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さんざん歩いて商店街を一周し、ようやく目的地を発見した。何のことはない、商店街に降りたところから逆回りで探せばすぐに見つかっていた。運の悪さは僕のせいか彼女のせいか。
大通りに面した、煙突のある木組みの一軒家。三つの輪っかがつながったようなパンの形の看板にアラナンチャの文字。ここがクロテ・アラナンチャの実家だというパン屋に違いない。
「それじゃ、行こうか」
ドアを開ける。
焼きたてのパンの匂いが鼻を通り抜けた。トレーに乗った丸いパン、細長いパン、白いパン、黒いパン。形、色、様々なパンが並ぶ。狭い店内の奥は壁で仕切られ、向こう側にパンを焼く窯があるのだろう。そこから、頭巾を被った女の子が顔を出した。
「いらっしゃ……い!?」
黒く長い髪を束ねた少女は、イオンさんの顔を見た途端、驚愕に目を見開いた。
「クロテちゃん、こんにちは」
「い、い、イオンちゃん!? なんでこんなところにいるんですかー!? まさか、会いたいという気持ちが生み出した心象風景? それとも具現化した夢ですか? きゃあああ!」
勢いと共に激しくずっこける彼女。おでこをぶつけたようで、目に涙を溜めて額を押さえている。
白い股引きを身に着けた、小さい体躯。美人というよりは可愛らしい顔立ちで童顔。僕よりも年下に見える。
「い、イオンちゃん? 本当にイオンちゃんですか?」
「うん、本当にイオンだよ」
「ふおおおおおおおお! こんな姿を見られてしまいましたーっ! なんたる不覚! こんなわたしはもうダメです無様です窯に入ってふっくら焼きあがりますーっ!」
「待って! 窯に入ろうとしないで!」
「大丈夫ですわたし体小さいですから」
「そういうこと言ってるんじゃなくて」
「体は成熟してないけど心は発酵してますから! パン酵母とかで!」
「わけわかんないよ! ライトくん、止めてー!」
半狂乱の発酵の少女を押さえて落ち着かせ、会話が可能な精神状態を取り戻させてようやく話ができるようになった。パン焼きの修行中とのことで時間を改めることも考えたけど、「せっかくいらしたのですから気の済むまでいてください。ていうかお話ししましょうイオンちゃん」とのことで、工房で話をすることを快諾してくれた。
「イオンちゃんがうちに来てくれるなんて幸運の極みですよ。幸せの絶頂ですよ。こんなみすぼらしい我が家になぞ、手間暇かけてまでやって来てくれるなんてあなたは天使か何かですか。本来ならわたしの方からお会いに行くべきなのに、畏れ多くて躊躇している間にこれこの通り、白い粉にまみれて生地と格闘し窯に縛られる修行をしなければならなく、どれだけ会いたくても抜け出すことが叶わないのでして、とにかくもう会いたかったですよイオンちゃーん!」
がばっとイオンさんに抱きつく。
「うん、私もだよ」
それを笑顔で受け止める。
この子が「クロテ・アラナンチャ。なんだか、聞いていた印象とだいぶ違う。
「クロテちゃん、前は私が話しかけようとすると逃げてなかったっけ?」
「ここは私のホームグラウンドですからね。心を解放しやすいですよ。それに、あの頃は知らなかったのです。イオンちゃんとの蜜月の日々がこうもあっさりと崩れる砂上の楼閣だったということに。そんな運命をもしも知っていたら、照れなど押し殺して積極的にイオンちゃんと交流を深めた未来もあったというのに」
「つまり恥ずかしかったんだね」
長い話に短く答えるイオンさん。思わずこっそり耳打ちして疑問を口にする。
「クロテちゃんってイオンさんと一緒にいた時もこういう喋り方だったの?」
「うん。ひとつのことを聞くと物陰に隠れて、それから十二十の言葉で返ってくるの」
二人きりでの会話をもうちょっと詳しく聞いてみたい興味が沸いたけど、好奇心はウサギをも殺す。深入りはよそう。
「イオンちゃんがもしもただわたしに会いに来てくれただけというのなら恐悦至極、身に余る光栄なのですけど、そうじゃないことがわかるくらいの思慮は持ってるつもりです。イオンちゃんにはわざわざわたしを訪ねる理由がおありと理解したうえで、あえて疑問に答えていただきたいのです。その男とはどんなご関係で!?」
警戒心丸出し、いや、もはや敵意をぶつけるように睨み付けてくる。
「ライト・アングルくん。友達だよ」
「トモダチィ!?」
