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「神話時代以来になる人族と蛮族との争いは、一度は人族優勢のまま休戦に入ったものの、再び彼奴らは息を吹き返して我々人間に牙をむき始めたのは諸君らの知るところだろう。幸いにも、ムルナ魔術学院のあるこのラビィポップの町は蛮族が割拠する北部からは遠く離れているので戦禍を免れておる。我が学院の卒業生の中にも冒険者として旅立つ者、軍に入って蛮族討伐に乗り出す者、直接戦わずも戦いの補助をする者が平和をもたらす一番槍として各地で活躍しておる。この場で学ぶ魔術の道は、必ずや諸君らの輝かしい未来へ導くものだとわしは信じている」
カラン。
白髪白ひげ、最上級の魔術師の証しである灰色のローブを身に着けた偉大なる魔術師にしてムルナ魔術学院第百二十代目学院長であるところのギヨーク・ムルナ学院長のありがたい訓示を中断させる、甲高い音が厳粛な聖堂に響いた。立派な魔術師を志し学院に通う学生、すなわち魔術師見習いに配給される、魔術発動媒体の役割を持つ黒い木でできた短い魔術杖が、固い床に落ちた音だった。
魔術師にとって命の次に大切な魔術杖をぞんざいに扱い、かつ聖堂に集まる千人に届く学生の目標であり憧れである学院長の話に割り込む不届きものはどこのどいつだ、と音の発生源近くの目が一斉に向けられる。
「す、すみません……」
犯人はライト・アングルという、一四歳の若造の学生だった。
つまりは僕だった。
「……そもそも魔術とは、蛮族との戦いにおいて神々が人族に授けた対抗手段のひとつであり、魔力を持てない蛮族を相手取る場合には絶大な効力を発揮するのであり……」
さすがは長きにわたる修練を経た学院長、この程度の些事では全く動じることなく、話の続きを始めた。
ところで、彼のことを学生たちの目標で憧れだと表現したものの、今この時間に限ってはそんな彼の値千金の話に耳を傾けようとする者は、僕を含めてほとんどいないだろう。
話が長すぎる。
その上、さっきから同じ話を何度も繰り返している。
朝から聖堂に集合し、昼近い時刻になっても僕たち一年生に対して訓示を続けているのだ。数位か月前、入学したてのぼくたちを出迎えた時はこれほどまでに長く話す印象は持っていなかったはずだ。それが、この半年の間に劇的に話好きになってしまったのか? それどころか自分で話した内容も忘れてしまうくらい記憶力に衰えが生じてしまったのだろうか。だとすると、この学院に身を置く者としてはぞっとしない話だ。
話の内容は、主に魔術に関してのことだった。魔術の重要さ、尊さに始まり、魔術師の役割、魔術師としての振る舞い、魔術師割引の活用法など、ありがたいのだかそうでもないのだかよくわからない話を、僕たちは立ちっぱなしで聞かされ続けている。『魔術の道は健康な身体から』との信念を持つ先生が受け持つ授業を受けているので、学院に入って懸念していた体力の低下は現れず、それどころか僕が村にいた頃よりも体力が付いているんじゃないか、と思いがけない自信がついていた(当然ながらその分の鍛錬は厳しいものだった)からか、肉体面での疲労はまだ耐えられる。
しかしながら同じ話を何度も周回されると、精神面での苦痛がひどかった。魔術の行使に集中力は必須で、一流の魔術師でも精神の鍛練は毎日欠かさないと聞く。だけどもここに来る前までは田舎の村で過ごしていた僕はまだまだ未熟で到底耐えられるようなものではなかった。この程度で根を上げていては一流にはなれないぞ、という学院長からの言外の指導なのだと思い、気を張って臨んだけれども、睡眠の欲求には勝てなかった。
でも、それは仕方ないことだと思っている。
長話による疲労もそうだけども、僕は前日からあまり寝付けず、睡眠不足だった。
何故ならば、これからこの場所で、学生たちの今後を左右するものが配られる手筈だったからだ。
ムルナ魔術学院では年に二回、学生の実力を測る試験が実施される。半年の成果を見る実力試験と、進級の是非を問う進級試験。ここに集まった僕たちは先日実力試験を終えた。その結果がこの後通知されるのだ。
この試験で合格点を取れなかった場合、後日追試験が行われる。その追試験でも合格と認められなかったら、学院を追放されてしまう。
つまりは、退学。
半年間授業を受けていて思い知ったことだけれども、どうやら僕には魔術の才能と呼べるものはあまりないようだった。かろうじて授業についていけはするものの、合格なんて楽勝だ、などと余裕をかますどころではなく、むしろ合格点を割ってしまう可能性について真剣に考えなければならない。
