第8話:涙の味
気がつくと、私は暗闇の中に一人でたたずんでいた。
黒い絵の具をそのまま塗りつぶしたように深い暗闇。一歩一歩、私は足元を確かめるようにそこを進んでいく。
すると、目の前に淡い光の塊が現れた。手を伸ばせば届きそうな距離だった。
目を凝らしてみてみると、その光は形を変え、だんだんと人の形になっていく。そして、私の目の前に現れたのは、優しく微笑んでいる拓海の姿だった。
「拓海……」
その拓海の姿に触れようと、私は手を伸ばす。しかし、その瞬間、それは後方に下がり、私の手は闇をつかんだだけだった。
私はそれでも必死で手を伸ばしたが、私が一歩進めば、そのぶんだけ拓海の姿は後ろに下がり、私の手は宙を空振りし続けるのだった。
「待って! 待ってよ!」
拓海は何も言わず、ただ笑って私を見ている。そして、その姿が徐々に後ろの闇に吸い込まれていくのがわかった。
「いかないで!」
私は駆け寄ろうとするのだが、その距離はいっこうに縮まる様子を見せない。
逆に、深い粘性の闇が私の四肢にへばりつき、走る力を奪っていった。
もどかしい。こんなにも近くにいるのに、触れることすらできないなんて。
「いや! いや!」
私の叫びもむなしく、彼の姿は完全に闇に飲み込まれていった。
◆
「夢……か」
目を開いた私の視界に見えたのは、白い天井だった。
上体をベッドから起こし、時計を確認する。朝六時。こんなに早く起きたのは久々だった。
あくびをかみ殺し、半覚醒状態の頭で、昨日のことを思い出してみる。
拓海と屋上に行って、星を眺めて、二人で肩を寄せ合って、私が告白して、それで――
「ふられたんだっけ……」
最後の一文が口から漏れる。私は自嘲気味に笑うと、引き出しの中から手鏡を取り出した。
真っ赤にはれた目に、乾いた涙の跡、ぼさぼさの髪型。
「ひどい顔ね」
鏡の向こうの自分に話しかける。向こうの自分も同じように口を動かした。
なんでこうなってしまったんだろう。どこで選択肢を間違えてしまったのだろう。
告白なんてしなければよかった。今のままで我慢すればよかった。
次からどんな顔をして彼と話せばいいのか。いや、彼は優しいから、何もなかったように話しかけてくれるだろう。でも、私には昔どおりなんてこと、できるわけがない。
繰り返す自問自答。私はひざを抱え、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
お昼になった。昼食を済ませ、テレビを見ていた私の病室に、美里がお見舞いにやってきた。
「やっほー、千瀬」
「久しぶり、美里」
私は普通に返事をしたつもりだったが、わずかな異変に気づいたのか、彼女はまゆひそめた。
「あれ? 千瀬、なんかいつもと違わない?」
「そんなことないよ。ふつうだよ」
「ウソ。絶対なんか私に隠してる。悩みがあるんなんら、私がなんでも聞くよ?」
私は悟られまいと、何度も否定したのだが、彼女は信じてくれない。人の心の変化をすぐに読み取ってしまうのは、彼女の長所でもあり、短所でもあった。
結局、その押しに負けた私は、昨日のことを白状することにした。
「実はね、昨日、拓海に告白したんだ」
それを聞いた彼女の目を見開き、まるでお化けでも見たかのように驚いた顔になった。
「拓海って、二ヶ月くらい前に入院してた子? また入院したんだ」
「うん、十日くらい前に事故でね」
「そっかー。あのときは千瀬、興味ないなんて顔してたけど、まさか好きになるとはねー。もしかして、最近笑うようになったのも、彼のおかげだったりして」
私は黙ってうなずいた。すると、彼女は今度は嬉しそうに微笑んだ。
「そりゃあ拓海くんに感謝しないとね。で、返事はどうだったの?」
私はしばらく間を置いた後、静かに口を開いた。
「だめだったよ。告白したけど、ごめん、だって」
しばらく美里は私の顔をじっと見ていたが、
「千瀬、なんでダメか理由きいたの?」
「きいてない。私じゃダメだよねって言ったら、『違う、そんなんじゃない。けど、ごめん』って……。でもね、私もういいの。美里にきいてもらえたし、もう大丈夫――」
「そんなのおかしいよ」
私の言葉を遮るように、彼女が口を開いた。その顔は明らかに不満そうだった。
「違う、けどごめんってなに? そんなの千瀬をふる理由になってないじゃん。私が千瀬の立場だったら、全然納得できないよ」
それから彼女は急に立ち上がり、私の手を握った。
「今から行こう、そいつのところに。行って、ちゃんとした理由、聞いてこよう」
「別にいいよ、そんなの。もう終わったことだし……」
「じゃあ、私ひとりでも行ってくるよ。いいの?」
彼女が決めたことは必ずやろうとする性格なのは、私はよく知っている。こうなったら、鬼だって彼女を止めることはできないだろう。
「しょうがないなあ……」
こうして、私は半ば強引に彼の部屋に行くことになった。しかし、それでも私が彼女を強く引き止めなかったのは、彼の部屋に行く口実を、自分自身に押し付けたいだけだったのかもしれない。
エレベーターを降り、廊下を歩く。いぜんとして、彼女は私の手を強く握り、ずんずんと前を進んでいた。
気がつくともう私は美里の手によって、扉の前まで来ていた。
「ちょ、ちょっと待って――」
心の準備など与えられるはずもなく、美里は扉を勢いよく開けた。
