第五十五話 かつてかつての昔話と×メルディーニア廃皇后
とても遠くて、酷く懐かしい夢を見た……。
『メル、ぼくもいいこ!いいこだから、いいこいいこしてー』
その夢の中ではメルディーニアは元通りの皇后の地位にあった。
赤子のヴァンドリックを抱く彼女に、【精霊タイラント】が幼子のように甘えてくるのだ。
「まあ、【タイラント】。私の手は二本しか無いのよ?」
『ヴァンだけ、ずるいー!ぼくもーぼくもー!』
巨躯と怪力に見合わず幼い性格のこの【精霊】は、目に涙をいっぱい溜めて、彼女の膝に駄々っ子のように甘える。
まるでこの子の兄のようだわ、と彼女は困りながらも笑顔で思った。
『だいすきなのー!ぼくも、メルが、だいすきなのー!』
そこに彼女の夫ケンドリックが怒鳴り込んだ所為で、事態は余計にややこしくなった。
「――またか!また側にいないと思ったら!【タイラント】!貴様そこを退け!メルは私の妻なのだぞ!」
『いやだー!ぼくも!メルだいすきー!』
「私の!妻の膝を!隙あらば独占するな!この!この!」
最終的に【精霊】と揉み合いになってしまって、二人は部屋中をドタバタと暴れる。
これじゃ子供の喧嘩じゃない、と彼女は完全に呆れてしまった。
『ケチーケチー!』
「ケチも何もあるか!私のだ!」
騒ぎすぎた所為で、とうとう彼女が抱いていたヴァンドリックが泣き出してしまった。
「こらっ!静かになさい!」
彼女が思わず二人を叱りつけると、
『あーっ!ケンがなかせた!あかちゃんのヴァンをなかせた!いけないんだーいけないんだー!』
目を泳がせて叫ぶなり、【精霊】は都合良く消えてしまう。
残されたケンドリックは気まずそうな顔をして、下手くそに我が子をあやし始めた。
「よしよし、よしよし、父様が悪かったからどうか泣かないでおくれ……」
ぐずるヴァンドリックを一緒にあやしながら、メルディーニアは小声で訊ねる。
「陛下、お務めは如何されたのです?」
「会議が終わった所だ。話した通り、ノーフォーレザが喫緊の問題でな……」
かの穀倉地帯で冷害が続く限り、帝国は傾く一方である。
「……。ザルティリャの地を帝国が占拠していても負担が増すばかりなのですから、いっそ切り離すべきでは」
生き残った【吸血鬼】達が頻繁に反乱を起こす、その対応に手一杯なのだ。
しかもかの地の特産品であった、高品質な薬草に代表される医薬品や、珍しい材木の育成方法や知識を独占していたのも彼らなので、これ以上殺す事も出来ない。
いきなり攻め込まれた上に同胞を虐殺され、支配されているのだから、無理も無いのだが……。
「うむ、それも方策の一つとして提案したいのだが……如何せん貴族が喧しい」
「せめて……せめてザルティリャの王族に生き残りがいれば」
忌々しい【乱詛帝】が真っ先に王族に指名手配した所為で、何処に行ったのかさえ分からない。
「……うむ、うむ。帝国の皇子なり皇女なりと添わせて、ザルティリャを属国として認める事が出来ただろうに……現状ではそれも厳しい。多少の出血を覚悟でヤハノ草の大草原の復興だけでも進めさせている所だ」
「貴方、どうか御無理だけは。今やこの国の最後の柱は貴方なのですから……」
重たい話を続けていた、そこでヴァンドリックが声を上げて無邪気に笑った。
「……。この子のためにも、この国を良くしなければ。それが可能なのは私だけだ」
そう言ってメルディーニアごと我が子をそっと抱きしめると、皇帝ケンドリックは去って行った。
……ああ。
「これは皇后メルディーニア様、よくぞ宴に来て下さったのう。最近気鬱にお悩みのメルディーニア様のために『特別な肉』を使った献立を用意させたぞえ」
さっきまでは、あんなに幸せだったのに。
悪夢だったのか、これは。
下卑たアーリヤカ達の視線、嗤い声、笑顔。
その悪意から我が子テオドリックを必死に庇いつつ、メルディーニアが震えながら贅沢な料理に視線を降ろすと――そこには彼女が実兄コルスより処刑間際に託され――彼の形見同然だった愛鳥の羽根が飾られていたのだった。