学院は、学問の戸は広く開かれるべき、との理念を掲げているので多少なりとも魔術の素養が認められれば入学するのは難しくない。だけども先入観としての魔術のイメージと実際の魔術行使には大きな格差があるもので、一般人(つまり半年前の僕自身)の中で魔術とは、万能、万全、万々歳との印象を持っていた。コツさえ掴めれば自由に空を飛び、光の矢を放ち、姿を消せるものだと思っていた。ある意味では正しい。魔力の流れを汲み、正しく魔術を行使できれば、それこそ無限の可能性を秘めている。
ただし、それにはコツを掴むまでの弛まぬ努力にして果てしない労力の陰が抜け落ちている。ちょちょいと教われば誰でも魔術師になれる、なんてのは幻想だった。
魔術じゃなくて幻想だった。
この半年間で、それを実際に実感し、痛むところがないまでに痛感した。
同輩の中には、代々一流の魔術師を輩出する、いわゆる名家の子息子女がいると聞く。そんな彼らは生まれた時から魔術師になるべく育てられ、エリート教育を受けているので、入学した時点での魔術との関わりは深い。田舎の村で十五年の歳月を魔術とは無縁の人生を送ってきた僕なんかと比べるまでもなく、スタートからして雲泥の差があった。
エリート組から比較され、才能がないなら田舎に戻ったらどうだ? と煽られようとも、僕は決して帰ろうとはしなかった。
僕には学院を卒業したい理由がある。
きっかけはほんの小さな奇跡。
裕福とは言えないまでも、暮らしに困ることのなかった村で、父、母、妹との生活。それが僕の人生なのだということを薄々と理解し始め、拒絶するだけの理由もないので、村での一生を受け入れようとしていた時だった。
ふとした偶然から、魔術の素養がないはずのこの僕が魔術を使った。
人は、誰しもが魔力という、魔術を使うための力を備えているが、実際にそこから力を引き出し現象として発動するには訓練が必要だ。名家出身の公子公女も幼い頃からの訓練によってこそ、魔術の扱いに長けるようになる。平民の出から魔術の道に入るには、まず魔力のなんたるかを理解し、体得してから魔術を行使できるようになる。僕のように、理解もせず最初の段階をすっ飛ばして魔術を使う例というのは、なかなか珍しいことのようだった。
僕には魔術を使う才能があった、ということだった。
その瞬間、僕の頭には今まで考えることもなかった全く新しい未来予想図が生まれた。
魔術を学び、才能を伸ばして一流の魔術師になれば、いい仕事に就いて家族にいい暮らしをさせられる。これは身を立てるチャンスなのだ、と。
さっそく僕は村に近い魔術の学校として、ムルナ魔術学院のことを調べた。突然の思いつきだから両親の説得は長期戦も辞さない覚悟をしていたけれども、意外なほどすんなりと入学を認めてくれた。
意外というより、肩透かし。
特に母は、僕にお守りを持たせてくれる程期待してくれているようだった。……これが、どうせすぐに戻ってくることになるんだから今は好きなことをやらせてあげる、という憐憫に近い優しさではないと思いたい。
手こずったのは、妹を振り切ることだった。勝手に村を出ていくな! と腕をかじられ髪をむしられ言葉で詰られた。だから、出発の日を告げずに家を出てきてしまった。里帰りする時が不安だけど……。
そんなこんなで僕は入学したのだった。荊の道と知りつつも、両親の期待のため、何より自分の将来のためにも、ここで落第するわけにはいかないのだった。
「魔術なきものを魔術と呼ばず、魔術としての自覚あるものを魔術と言う。かつてフォーク山の登頂に成功した、賢者ヤーナードはそう言ったそうじゃ。君たちもそのように自覚ある魔術を目指してじゃな」
学院長の話はまだまだ続いている。いい加減うんざりしてきたので、退屈しのぎに周囲をこっそり窺ってみた。
千人近い人間を収容できるこの聖堂は『フクロウ堂』という名前がついている。外壁にはフクロウを象ったシンボルがいたるところにあしらってある。堂内は薄暗い。見渡してその理由がわかった。
窓がない。
内と外の出入りができるのが、後方に大きく構える入口のみで、光を取り入れるための窓が、壁のどこを見ても存在しなかった。それでも壇上で語りに耽る学院長の顔が見えるくらいに明るいのは、壁際に等間隔で控える先生たちが光を点す魔術を使っているからだった。ぼんやりと光る球のおかげで僕たちは互いにぶつかることなく集合している。
上方は暗くてよく見えないけど、声の響き方からかなりの高さがあることがわかる。そういえば、あまりにも高い建物だったので、近くまで寄ったらてっぺんまで見えなかったっけ。
……ん、今何かが上の方で動いたような?
