第五十〇話 帰ってきた男と×美しいだけの女②
高級娼館【至福と奈落】にロウがやって来た時、真っ先にゲイブンは異変に気付いた。
こんなにも不安そうなロウを、彼は初めて見たのだ。
とても心細そうな、何とも頼りない顔つきをしているのである。
「どうしたんですぜ、ロウさん?もしかして、クノハルの姐さんと大喧嘩でもやらかしたんですぜ?」
「……いや、そうじゃないんだ。そうじゃないんだが、何だろうな……俺も上手く言えないんだが、いつも一緒にいた、とても大事な誰かの存在を、全て忘れてしまっているような……」
「おいらならこの通りピンピンしていますぜ!」
ゲイブンは小突かれる事も覚悟であえて巫山戯たのに、ロウは怒るどころか――。
「そう、だな……そうだ。だが、確かに側にいてくれたのに、どうして俺は何も思い出せないんだろうな――?」
どうしちまったんですぜ?
ゲイブンまで不安になってしまった。
まるで母親とはぐれた小っちゃい子供みたいですぜ?
「ロウさーん……?」
「……何でも無い、ゲイブン。忘れてくれ。俺は一体何を――いや、誰を――?」
――そう呟きながら、ロウは彷徨うかのように高級娼館の前を通り過ぎて行ってしまった。
えっ!?
驚きのあまり――遠ざかるロウの背中をただ見つめるしか無いゲイブンに、マダム・カルカが声をかける。
「立ち尽くしてどうしたんだい、ブンの小僧……?」
「マダム!い、一大事なんですぜ!」
ゲイブンは振り返って大げさに身振り手振り付きで事情を説明した。
「……あのよろず屋のロウに、一体何があったってんだ……!?」
マダム・カルカも驚愕して、ロウの過ぎ去った道を眺めた時には――そこに彼の姿はもはや無かった。
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誰もいない【よろず屋アウルガ】に、かすかな呻き声が残っている。
『……ロウ……私の、大事な、ロウ……!』
ベリサと名乗った幼女は、もはや原形をとどめていない程に『呪詛』に食い荒らされた【精霊】を見下ろして、呆れた顔をする。
「ふーん。案外ねばるじゃん、【パーシーバー】」
幼女の側には黒ずくめの男が立っていて、二人は手を繋いでいた。
男は哀れみの混じった視線で、【パーシーバー】を見下ろしている。
『……かの者を「呪詛」に喰わせぬために魂の繋がりを遮断して、繋がっていた間の記憶も削除。我が身に一切の呪詛を引き受けてそれを誰にも関知させぬよう【スキル】を使っている。何とも崇高な自己犠牲だな』
『何とでも言いなさいよ……!私の、ロウは、絶対に……守ってみせるんだから……!』
『流石に、絶大な魔力を持つ【精霊】を一朝一夕に「呪詛」で食い潰す事は出来ないか。だが、その抵抗も長くは持たないぞ。貴様の自我が喰われた瞬間に、かの者も「呪詛」の使徒となるだろう』
『何が……何が目的なのよ……!?どうして!貴方だって同じ【精霊】なのに、「呪詛」なんか操って……!!!』
男は強く幼女の手を握りしめてから、口を開いた。
『魔の森を知っているか。かの【乱詛帝】が果てた折に呪われた地だそうだ。ベリサは生まれた直後にあの地に棄てられた。私を従えた事で生き延びたものの――誰からも愛されなかった』
男は黒ずくめの服をめくった。
彼の全身に――無数の『呪詛』が蔓延っている有様に【パーシーバー】は絶句する。
『私はかの森でベリサを生かすために、強い「呪詛」への抵抗力を得たらしい』
『っ……!』
服を整えて、男は淡々と告げる。