その答えに、クロテちゃんはくわっと目を見開いて僕の胸倉を掴みあげた。低い位置からの突き上げで、僕の首が締まる。とても華奢な女の子が出せる力ではない。パン作りは重労働なのだろう。
「イオンちゃんは高嶺の花と言うべき尊い存在で、決して世俗に染まるようなお方ではないです。初めて顔を合わせた時の衝撃は決して忘れません。天使のような神々しいお姿、時折見せるアンニュイな表情。きっとわたし如きでは考えが及ばないような、深いお悩みを抱えているのだろうと思ってましたです。きっと凡夫では力になることすらできないだろうと。だからイオンちゃんはご自身の心に領域を創り、そこに誰も踏み込ませないように感じてました。わたしは身の程をわきまえ見守るに留めていたというのに。そんなわたしを差し置いて友達!? ですですデス!?」
ぐらぐらと首を揺らされ、視界が歪む。抵抗もできず、されるがまま。
「もちろんクロテちゃんも友達だよ」
「え、本当ですか?」
逆鱗に触れた龍のような形相から一転、うれしそうに顔をほころばせる。
「ライトさんと言いましたね。イオンちゃんの友達第一号はこのわたしですよ。そこはちゃんと理解しておいてくださいね」
「お好きにどうぞ……」
一悶着ありつつもわだかまりはなくなったところで、ようやく僕たちがここにやってきた本題に入ることができる。
「学院で怪しい人物ですか。あの学院は怪しい人物しかいないんですけどね。……そうですね、スタンプ先生は怪しいですね。ここでは場所柄、学院の関係者もよく訪れるんです。この前、スタンプ先生がいらっしゃっいました。何とあの人、カエルパンなるものがないかと訊ねてきたんですよ! カエルの形をしたパンじゃないですよ、カエル肉を使ったパン! 信じられない! カエルにそんなことする人なんて信用できないですよね」
あの先生、踊り食い以外の新しい食べ方でも模索しているのかな。
「じゃあさ、イオンさんを良く思ってない人物に心当たりは?」
「なんだってそんなこと聞くんです? まさかそんな人がいるとでも?」
「え、えーと」
この子、やけに鋭いところがあるから迂闊なことは喋れない。慎重に言葉を選ぶ。
「イオンさんを嫌ってるっていう人が」
「どこのどいつですかそんな不敬な輩はキルですかデスですか!」
「あ、あくまで噂なの。私の悪口を流してるっていう人がいるとかいないとか」
イオンさんがフォローしてくれた。
「……まあ、いいでしょう。わたしが学院にいた頃の情報と今耳に入っている情報から統合して考えるに、心当たりはないと言わざるを得ませんね」
「そう……」
予想していたとはいえ、ここで手がかりを得られないのは辛い。
「ああ、ひとつだけ」
クロテちゃんは続けた。
「フラン・メルカリーはプライドが高くてトップにこだわると聞きましたね。イオンさんに嫉妬するなら彼女が最たるものだと思いますよ」
目的は済み、イオンさんとクロテちゃんは旧交を温めた(というほど離れた期間は長くないけど)。せっかく来たのだから、と修行中のクロテちゃんが焼いたというパンをいただいた。懐かしいようなほっとするような、どこかで食べたような味だった。それは店の商品と遜色ない出来だったということだ。
「パンなんて誰が焼いても一緒ですよ」
饒舌な彼女が言葉少ないのは、照れているからだとイオンさんは言う。
そうこうしているうちに日が暮れかかっていることに気付いた。もう寮に帰らなければならない。
「そうだ、最後にひとつ」
去り際に僕は訊ねる。
「クロテちゃんはイオンさんのこと、どう思ってる?」
「それは愚問ですね。尊敬、敬愛、崇め奉ってもなお足りないほど心の底から心酔しているですよ。知らなかったですか?」
知ってたよ。そう言って僕たちは後にした。
何も収穫がなかったかのようだけど、クロテ・アラナンチャはシロだとわかっただけでも無駄じゃなかったと思う。話をしてみると、イオンさんへの愛が転じて退学に仕向けるなんて強行に出た、なんて考えもよぎった。でも、それはないと言える。彼女はイオンさんが悲しむことはしない。
「それじゃ、また明日」
「うん、また明日」
イオンさんが笑い、夕焼けのラビィポップに消えていく。
不謹慎だけど、再会の約束ができたことがちょっと嬉しかった。
明日が終わってしまえば、追試験その日。一日の間に脅迫犯を探し出し、僕は“魔法”を身に着ける。時間はもうないに等しい。でも、やらなきゃならない。
決意を新たに、気を引き締め、石畳の帰り道を歩いた。