「諸君らも歴史あるラビィポップに住み、ムルナ魔術学院で学べる幸運を噛みしめることじゃ。さあ、これでわしの話は以上とする」
どうやら、ようやく長話に終止符が打たれたようだ。至る所から安堵のため息が聞こえる。
「いやはや。わしの嫌がらせによう耐えたのう。今年の学生はなかなか器がでかいわい。ところで諸君、何か聞こえないかな?」
嫌がらせって言った?
いや、それよりも聞こえるって?
「ぎゃあああああああああああああ!」
耳をそばたてようとした瞬間、どこからか悲鳴が上がった。さらに、別のところから別人の悲鳴も上がる。
何かが起こっている!
僕の近くにいた女の子が声を上げたことで、ようやくそれが上空を指しているものだとわかった。
上空。天井の見えない暗闇。そこに、蠢くように犇めき合う、無数の影。
「安心せい。襲うことはない。なぜここが『フクロウ堂』と呼ばれているか考えたことはあるかな。ここはな――フクロウの育成所なのだよ」
バサバサと羽音を立てて下りてきたのは、鳥、鳥、鳥!
おびただしい数のフクロウだった。
魔術師はフクロウをペットとして飼うことがある。使い魔にして、魔術師のサポートをさせるためだ。僕も授業で触れたことがある。あのフクロウはここで飼育されていたのか。あの時髪を啄まれたので、ちょっと苦手だったり。
思い出に浸っている場合じゃなく、今問題なのは、フクロウたちがまるで獲物でも見定めているかのように、下界にいる僕らを凝視していたことだ。となると、次に起こることも予想ができる。
「だから危険はないんじゃって。案ずるな。フクロウちゃんたちには君たちの成績書を持たせてある。じっとしておれば、おのずと届けられるじゃろう。……さあ、行くがいい、フクロウちゃん!」
学院長の号令で、フクロウは一斉に降下し始めた。
パニック、地獄絵図、阿鼻叫喚に怒号が混じり悲鳴がアクセントを加える。
くちばしに紙を咥えたフクロウが男子学生の肩に停まる。別のフクロウは足に結ばれた紙を女子学生に解かせている。
「受け取ったらさっさと抜け出すがよいぞ。あまりもたもたしていると、別の意味で危ないからのう」
「ギャーーーーーーっ!」
学院長の言葉が終わらないうちに、ひときわ大きい悲鳴が上がった。怪我をしたのだろうか?
「ちくしょう……ッ! フンを……落とされたぁ!」
堂内がしんと静まり返る。
鳥は自らの体重を軽くするために、そこら構わずフンを垂れ流すと聞く。フクロウは言うまでもなく鳥であり、見るまでもなく鳥だ。
「うわあああああああああああ!」
そして訪れる最大級のパニック。我先に、いち早くフクロウから成績書を受け取り、脱出しなくてはならない。人としての尊厳、プライドを守るために。
「ぼ、僕のはどこだぁ!?」
見たところ、フクロウは一羽につき一枚の紙を持っている。任務を終えたフクロウはすぐに天へと帰っていくので、地上に降りているフクロウに注意してやればいい。だけど、
……ん、何か嫌な予感がするぞ。
一羽につき一枚だって?
