図書館の戒律
三題噺:「図書館」「携帯電話」「シーソー」
明らかにミッドサマーの影響を受けてしまいましてグロめです。
「開きますので、こちらへお下がりください。もう少し…はい」
手指の指定した位置へ僕が退いたことを確認すると、司書は古びた巨大な扉に向き直った。扉には三枚重ねの歯車のような機構が設えてあり、司書の細い指が複雑なそれを右に左にと回した。やがて微かにカチリと金属の噛み合う音がして、その扉は正面に向かって倒れ込んできた。
「どうぞこちらへ。足元にお気をつけください」
司書は何の躊躇いもなく倒れ込んできた木板の背面に乗る。扉は実際には床よりはるかに下まで続く一枚の板になっていたようで、床付近の支点を中心に、倒れ込んできた長さと同じ分、奥へ緩やかに上がっていくスロープのような道が出来上がった。シーソーのような仕掛けに、暗く続く木板を進めば下へ落ちるのではないかという疑念が浮かんだが、司書はカンテラを掲げて歩を緩めずに進んでいく。足元の不安よりも灯りのない真暗闇に取り残されることへの心配が上回り、僕は意を決して傾斜を登り始めた。
司書が歩みを止めて振り返る頃には、かなり元の場所から高さを覚える位置にいた。
扉の背面であった木板の終点には船着場のように張り出した足場があり、司書と共に乗り移ると木板は軋みながら遥か下方へと沈んでいった。歩いてきたはずの入口は目を凝らしてももはや暗闇に呑まれて見えない。
「本当にあるのか?」
「ええ、特級の禁書ですから、最奥の特別閲覧室にて管理しております。さぁ、こちらへ」
司書のカンテラの灯りを頼りにさらに進む。
遥か高みまで埋め尽くされた本棚の間を進む間にも、一見では分からないが身体感覚は緩やかな登りの傾斜を感じる。
「真なる秘術」「山への供儀儀式の手順書」「現世界の滅亡に関する百の考察」となどと読める本の背表紙を見送りつつ進んでいく。
「この図書館の禁止事項をご存知ですか」
「……『図書を害する一切の行為を禁ずる』、ですよね」
「はい。この図書館の唯一にして絶対の事項でございます。これらには飲食行為や図書破損につながる行為は元より、図書内容の複製なども含みます」
「複製も? 複製は本を痛めたりしない、と思いましたが」
「その図書の価値を害するというように解釈されるためです。くれぐれもご留意くださいますよう」
背中を向けているというのに、司書の鋭い視線を感じて、背筋に怖気が走った。
やがて司書は足を止めた。
そこにあったのは壁に設えてある極めて小さな正方形の木の扉だった。かなり身を低くしないと入れなさそうだ。ちょうど東洋のチャシツという部屋の入り口がこのような形だと、以前ウェブページで見たことを思い出す。
司書は古めかしい鍵束を取り出すと、慎重な手つきで一本を選び、かがんで小さな扉を開錠した。
「特別閲覧室への入室は同時にお一人のみという決まりです。わたくしはここでお待ちしておりますので」
扉の近くの暗がりに設えられたベンチ司書は腰掛けると、ハンドバッグから文庫本を取り出して読み始めた。
僕はそっと扉の小さな取っ手を掴んで、司書が文庫本から目を離さずに何も咎めないことを確認してから、慎重に特別閲覧室へ入った。
その部屋は立方体だった。床も壁も天井も古く黒ずんだ木で組まれていて、左手の壁に部屋自体と同じ木材でできた机と椅子があった。机の上には小ぶりな本棚が据えられ、十数冊が納められている。特別に閲覧できる本はそれきりのようだった。
入ってきた扉が自身の重みで閉まると、真暗闇だと思っていた部屋に灯りがあることに気づいた。本棚の横に奇妙に歪曲している読書灯がほの明るく光っていた。
僕は本棚に近づき、背表紙を見つめた。『世迷言物語』『ゴレンィス叙事詩』……違う違う…あった…『ヤーマン写本』目的の本は思っていたよりも小ぶりで、本棚から引き抜くとザラついた皮表紙の感触がした。本を開くと、褪せた紙面の上を古語が列をなして埋めていた。喉から手が出るほど欲しかった情報を僕は食い入るように見つめる。右の義眼の奥に仕込んだナノカメラ機構が僕の意思を正確に汲み取り、紙面を撮影した。
この秘密図書館では、司書の言っていた禁止事項は厳しく守られる。そのため記録のためのツールは持ち込めない。もちろん僕も手ぶらでの入館を強いられることを知っていたが、記録なしに研究は進まない。僕は右目を捨ててカメラを持ち込むことを選んだ。撮影された画像を研究室のサーバへ送信していることを示すプログレスバーが不意に停まり、通信エラー表示が視界の端に点滅した。こんな得体の知れない建物の中だ、送信に失敗するのも致し方ない。あとでまとめて同期すればいいと諦めて、丁寧に写本を捲り、右目に紙面を焼き付けていく。
不意に視界が暗くなったと感じた。撮影しているはずの右目に集中してみるとブラックアウトしていて何も見えない。なぜだ。僕はそっとカメラ表面を擦ってみようと義眼の表面に触れようとしたが、指先は熱くぬるりとしたものに包まれ、液体の感触が手の甲から腕までつたった。
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凄まじい悲鳴で、司書は没頭している読書の世界から引き戻された。文庫本をハンドバッグに仕舞い込み、特別閲覧室の小さな扉を開き、目線のみで中を検める。この状態では戒律にある「入室は同時に一人」の違反には当たらないと判断し、身を屈めて扉を通った。
床に横倒しになった椅子に、ドロドロとした赤黒い液体が大量にぶちまけられていた。机の上に乗った本は開かれたままとなっている。司書は本を慎重に眺め回し、あらたな汚れがないことを検分したのち、あるべき棚の空白を埋めるべく戻した。そして改めて足下の無残な様子の椅子と床を睥睨すると、掌におさまるサイズの丸いボールのようなものがその中に落ちているのを発見したが、ドロドロの液体の中にあるそれを拾い上げる理由は無かった。
「また清掃班を呼んでこなくては」
誰に言うでもなく独りごちると、司書はまた背を小さく屈めて、特別閲覧室を後にした。