白雪姫には秘密
三題噺:「雪」「りんご」「さよならだけが人生だ。」
人間の創作はやがて現実になるらしい、というが、それは本当だった。昔から小説や映画で描かれ続けてきた、「地球は滅びに瀕し、選ばれた人類だけが次なる惑星を目指して旅立つ」という筋書きがプロジェクトとして実行される世代に俺は生まれついてしまった。
宇宙を行く巨大な箱舟の定員は5万人。地球人口の0.1%以下を遥かに下回るその数も、有能な財界人や研究者のリストですでに埋まっていた。混乱を避ける為、地球が滅びることも、そして箱舟が選ばれた者だけを連れて行くことも、プロジェクト参加者−−すなわちその5万人しか知らない話だ。そして俺は、その真実を知る5万分の1だった。
研究都市の片隅にある寂れた無人運営のバーは今夜も入口のサイネージにOPENのサインを掲げている。
小さな店内には他に誰もいない。いつものカウンターに陣取って、左に座る腐れ縁の友人であるラィアとグラスを合わせた。俺のグラスにはギムレット、彼女にはシードルベースのカクテルが満たされている。
「引っ越しはいつなの?」
「2週間後くらいになりそうなんだ」
「そんな、もうすぐじゃない。送別会の準備をしないと」
プロジェクトは極秘であり、どんなに親しい者にも真実を伝えることは一切禁じられていた。人の口に戸は立てられない、というが、プロジェクトの上層部はこれを都市中のマイクロドローンカメラと5万人へのナノボット投与によって安全性の担保とした。ナノボットは常に宿主の発言を拾って記録し、不正な発言があれば本人および周囲に適切な措置が実施される、と噂されている。真実を知っているものは誰もいないのは処理された結果、とも。この話が真実であれば、人類の存亡の前に人権は鮮やかに無視されたと言える。
噂の真偽はともかくとして、俺は乗船手続きを周囲には大陸を跨いだ引っ越しとして伝えておいた。また、引っ越し先はまだ情報都市7.2の整備対応が進んでいない土地で、行けば連絡を取るのは容易ではなくなるだろうとも嘯いている。ラィアがえらく慌てて送別会の話題を出してくれたのも頷けた。
「それで、シンヤもあなたと一緒に出発?」
「たぶんそうなるね」
ラィアは腐れ縁仲間、兼、俺の同期の出発予定を聞いて、そう、寂しくなるね。と小さく呟いた。
確かに寂しくなる。俺とシンヤは2週間後には巨大な方舟の中に超長期睡眠状態で運び入れられ、それが地球との最後の別れになる。それはラィアとの別れも意味する。「向こう10年会えなくなっちゃうんでしょ、本当に寂しいよ」、と言ってくれる彼女に、その10年後には地球が跡形もなく消失してるんだけどなぁ、という冗談めいた真実は喉の奥に飲み込んだ。
「この定期会合も次でおしまいかぁ」
「悪かった、シンヤを連れてこれなくて」
「仕方ないよ。警備系の部署で融通効かないんでしょう」
他愛のない会話に触発されて、脳裏に学生の頃の光景が揺らいだ。
「懐かしいな、あいつの部活終わり待ちの事務作業」
夕暮れの生徒会室でやはり左隣に座るラィアと書類仕事を黙々と進めている風景。やがて近づいてくる癖のある足音はシンヤのもので、それに気づいた彼女は遅い何やってるのと言いながら立ち上がり駆け寄る。口から出るのは文句だが表情が語るのは今も昔も答えはたった1つで、当時は当人の手前言えなかった確信めいた質問が、数年後のいま、呆気なくぽろっと溢れた。
「今でもシンヤのこと好きなのか」
ラィアの手から結露したグラスが滑って大半のシードルがテーブルの上にぶちまけられた。その際に彼女の服にも飛沫が飛んで染みを作る。うわ、大惨事だ。客の異変を察知しすっ飛んできた簡易な脚と腕を持つ給仕ワゴンが差し出してくれるテーブルクロスに水分を吸わせる。
「いつ、から、知って......」
「生徒会の頃から知ってた。俺だけじゃなくて学年全員の共通認識だ。ラィアは分かり易すぎるんだ」
「ええっあっ、それ、シンヤは」
「心配するな。ヤツは唯一きみを上回る鈍感野郎だ」
彼女は瞬時にして恥と悲しみと怒りをステアリングしたような複雑な表情を見せたあと、長い嘆息と共に蚊の鳴くような声で訴えた。
「絶対に、シンヤには、黙っておいて……」
服に付いた染みを見てくると言って、ラィアは化粧室へ向かった。店内奥へ消える姿を確認してから、左手首を返すジェスチャーでメッセージアプリを立ち上げる。宛先はシンヤ。コンタクトの球面を通して視えるキーパッドを叩いて送信した。