それはつまり、一羽で学生ひとり分を担当しているということ。
それはつまり、学生の数だけフクロウはいるということに他ならない。
ここに集められた一年生は千人前後。
ならば……フクロウもそれだけの数がいる。
「なん……だって」
千ものフクロウが一斉にフンをまき散らしたら、僕たちに防ぐすべはない。地獄以上の地獄が顕現してしまう。
考えるだけで背筋がぞっとする。冷や汗がツウ、と流れた。
「…………」
これはまさか。
僕の頭の中で警鐘がガンガンと鳴っている。それ以上考えてはならない、と。息が乱れ、鼓動が速くなり、思考がまとまらない。
そっと背中に手を回す。ローブの繊維の感触……だけではない、ひやりとした感覚。恐る恐る、指を開いてみると……白い、何かが。
「ぎゃあああああああああああああああああああああ!」
僕の悲鳴は無数の羽音と無数の叫び声にかき消される。誰もかれもが被害を受けているのだ。
早く、一刻も早く外に出なきゃ! そして洗わなきゃ!
と、慌てふためき辺りを回転するように見回していると、僕の目の前に一羽のフクロウが降り立った。くちばしに紙をくわえていた。そのくちばしを伸ばしてくる。
「ああ、それが僕のだね。ありがと」
う。
お礼を言って手を出したら、首を引っ込めてしまった。
「……」
もう一度手を伸ばす。
バシッ!
翼で叩かれた。
「…………」
フクロウは、また首を差し出して髪を差し向ける。
「こ、こいつ……」
あろうことか、僕はフクロウにからかわれていた。
「それ、僕のだろ! 早く渡してよ!」
このフクロウ、まるで笑っているかのようにくちばしをにんまりと歪めている。
「フクロウはプライドが高いからのう。格下とみた相手にはちょっかいをかけてくるかもしれん。ま、頑張って手に入れるんじゃな」
つまり、僕はこいつに格下と思われているわけか……。
確かに僕はまだまだ若輩で体も大きくない。舐められても仕方ないのかもしれない。
だけれども、動物にまで、それも使い魔となるべきフクロウにまで舐められるようでは人としてのプライドは傷ついてしまう。
ここはいっちょ、人間様の力を見せつけておくべきだよね!
「見せてあげるよ、僕の実力を。見て震えろ! 感じてひれ伏せ! たかがフクロウ程度、眠らせちゃえばこっちのものだ!」
校内で個人的な魔術の使用は基本的に認められている。危険なものや迷惑行為になるものでない限り、魔術師としてのスキルを存分に発揮できる。
魔術杖を構え、体内を廻る魔力に意識を集中する。
魔力を現象として引き起こすイメージを想像する。
想像を現実に引き起こすための魔術を、創造する。
「我が内に流れる魔力よ! 彼の者に安息なる眠りをもたらせ! スリープ・カー!」
杖から光が放出する。その光は対象の精神に働きかけ、強制的に眠りへと誘う魔術だ。
「……! …………! ………………」
フクロウは抵抗しようとバタバタともがくが、段々と動きが鈍くなっていき、やだてころんと床に転がった。気持ちよさそうに寝ている。
「やった! まったく、手こずらせやがって」
三流以下のセリフを吐いて落ちた紙を拾い上げる。汚れてはいないようで一安心。
すると、眠っていたはずのフクロウがハッと目を覚まし、牙を剥いた。
いや、鳥に牙はないのだからそれはただの比喩だけれども、僕の心証としては場に則した喩えだと思うほどの、噛みつかれたと言っても差し支えないような見事な突きが手を襲い、激痛が走ったのだった。
「い、痛たたたた!」
怒ったフクロウは僕の手を頭を体を足を、突いて突いて突いて突いて突きまくった。
やがて気が済んだのか、満足そうに羽ばたいて天高く舞い上がっていった。
後に残されたのは、もみくちゃにされ、ボロボロの体に羽まみれ、惨めな人間の姿だった。
それは僕のことだった。
「ひ、ひどい目に逢った……」
本格的に使い魔の使役を勉強するにはまだ先のことらしいけど、今からその授業への不安が高まった。
なにはともあれ。
ようやく成績書は手に入れたのだ。もうこんなところに留まっている必要はない。さっさとおさらばしなくちゃ。
「……この紙に僕の未来が書かれてるんだよね」
折りたたまれた羊皮紙。村にいる間は見たことのないものだけど、この学院ではよく使われる。先生が魔術の研究成果をまとめたり、図書館に収められた蔵書なんかでも目にすることがある。縁のなかったものがこんなにも身近にありふれている様は、文化の違いを見せつけられたような気がして軽くショックを受けたのも記憶に新しい。
「……ん? あれ?」
違和感。
黒いインクで文字が書かれている。
本来なら僕の名前が記されているはずであろう場所に、見慣れない名前が書いてあったのだ。
「『イオン・テイル』……」
僕の名前はライト・アングルなので、これは僕のものではないことは明らかだ。でも、なぜ僕のもとに来たんだ?
