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第9話:約束

拓海の言ったとおり、後遺症は少しずつ彼の記憶を奪っていった。

人の名前や顔、道具の使い方、簡単な計算式――ほんとに少しずつだったが、それらは確実に彼の記憶の中から消えていった。

私は彼が私の病室に移ってきたことをきっかけに、彼専属の家庭教師になった。

この前は、掛け算の七の段を教えたっけ。一生懸命復唱している彼の姿を見て、思わず口元が緩んだのを覚えている。

そして夜になると、私たちは片方のベッドに座って、窓の外を眺めながら話していた。

彼の肩に自分の頭をあずけていられる瞬間が、一日のうちで一番幸せな時間だ。

この間、彼に『夜の千瀬は昼間と違って、甘えん坊だな』なんて言われたときは、顔から火が出そうなくらい恥ずかしかったけど。

こんな生活に、私は満足していたが、やはり、彼が私のことを忘れたら、という不安は影のように私についてきた。

だから、彼が朝一番で『おはよう、千瀬』と言ってくれるのが嬉しかったし、一日一日を大切に生きていこうとも思えた。


「なあ千瀬、海行かないか?」


「え?」


ある日、彼が突然こんなことを言い出した。七月の暑さも本格的になった頃だった。

そういえば、昨日海開きしたばっかりだったっけ。


「確かに行ってはみたいけど、そこまでどうやって行くのよ」


私の知っている限り、ここから一番近い海でも、車で二、三十分はかかるはずだ。


「そこらへんは、看護婦さんに頼んだから大丈夫」


「看護婦さんに頼んだ!? ほんとに!?」


「ああ。『仕事が終わってからだったらいいわよ』って、けっこうあっさり」


看護婦さんの気のよさにも驚いたが、彼の行動力というのにも驚かされる。

私は大きなため息を吐く。


「で、いつ行くの?」


「今日だ」



彼の子供のような笑顔を見ながら、私はさっきより大きなため息を吐いた。


  ◆


午後六時になった。拓海の話だと、そろそろ看護婦さんが来るはずだ。


「二人とも準備できたー?」


そう言って現れた看護婦さんは、仕事終わりらしく、普段着を着ていた。いつも白衣を見慣れているせいだろうか、私は多少の違和感を覚えた。


「大丈夫です。行こうか、千瀬」


「うん」


彼が私の手を取って歩き出す。

途中で、看護婦さんが、日差しにあてられないようにと二人に帽子を渡してくれた。

病院から出るとそのまま駐車場に向かった。久々に歩く地上は、昼の熱気で少し熱を帯びていた。

やがて、白い軽自動車が見えてきた。


「じゃあ、入って」


私たちは促されるまま、後部座席に乗り込む。


「ほんとうに、大丈夫だったの?」


私は少し心配そうに、彼女の背中越しに話しかけた。拓海の急な頼みで、迷惑をかけているかもしれないと感じたからだ。


「大丈夫、気にしなくていいわよ。それにね、私もたまには仕事のこと忘れて、海を見るのもいいかなあー、なんて思ってるんだから」


そう言って、彼女は左手をひらひらさせてみせる。

普段は白衣の下に隠れている、意外な人間味に触れた気がして、私は心から『ありがとう』と言った。

エンジンがかかり、車は走り出した。

道路に出ると、いつも病室から見ていた景色にも、こうして見るといろんな顔があるのだとわかった。

近くで見ないとわからないことがたくさある。それを知ろうともしないで……いや、すべて知った気になって、諦観することしかしなかった過去の私を思い出すと、なんとも愚かだったと感じた。