『後は任せた』
運命は彼女が動転してグラスをひっくり返したあの瞬間に決した。改めて給仕ワゴンがサーブしたラィアのシードルの上で、準備してきた錠剤カプセルの合わせ目を捻った。極めて細かい粒子が液体に溶けていく。
「染み、残っちゃった。このワンピース気に入ってたのに。......ああ、新しいの、注文しておいてくれたんだ。ありがとう」
席に戻ったラィアは素直に新しく結露し始めたグラスを手に取った。その液体を口元に運ぶだけの何気ない一瞬がやけに長く感じた。何か彼女に最後に聞いておかなければ、と焦りに近い願いが唐突に沸きでる。「きみを好きだと言ったらどうする?」 、「シンヤと天秤にかけたらどちらを選ぶ? 」なんて、どう転がってもラィアが困った顔ではっきりと引導を渡してくるようなクエスチョンを跳ね除けた結果、
「シードルが好きなのか?」
結局どうでもいい質問に終結してしまった。
だが幸運にも最善の選択だったのかもしれない。
「覚えてないの? 飲みやすいっておススメしてくれたのは……ケンゴ……でしょ……」
ラィアは最後に俺の名前を言いながら、睡魔に負けて徐々にカウンターに上半身を預けていく。数十秒もしないうちに、瞼は閉ざされ、お喋りだった声は規則的な寝息に変わった。
超長期宇宙航行に耐えるため、人類は適切な処置を施されコールドスリープする必要がある。その処置の第一段階の長期入眠剤の実用化が俺のここ数年の仕事だった。プロジェクト名はスノーホワイト。錠剤の役割である眠りと、不思議なことに味覚的には林檎に近い成分を含んでいたことにちなんだ名前だ。功労者として与えられていた自分用の錠剤はラィアの身体に溶け消えて、彼女を白雪姫にしてしまった。
入口のガラス戸が砕かれて黒い人影が複数店内に雪崩れ込んできた。7人の小人ならぬ武装した者たちはそれぞれ銃口を俺に向ける。
「ケンゴ・イグニス。箱舟乗船資格の喪失を確認した。本部に連行する」
両手を軽く掲げて抵抗の意思がないことをアピールしながら、このプロジェクトが全力で秘密を守っていることを実感する。
「スノーホワイトを検知しました。摂取者はラィア・ウエスティン、日本州出身、31歳、建築会社の事務員として勤務しています」
「仕方ない。アレの追加生産はもう無い。乗船ポッドを空にしておくくらいなら乗せておけ」
ラィアは指示を受けた隊員に抱えられていく。俺にも1人の隊員がぴたりと横付けられた。両手首を拘束され、店外に停められた軍用車の列のひとつに促される。
隊員と俺を収容した軍用車は静かに出発した。他の隊員は戻ってこなかったし、ラィアも乗せられてはいなかった。俺と1人の隊員は向かい合わせに座り、足裏にただホバー機構が生む空気の震えを黙って感じていた。
「どうして」
不意に隊員が言った。靴紐を眺めていた視線をあげて隊員と向き直る。隊員はフェイスカバーを跳ねあげた。シンヤは顔をくしゃくしゃに歪めていた。特に驚きはなかった。多分こうすれば出動するのはシンヤの部隊班だろうという予測をしていた。
「どうしてこんなことに」
あんまりにも悲痛な親友の表情に、逆に笑えてきてしまう。
「あいつには秘密にしておいてくれ」
そう告げたが項垂れた親友からの返事は、ただ嗚咽だけだった。
***
秘密維持の為の手続きは知っている。投薬と電気的手段によって記憶は綺麗さっぱり差し替えられ、滅びゆく世界に対象者は放逐される。手続き担当者の顔は知っているので、多少の我儘は聞いてもらえるだろう。差し替える記憶の内容はこうだ。
俺の親友2人は長いすれ違いの果てに結婚し、つい先週、大陸を跨いだその先に引っ越した。引っ越し先はまだ情報都市7.2の整備対応が進んでいない土地で、この先10年は連絡を取るのは容易ではないだろう。朝、まだ目覚めきらない脳みそで、初夏の陽が射し込む窓の外を眺める。10年後ならあいつらにも子どもの1人や2人いるだろうか。親友たちの子どもならきっと可愛らしくて、おっさんだてらに小遣いをあげてしまうに違いない。
さて、小遣い代を稼ぐためにも、嫌気がさして辞めてしまった製薬会社の次の居場所を探さなければ。そう考えながら、珈琲を淹れるためにベットを出た。
「雪」「りんご」→ 白雪姫。
「さよならだけが人生だ。」→ 本来ならば「勧酒」という詩の和訳の文。別離とお酒のシーンということで。