「誰にでもミスがあるように、フクロウにもミスはつきものじゃ。なにせ鳥頭じゃからのう。ま、彼らを責めてやるでないぞ。小さきものに慈愛を。寛大な心を持つのじゃ。もしも配達が間違っていたら、本来の主に手渡してくれ」
学院長にそう言われてはこれ以上追及できまい。
本来の主、イオンテイル。
名前からすると女の子のようだ。
「んー、どこかで聞いたような名前だ」
一年生で千人いるといっても、一同に会す機会など今回くらいなものだった。それでも僕の記憶に引っかかるということは、どこかで僕と接点があったということに他ならない。おそらく、同じ授業を受けたことのある学生に違いないだろう。
名前に見覚えがあろうとも、顔が全然浮かんでこない。僕の交友関係の狭さが仇となった。
「もう三割くらいの人が出て行ったみたいだから……残りは七百人くらいか」
その中にイオン・テイルなる人物がいるはずだ。それを探し出さなければならない。
「無理だー!」
考えるだけでぞっとする話だ。ひとりひとりに声をかけて「あなたはイオン・テイルさんですか?」と尋ねて回る。途方もない難業だった。
あるいは、人に頼る手段もある。知り合いに手伝ってもらえばより効率的に探し出せるはず。ただひとつにして最大の欠点は、僕に頼みごとができるような知り合いなどほとんどいないということ。いや、ほとんどというのも誇張した表現で、実際は唯一と言える友人のロック・ソルトくんしかいない。未だ混乱の治まらない中から彼を探し出すことは、イオンさんを見つけることと変わらない難易度のように思える。
「となると、僕が取れる策は……最後まで残るってことかな。考えてみれば、相手は僕を見つけない限り出られないんだから、それが一番確実な方法だよね」
僕の成績書が届いた人もきっと同じように困っていることだろう。交友の規模が小さい僕の名前を知る人物が果たしてどれほどいるか。
「まあ、その辺に捨てられる可能性っていうのも、全くないわけではないけどね。それにしたって人数が少なくなってからの方が探しやすいか」
前向きなのか後ろ向きなのか。単に楽観主義なのか。それが僕だった。
邪魔にならないように、それでいてフクロウの被害を受けないように壁際に立っていよう。人の間を縫って進もうとする。
が、しかし。
「うわったった!」
フクロウのフンが巻き散らかされる弊害は、不愉快で不衛生で臭いというだけではない。もと直接的な危険。
ようするに、滑りやすい。
「おおおおう!」
まるで氷上を滑るように、足が取られる。軸足が床から離れたので、転ばないようにもう片方の足を出す。重心が前になった加え、床の滑りやすさ。
推進力を得た僕の体は自身でコントロールできないくらいに加速してうわあああ!
「おうっ!」
「きゃっ!」
「ごめんなさいいいー!」
周りの人にぶつかりながらもどんどん速度が増していく。どこまでいくんだ、これ!