「たのもー!」
たのもーって……道場破りじゃないんだから。
いきなりの来訪者に、拓海は面食らったようにこちらを見た。
「千瀬と……あのー、どちらさまですか?」
当然の反応だ。
「私は千瀬の友達で美里っていいます。今日は、あなたに理由をききにきたの」
「理由って?」
「千瀬をふった理由よ! ごめんだけじゃちゃんとした理由にならないでしょ!」
彼は目線を下げ、黙り込んでしまった。悩んでいるのだろう。彼の苦悶の表情が目に浮かんだ。
「美里、もういいよ。帰ろう?」
「ダメよ。納得できるまで帰らない!」
「なあ……」
私たちのいい争いを止めたのは、以外にも、議論の中心となっている拓海自身だった。
顔を上げ、真剣なまなざしを美里に投げかける。
「美里、だったけ。ちょっと、千瀬と二人だけにしてくれないか?」
彼の提案に、私の胸が一度だけ、大きく鼓動した。
「いいわ。ちゃんと千瀬に理由を言うのよ」
そうして美里は、がんばれの合図だったのだろう、私の肩をポンと叩いて出て行った。
一人残され、立ちつくす私に、拓海は椅子を差し出した。
それに座ると、しばらく無言の時間が流れていく。
気まずい。お互いがうつむき、顔を合わさないようにしている。
いたずらに時間だけが過ぎていく。このままでは、美里がしびれを切らして部屋に戻ってきてしまう。
ふいに、私の視界の上から、一枚の写真飛び込んできた。
海をバックに、小学校低学年くらいの男の子が、男の人に肩車をしてもらい、その隣には女の人が肩を寄せて立っている写真だった。みんなとびっきりの笑顔で、私には幸せそうな家族の写真に見えた。
「これは?」
「その肩車してもらってるのが俺」
そういえば、どことなく拓海の面影がある。特にこの笑顔なんか、今と変わらない。
「じゃあ、この二人は拓海の両親?」
「多分……な」
「たぶん?」
彼は少しためらった後、意を決したように息を吐いた。
「思い出せないんだ。自分の親の顔も名前も」
「それ、どういうこと?」
彼は目線を少し上げた。
「医者が言うには、事故の後遺症だって……。記憶がだんだん消えていくらしい……」
今にも消えてしまいそうな弱々しい声。彼の体が小刻みに震えている。
そういえば、彼が海の写真を見せてくれたとき、一枚思い出せない写真があった。あのときからそうだったのだろうか。
「拓海……」
「怖いんだ。自分の大切な人を忘れるのが……。自分が一人になっていくみたいで。だから、これ以上辛い思いするくらいなら、もう大切な人なんてつくらなけりゃいいなんて思っちゃったんだ。バカだろ、俺?」
彼は笑って言った。でもその笑顔には、悲しみと自嘲が表れていた。
彼は話を続ける。
「俺さ、日に日に千瀬の存在が、心の中で大きくなってることに気づいたんだ。だから、この後遺症のこと昨日の夜言うつもりだった。言って、俺のこと忘れてもらって、自分の気持ちに区切りをつけようと思ってた。……けど、結局言えなくて……。そしたら千瀬、あんなこと言ってくるんだもん。俺、もうどうしたらいいかわからなくなってさ……」
私は自分の両手を強く握り締めた。彼のちょっとした変化にも気づかなかった自分が、腹立たしかったから。
「でもさ、今なら言える。もう全部話したしな」
拓海の口からつむぎだされるその先の言葉を、私は聞きたくない。それを聞いてしまえば、二度と元に戻れなくなると、直感的に思ったから。
「千瀬、俺のことはもう忘れて――」
私は衝動的に立ち上がり、彼の言葉を塞いだ。自分の唇で。
それが私のファーストキスだった。
「ん……」
唇を離す。彼は混乱と恥ずかしさで言葉を失っているようだ。
「忘れられるわけないじゃない……」
「千瀬……」
「私に生きることを教えてくれて、私が生まれて初めて本気で好きになった人を、そんなに簡単に忘れられるわけないじゃない!」
それから私は、彼を抱きしめた。いつか彼がそうしてくれたように。
「私は絶対に忘れない。拓海の記憶の中から私がいなくなっても、ずっとそばにいる。どんなことがあっても、絶対に!」
そして、彼は泣いた。『ありがとう』と何度も呟きながら。
私は彼が泣き止むまで、ずっと抱きしめていた。
やがて、彼は涙交じりの声で私に問いかける。
「なあ、今さらかもしれないけど、昨日の返事、改めてしていいか?」
「うん」
彼は抱きしめている私の体を離すと、そっと唇を近づけた。私もそれに答えるように目を閉じる。
今度は少し長めのキス。二度目のキスは、涙の味がした。
「やっぱりこういうのは、男からするもんだよな……」
そして笑った。彼らしい温かい笑顔だった。
「これからよろしく!」
「こちらこそ」
私もつられて笑顔になっていた。
◆
それから部屋を出た。廊下の角を曲がると、ベンチに美里が座っていた。
「どうだった?」
「ありがと、美里」
いきなり感謝された美里は、驚いて目を丸くした。
「美里がいなかったら、私、誤解してたままだった。全部美里のおかげだよ」
「千瀬、それって……」
私の笑顔を見て、全部悟ったのだろう。美里は満面の笑みを見せると、『おめでとー!』と私を抱きしめた。
自分のことのように喜ぶ美里を見て、私は決心した。
これから彼との思い出をたくさんつくろう。彼と私自身のために、できることはなんでもしよう、と。