車を走らせて二十分。並んでいたビルの数も少なくなり、だんだんと道が開けてくる。

やがて、フロントガラスの向こうに水平線が見えてきた。


「お、見えてきた」


彼が窓から身を乗り出す。私は横で、その美しさに目を奪われていた。

沈みかけた夕日に照らされ、オレンジ色に染まった海。波がたつたびに、水面がキラキラと輝いている。それは、どんな宝石も霞んでしまうほど美しく、雄大だった。

ため息が出るくらいきれいな海だ。こんな海、私の記憶にはなかった。

車は海岸を沿って走る。まだ砂浜にはまばらだが人がいるようだ。

サーフボードを持った若者や、家族連れ、カップルが自分の時間を楽しんでいた。


「もうちょっと端のほうまでいったら、人気も少なくなると思うわよ」


私たちに気を利かせてくれたのか、看護婦さんは海岸のもう少し先まで車を走らせた。

しばらくして私たちは車を降りた。目の前に見える砂浜には、さっきのように人はいなかった。


「じゃあ、私は車の中で待ってるから。好きなだけ遊んできなさい」


「よし、行こう千瀬!」


彼は私の手を握り、足早に砂浜へ向かった。その瞳はおもちゃを目の前にした子供のように輝いている。ほんとに子供っぽいと思いながらも、その気持ちがわからなくもなかった。

看護婦さんにもらった帽子を被り、靴を脱いで砂浜の上に立つ。柔らかい砂の感触が心地よかった。

一歩ずつ、砂の感触を確かめながら、波打ち際まで歩く。そのたびに濃くなっていく潮の匂いが胸を躍らせた。

波は穏やかに、寄せては引いてを繰り返していた。その中にそっと手を入れてみる。ひんやりとした波が優しく私の手にあたる。その後、白い泡沫が、するりと手の甲へ落ち、消えてゆく。

その消え方が言葉では表せないほどはかなくて、切なかった。


「おい、千瀬」


彼の声に振り向くと、いきなり水の粒が私のほほに当たった。横では彼がしてやったりといった顔でこちらを見ていた。

私はそれに答えることなく、黙ってうつむく。


「あれ? もしかして、怒った?」


一転して、心配そうに彼は私の顔を覗き込む。その瞬間、


「ウソ」


と言って、私は彼にも水をかけてやった。


それからしばらく、二人で海を眺めたり、おしゃべりしたりした。海に来たといっても、やっていることは何も変わらない。

今、彼の隣に私が座っているのも、いつもと変わらない風景だ。けど、なんだかすべてが新鮮に感じられた。


「ねえ、なんでいきなり海に行くなんて言いだしたの?」


私が尋ねると、彼は笑って言った。


「だって、行きたいって言ってたろ、千瀬」


そうだ。あのとき約束したんだ。海に一緒に行こうって。

私自身が忘れてた約束だったのに、いつ記憶が消えるともわからない彼が、ちゃんと覚えていてくれたことが、私はたまらなく嬉しかった。


「なあ、海見てるとさ、ああいうの思い出さねえ?」


「なに?」


「ほら、漫画とかだったらさ、よくカップルが波打ち際で追いかけっこするじゃん」


私は思わず吹き出してしまった。いつの時代の漫画だろうか。


「なにそれ。拓海、そんなことしたいの?」


私は笑いを抑えながら、彼に尋ねる。すると彼は目線を海にやったまま、私の右手を握った。


「そんなことしなくても、千瀬はここにいるじゃん」


そう言う彼の顔が赤かったのは、夕日のせいだったのかもしれない。


「そうだね……」


私も静かに握り返した。


「そうだ、写真撮ろうか。俺、カメラ持ってきたんだ」


彼はポケットの中からインスタントカメラを取りだした。

私たちは海をバックに、二人で並ぶ。


「ほら、もう少しよって」


「わかったわよ」


肩が触れ合う。いつも隣にいるはずなのに、なんだか変にドキドキする。


「はい、チーズ」


シャッター音が波の音に吸い込まれていった。


「じゃあ、もう一枚……あれ?」


「どうしたの?」


彼はばつが悪そうに頭をかいた。


「フィルム切れちゃった。さっきので最後だったみたいだ」


私たちは二人で叩き合って笑っていた。

このときばかりは、私の病気も、彼の後遺症も忘れることができた。


私ね、こんな時間がずっと続くと思ってた。

意味のないおしゃべりしたり、ケンカしたり、またこうして海を二人で眺めたりできるって、ずっと信じてたんだ。

――だから、だからね、私、知らなかったの。あなたが私に隠してたことの大きさも、あなたがこんなにも早く、私の前からいなくなっちゃうことも。

全部、知らなかったんだ。


この二日後の朝、彼が私に『おはよう』と言ってくれることはなかった。

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