前方に人がいるのが見えた。このままでは激突間違いなし。しかし僕はもう自分で止まることができなかった。
「ど、どいてーっ!」
衝撃に備えて目を瞑る。
だけど、想定していたような衝撃はなかった。
とん、と。
その人物は僕の体をくるくると回転させて勢いを殺し、がっしりと支えてくれた。さながらダンスの一場面のように。
「大丈夫?」
僕を気遣う優しい声で、女の子だということがわかった。
「あ、ありがとう。助かったよ」
思いのほかがっしりと支えられている。背中に手を回されていて、なんとなく恥ずかしい。
きれいな女の子だった。
女の子特有の細身で柔らかい体を、正装であるローブに身を包んでいる。僕よりも身長が高く見えるのは、艶やかで鮮やかな青髪のてっぺんからぴょこんと飛び出た毛が立っているからだろう。肩のあたりで切り揃えられた後ろ髪は外側に向けて跳ねている。思わず見惚れる、精悍でありながらもあどけない顔。僕よりも年上、もしも僕に姉がいたらこんな人がいいなと思えるような女の子。
「あ、あの……?」
なぜかその子は僕のことを離そうとしない。抱きかかえられるように支えられている。このままでいるのは正直言って恥ずかしい。僕だって健全な男であるが故に、きれいな女の子にこんなにも密着されると、心臓が飛び出そうなほど脈打つ。彼女は僕の赤くなった顔を覗き込んだまま動かない。
「も、もしもーし」
「動かないで」
有無を言わさぬ、ぴしゃりと言い切られた。
もしかしてぶつかったことに怒っているのかな、なんて思うけども、どうにも怒っているような様子ではない。真剣な眼差しで僕を見つめる以外、彼女の感情を読み取る要素は見られない。
っていうか、今の僕は女の子に抱えられて見つめられてるのか!?
なんなんだ、この人は。
そしてこの状況は!
唐突に、彼女の頭が揺らぐ。揺れたように見えたのは僕の頭の位置が低かったからで、実際には彼女の顔が僕に近づいてくるのであった。
吸い込まれるような、青い瞳。
長い睫。
形の整った鼻。
それらがだんだん迫ってくる。
小さい口からこぼれる吐息が僕の鼻先にかかって、硬直した僕は彼女に身をゆだねるように目を閉じ――
「えいっ」
ばちん!
「ぎゃああああっ!」
軽快な音と共に顔全体を襲う痛み! 眼球が圧迫されたようで溢れるように涙が出る。
僕が身をよじると、
「あ」
という彼女の短い声が聞こえ、
「あ」
と僕が間抜けな声を出した。
彼女の支えから離れた体は引力に従い、落下した。
「……! ……!」
ぶつけた後頭部と叩かれた顔面の両方から来る痛みを、声を殺して耐え忍ぶ。
「暴れると危ないよって言おうとしたんだけど――遅かったね」
「暴れたのは確かに僕が悪いけど、その前に僕を叩いたのはあなたですよ!?」
「いやあ、叩くつもりなんてなかったんだよ? ライトくんの目にフクロウの羽根が落ちてきそうだったから、取ってあげようとしただけなの。イメージだと、落ちる前にひょいっと掴んで取れたんだけどね。ちょっと勢いが付いちゃったみたい」
「ちょっと!? あれがちょっとの勢い! バチーンってすごい音だったよ! 眼が潰れるかと思った!」
「うん、潰れなくてよかった。変な感触があったからね」
「変な感触!」
「なんかこう、ぐにゃっと」
「ぐにゃっと!」
羽根が目に入っていた方がまだダメージは少なかったと思う。な、涙が止まらない……。
「ゴメンね、ライトくん」
手を差し伸べる彼女。眼を拭って、その手に掴まった。
ん、今、僕のことをライトくんって呼んだ?