「これで其方は立派な『鳥喰い女』じゃのう?」
「っ!!!」
彼女は飛び起きた。
真夜中の神殿は奇妙なくらいの静寂に包まれていた。
全身に汗をかいていて、心臓が苦しいくらいに跳ねている。
「…………っ」
――きっと、アーリヤカの処刑の噂を昨日聞いたからだ。
だから、神殿に入って世俗と縁を切ったのに、夢に見てしまったのだ。
ヴァンドリック、テオドリック。
間違いなく彼女が誰よりも愛した人との間に産み、此の世の何よりも慈しんで育てたのに、身勝手に棄てた我が子達の顔を。
*******************
皇太子ケンドリック・ダルダイルス・ガルヴァリーノスは【乱詛帝】の悪政に怯える者にとっての希望の星だった。
その希望の通り、彼は荒れていく国を憂い、心ある者を率いて決起、父帝を打倒し自ら皇帝となった。
【赤斧帝】の異名には由来がある。
かつて【浄詛の戦い】の際、彼は皇太子であったにも関わらず、自ら先陣を切って大斧を振るい勇猛に戦った。
強力無双の男が【精霊タイラント】と共に敵軍に真っ先に突撃していく様に、誰もが奮起したそうだ。
その勇姿から彼は【赤斧帝】と呼ばれ、皇帝になってからもその名と期待に恥じぬ活躍を見せた。
――それほどまでに輝いていた彼が、帝国史上最悪の暴君へと変貌するきっかけとなった事件がある。
前日までは何の異変も無かったのに、突如として重篤な病に倒れたのだ。
丁度、皇太子ヴァンドリックの婚約者としてモルド公家のミマナ姫を定めた直後であり――皇后、ひいては皇太子の実家がモルド公家とは不仲のネロキーア公家だったので、良くぞこの婚約が定まったものだ、流石は皇帝陛下だと誰もが感心していた折だった。
――今も帝国は立て直しの真っ最中であり、ここでその支柱たる【赤斧帝】が斃れては全てが台無しになる。
官僚も貴族も、平民までもが青くなった。
激しい高熱と、手足が虫に食われると言う内容のせん妄を何度も訴え、激しくうなされた。
帝国城の医者が総動員され、夜を徹した連日連夜の治療と看病が続いた。
その努力と献身が実ったのか、一月後に【赤斧帝】の熱は下がり、それから一週間後には起き上がる事が出来るようになった。
それまで親の忌中のようであった貴族達も、皇帝の快気祝いだと称して平民相手にただ酒を振る舞ったくらいだった。
起き上がって粥を三杯も食べた後。
穏やかな顔をして【赤斧帝】は、己を懸命に看病した医者達を呼ぶように宦官に伝えた。
きっと褒美の話をなさるのだろうと思って、宦官も喜んで医者達を呼びに行った。
医者達は疲弊していたが、呼ばれたとあってすぐに駆けつけた。
――これでもう何も心配ない。
ああ良かった。
誰もが内心で安堵する中、【赤斧帝】は微笑みつつ口を開いた。
「よく身を粉にして私を看病してくれた。故に毒杯をくれてやろう」
医者達は言われた言葉が数分の間は理解できなかった。
理解できた途端に、彼らは狂ったように泣き叫んだ。
「何故でございます!?私共は必死に陛下をお助けしようと致しました!」
まだ彼らの力が及ばなくて、運命も味方せず、【赤斧帝】が斃れてしまった事の責任を問われたのならば、彼らも納得は出来ずとも理解は出来ただろう。
けれど【赤斧帝】はこの通り回復したのに、どうして!?
「何故も何も、この帝国の臣民を死罪にする権限の一切は皇帝たる私に帰属している」
身重の皇后メルディーニアが地べたに座って懇願しても無駄だった。
その日から、【赤斧帝】は最悪の暴君へと変わっていった。
――医者達は毒杯を飲まされる寸前まで「死にたくない」「どうして」と泣いていたが、後から考えれば彼らは遙かに良い待遇を受けたのだ。
一族郎党全てを殺された訳でも、過剰に残虐な処刑方法で殺された訳でも、殺された上に家を潰される事も無く――処刑人達からも最大限に気の毒がられ、遺体は丁重に遺族の元に返されて慟哭と共に埋葬される事が出来たのだから。