『私はベリサを真心から愛する者が欲しいのだ。それが暴君だろうと悪魔だろうと構わない。結果として何がどうなろうとも与り知った事では無い。この孤独に泣いていた子を何よりも慈しんでくれるならば、私は世界の怨敵の下僕になっても構わない。それだけだ』
『嘘つき!』
鋭い糾弾に男の顔が歪む。
【パーシーバー】は絶叫した。
『貴方が誰よりもその子を愛している癖に、その愛が受け取られないからって駄々っ子みたいに拗ねてんじゃ無いわよ!』
それが彼女の限界だった。
声の限りに叫んだ喉を『呪詛』が食い破り、あれだけお喋りだった【精霊】は、ついに一言も話せなくなったのだ。
『……』
何も言わない男の手をベリサは引っ張った。
「【スレイブ】、もう行こう。ここには【閃翔】が来るみたいだから。この分なら、どうせ【パーシーバー】も長持ちしないでしょ。それに――」
世の中を斜に見ていた幼女の顔が、年相応に明るくなった。
「『おとうさん』がやっと戻ってくるんだもん!」
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「ミマナ、ミマナ」
執務中。
レーシャナから呼ばれたミマナは、微笑んで振り返った。
彼女に甘えるようにレーシャナは抱きついて、小さな声で囁く。
「――帝都に連れてきたは良いものの、アーゼルトは【赤斧帝】に始末されたそうだ」
耳元で囁かれる恐ろしい言葉に、ミマナは微笑みを崩さずに頷いて返した。
「そう。【赤斧帝】は何処に?」
「ブラデガルディースの館に奇妙な動きがあるそうだ」
「困ったわねえ。【奈落蝗王】の急速魔力充填はようやく七割に達したばかり。もう少しだけ時間を稼いで貰わないと……」
今度こそ――確実に【精霊】を屠れないでは無いか。
「いっそ【閃翔】を突っ込ませて攪乱させるか?」
レーシャナは冗談交じりで言ったのだが、ミマナはもう一度頷いた。
「それが良いわ。ブラデガルディースには娘が二人いたはずよね?そして情報によれば、愛人の娘の方が――」
「おい、ミマナ――っ!」
驚いて何の冗談だと言いかけたレーシャナの唇を人差し指でそっと塞いで、ミマナは微笑み続ける。
「折良く『呪詛』からも解放された事だし、名門アニグトラーンの血を絶やす訳にもいかぬでしょう?」
「……ああ、恐ろしい。君が恐ろしいよ、ミマナ」
レーシャナは恍惚とした顔でミマナを見詰めて、呟く。
「間違いなくミマナこそがこの国で誰よりも恐るべき女だよ。国一番の才媛だの美しき女傑だの呼ばれているが、私なんてミマナのその恐ろしさに比べたら歯牙にもかからない!」
うふふふ、とミマナは優美に上品に微笑んでいる。
「まあ酷いわ、レーシャナ。私はただの恋する女よ?ヴァン様にずっと、ずっと恋い焦がれているだけの――」
その恋は幸いにも今は叶っているけれど、今度はいつ彼から飽きられないか、棄てられないかに怯え続けている。
固く握りしめられた彼女の手を取ってレーシャナは思わず接吻をした。
「だからだろう?あんなに愛くるしいキアラカと変わり者の私を皇太子妃に据えたのは。キアラカには一生の夢がある。かつて焼き払われたザルティリャの地を復興させたいと言う。一方、私はただの『女好き』だ。ミマナ以外の誰一人、ヴァンを本心から狙ってはいない」
「本当に失礼ね、貴女ったら。ヴァン様の御治世のため、熟考の末に決めたのよ?」
とうとうレーシャナは身震いした。
この恐ろしい【魔女】を――彼女は真心から愛してしまっているのだ。
「そこが益々ミマナの恐ろしい所じゃないか。君がそうやって私情を抜きにして冷静沈着に物事を決め続ける限り、ヴァン様であっても君を蔑ろになんて出来るものか……!」