「あれ、僕の名前言ったっけ?」
「そりゃあ、同じ授業受けてるからね。何度も見かければ自然と覚えるよ」
さも当然のように語るも、僕のような特徴のない学生まで憶えておけるなんて、けっこうすごいことのように思う。
「僕と同じ授業を受けてたって言ったね。それは好都合だ。実は今、僕は人を探してるんだよ。多分だけど、その人も同じ授業を受けていたと思うんだ。君ならば知っているんじゃないかな。イオン・テイルっていう人なんだけど」
成績書を見せる。この子ならばきっと名前だけでなく、顔まで覚えているはず。協力を仰げればぐっと効率が良くなる。出会い頭で申し訳ないけれど、頼らせてもらおう。
しかし彼女はぽかんと口を開けた。
「いやあ、私も目立つ方じゃないから仕方ないけどさ、ほぼ毎日顔を合わせているはずなんだから、名前くらい憶えてて欲しかったな」
「え……? え?」
そう言うと彼女は成績書を引っ手繰った。
「ま、何はともあれ持ってきてありがと、ライトくん。改めまして、私の名前はイオン・テイルといいます。よろしくね」
「えーっ!?」
本人だった! あまりにも失礼! 申し開きもできない。
「ご、ゴメン! 僕、田舎の出身だから人を憶えるのが苦手なんだ。僕が田舎にいた時も、間違えて妹を違う名前で呼んじゃったことがあるくらいなんだ。間違えた名前というのが実家で飼ってる牛の名前だったもんで、妹を怒らせちゃったほど人の名前を憶えられないんだ」
「さすがに家族の名前を間違えるのはどうかと思う」
ごもっともで。
「それよりさ、私の方もライトくんに用があったんだ。はいこれ」
そういって、彼女――イオンさんは自分で持っていた成績書を渡してくれた。氏名はライト・アングルとある。
「どうやってライトくんを探そうか考えたけど、キミが来てくれて助かったよ。でもまさか、お互いに入れ違ってたなんてね」
ちょっとびっくり、と笑った。
イオン・テイル。
そうだと言われてようやく思い出す。確かに、イオンさんと同じ教室で授業を受けていた。それどころか実習でも何度か一緒にやったこともあった。彼女は授業で困っているところを見たことがないくらいに優秀。僕なんかと比べるまでもない秀才だ。もっとも、僕なんかと比べればほとんどの学生が優秀と判断されるだろう。目立ったような行動はあまりなく、事務的な対応を除けば僕との交流は全くと言っていいほどなかったため、印象が薄かったことは偽りようもない。
「ところで、見た?」
「な、何をですか?」
同級生だけどもついつい畏まってしまった。
「私の成績」
「いえ、見てません」
「やだなあ、そんなに畏まらないでよ。一緒に勉強した仲じゃない」
イオンさんは笑った。
「ああ、安心して。私もキミのプライバシーを覗くことはしなかったから」
「それはありがたい。僕の成績は人に見せられるようなものじゃないからね。イオンさんが見てないというなら、少しだけ僕の名誉は守られたみたいだ」
「ちょっと知られたくらいでなくなるような名誉なんて、初めからないようなものじゃん」
「そ、そうですね……」
何気にキツイこと言われた気がする……。イオンさんが笑うので、僕もつられて笑った。
こうして笑いあえるのも、フクロウの誤配送のおかげだ。こんな機会でもないと、僕の記憶に彼女の存在は記録されなかったかもしれない。そう考えれば、迷惑でしかなかったフクロウにも少しだけ感謝の気持ちが芽生える。
「ところで知ってる? このフクロウを使った式は『フクロウの儀』っていうんだって」
「へえ。それはまた、そのまんまなネーミングだね」
「ところがね、人によっては『フクロウの犠』ともいうんだってさ」
「儀式ならわかるけど、犠牲? それはまた、穏やかじゃないネーミングだね。まあ、『フクロウの蟻』なんて名前よりかはマシだろうけど」
「というのも、初めて試験を終えた一年生が真に学院の一員になるための『儀式』であり、フクロウたちのおもちゃである『犠牲』になるからなんだって」
先生が言ってたの。そう付け加えた。
阿鼻叫喚はまだ収まらない。この場に残っている者の中で無事と言える人なんかいないんじゃないかと思えるほどの惨状だった。
だけども、なんだって学院長はこんなことをしたのか。イオンさんの口ぶりだと、思いつきでやってるのではなく伝統になっているようだけど、先輩たちもこの洗礼を受けたのだろうか。
特に意味があるように見えないこのイベントだけど、僕の頭では理解できないような高尚で崇高な理由が学院長にはあり、凡人では覆せない強固な道理があるはずだ。そんな聡明で明敏な頭脳を持った学院長を僕は、
「何でこんなことをしたかって? かっかっか。意味などないわい! ただの遊びじゃよ、遊び。諸君、わしのイタズラに付き合ってくれてありがとう! そろそろ飽きたからわしは帰る! それでは、また会おう!」
殴りたいと思った。