インクの魔女と真夏のコーラ
三題噺:「バレッタ 」「ボールペン」「コーラ」
太陽光がじりじりとアスファルトを灼いている。
商店街から少し外れた路地の奥でもその暑さは変わらなかったが、骨董屋の古びた戸を引いて一歩踏み込んだとたん、不思議と涼しさを感じた。
「師匠ぉ、いますか?」
返事はない。
カウンター奥を覗きにいくと、師匠はいつも通り座布団を二つ折りにした簡易枕に顔面を埋めて昼寝していた。師匠の昼寝姿は何度も見ているが、苦しくないのかと都度思う。黒いワンピースから不自然な程の白くほっそりした四肢が生え、無造作に投げ出されており、肩まである黒髪は琥珀色のバレッタでまとめられていた。まさかと思うが、バレッタを取るのが面倒でうつ伏せという寝相を選択しているのではなかろうか。
「師匠ぉ」
用事があって来たのだから、起きてもらわないと困る。声をかけながら手をつつくと、蠅がうるさいとばかりに無言で振り払われた。どうやら死体ではないということが証明されてほっとする。ウン百年生きている魔女だからといって、現代の温暖化に敗北してポックリ逝ってしまわぬとも限らないと俺は常々思っている。ついでに俺はまだ勝手に弟子入りと名乗っているだけのただの人間だが、今日という日に最適な師匠を目覚めさせる呪文も知っている。
「アイス溶けて無くなっちまいますよ」
「それを早く言え。バニラ味を寄越せ」
師匠にはバニラ味、俺には抹茶味のアイスを満喫したころ、師匠は切り出した。
「で、何の用事だ。アイス代くらいは聞いてやる」
「流石師匠、分かってらっしゃる。商店街の夏祭りなんですけど、出店をだそうと思って」
アイスの空の容器をちゃぶ台の端に退けて、俺はポケットから四つ折りのチラシを取り出した。若干縒れてしまっているシワをある程度伸ばして、師匠に向けて差し出した。
「それとわたしに何の関係があるというのだね」
「コーラを売りたいなぁと。師匠なら多分出せますよね?」
「ほぉ、成程。キミの企みはわかった。だが残念ながらそれは皮算用であったな。到底実現できまいよ」
「そこをなんとか!もちろん師匠の取り分も多めにしますから」
「そういう問題ではない。まぁ、百聞よりも体験するがよかろう」
師匠は四畳半の隅に煩雑に投げ出されていたコピー用紙の束から一枚と、ボールペンを手に取った。師匠の左利きの手が滑らかに走り、インクが紙の上に乗っていく。やがてインクは本物と見紛うようなコーラ瓶を描き出した。師匠の左手がバンとちゃぶ台が軋むほど強く紙を叩く。その反動で手が宙に戻ったかと思うと、インク製のコーラは紙上から消えて師匠の手に握られていた。描いたとおりに瓶の表面は結露していて、渡された瓶の表面からは間違いなく冷たさを感じた。
やはりこの出店案には勝算があるように思う。確かに師匠の左手は腱鞘炎になるかもしれないが、原価が紙とボールペンで冷たいコーラを無限に生成できれば、丸儲けだ。
「キミにそういえばこの術による食べ物を馳走したことは無かったな。そら、飲んでみろ」
「いただきます」
促されるままコーラに口を付けようとしたとき、
「おっと、済まないが外に出て飲んでくれ。暑い中のほうが冷たいものの有り難みが増すというものであろう」
「は、はぁ......」
奇妙な指示に従い、うだるような暑さの外に出た。
確かにこの気温の中で、手の平に伝わる冷たさが最高に嬉しく感じる。
瓶の中身をそのままラッパ飲みすると、炭酸の泡が舌の上で弾け、どろりとした嫌な油分が口の中いっぱいに広がって、咽せた。
「うぇっ......!」
身体が自動的に道路に向かって異物を吐き出した。明らかにコーラではない謎の液体が、アスファルトの染みになる。
「美味かったか? 一応、飲んでも無害ではあるが」
師匠が持ってきたコップの水を一息に飲み干し、明らかに飲料ではないものの残留風味を押し流した。俺の出店案を到底実現できないと一蹴した理由はこれか。
「インク味、ですか?」
「良い舌を持っておるな。そうだ、ああやって描いた食い物やら飲み物はすべからく画材の味なのだ。戦前戦後は止む無くアレで食い繋いだ時もあったが、もはや今の世では必要あるまい。という訳だ、キミ、諦めることだな」
師匠はそう言い放つと、戸口をピシャリと閉めてしまった。
人生そううまくいくものではないが、良いことを閃いたと思った案が水泡に帰ったついでに太陽にじりじり焼かれると、堪えるものがある。
がっかりした気持ちの中で、せめて少しでも涼を得ようと、まだ持っていたインク味コーラ瓶の表面で両掌を冷やす。
と、その瞬間、瓶すらも元の素材を思い出したのか、表面があっという間にインクの線に変質し、空気中に溶け消えた。
トライアンドエラー、と独りごちながら、インクで煤汚れた掌を持て余しつつ俺は出店の辞退を伝えるべく商店街の担当者の元へ敗走したのだった。