、この村の心臓であり、同時に消化器官だ。入れば、二度と出てこられん」 「それでも、行かなきゃならないんです。俺にも事情がある」
権藤はしばらく俺をじっと見ていたが、やがてふんと鼻を鳴らした。 「死に急ぎたいなら止めん。だが、これだけは覚えておけ。この村で信じていいのは、嘘をついている奴だけだ」 「どういう意味です?」 「正直な奴は、真っ先に食われる。嘘をつける奴だけが、生き残る知恵を持っているということだ」
彼は椅子から立ち上がり、小屋の中へ入ろうとした。 「話は終わりだ。帰れ。夜の監視の時間だ」 「パトロール?」 「ドローンだよ。夜になると、虫のように飛び回る。見つかれば減点だぞ」
権藤は扉を閉める間際、一言だけ付け加えた。 「……神社の裏手に、古井戸がある。そこが換気口だ」
バタン、と扉が閉まる。 俺はその場に立ち尽くしていた。 「地下には近づくな」と言いながら、侵入ルートを教える。 この老人もまた、矛盾を抱えた人間だ。 あるいは、彼もまた、運営に対する静かな反逆者なのかもしれない。
遠くで、ブーンという低い羽音が聞こえ始めた。 ドローンだ。 俺は慌てて木陰に身を潜め、宿への道を急いだ。




