第7話:織姫と彦星じゃないけれど
拓海の手術が成功して三日後。私はいつもどおり、朝のまぶしい日差しに照らされ、目が覚めた。
今日から七月。梅雨の季節も終わり、これからは太陽の活動も活発になってくるだろう。
「千瀬ちゃーん、おはよう」
「おはよー……」
ちょうど検温をしにきた看護婦さんが部屋に入ってくる。
私は目をこすりながらあいさつを返した。
「そうそう、拓海くんね、昨日の夜に意識が戻ったらしいわよ」
その言葉で、私の眠気は一気に吹き飛んだ。
「ほんと!?」
「ええ。夜中に目が覚めてね、意識もはっきりしてるみたい。今日のお昼にでも、お見舞いに行ってあげたらいいわ」
「うん!」
拓海の意識が戻った。それだけで私の胸ははずみ、自然と顔がほころんだ。
昼食を済ませた私は、時間がくるまでテレビを見て待っていた。でも、その内容はまったく頭に入ってこない。心はすでに部屋の外にあった。その姿はまるで、明日の遠足を楽しみにしている小学生のようだ。
今の私を、昔の私が見たら、いったいなんて言うんだろう。
「そろそろ、いいかな」
時計を確認し、私は部屋を出た。
少し早歩きで病院の廊下を通り抜ける。看護婦さんに教えられたとおりに通路を行くと、一つの病室にたどり着いた。
扉の横の壁には『相沢拓海様』と名札が貼ってある。ここで間違いないようだ。
病室を前に一つ深呼吸して、扉に手をかける。
二ヶ月ぶりに会う彼は、私を見て、どんな顔をするのだろうか。
私には、話したいことがたくさんある。
前より素直になれたこととか、笑えるようになったこととか、生きていたいと思うようになったこととか――ほんとにたくさんある。
たくさんあるはずなのに――
「よっ! 千瀬」
彼が笑顔で私の名前を呼んだ瞬間、わけもなく涙がこぼれた。そして、搾り出すように一言、
「バカ……」
それだけしか出てこなかった。
「二ヶ月ぶりに会ったのに、最初の一言がそれかよ」
彼は苦笑いしながら、そばにあった椅子を指差した。私は涙を拭いてそこに座る。
「怪我、大丈夫なの?」
「ああ、骨折と、あと内臓に傷がついてたって言ってたかな。あとは、頭打ったから、今度検査するって」
彼はこの前とは逆の右腕に包帯、左には点滴をうっている。服の隙間から見える擦り傷や切り傷、頭に巻かれた包帯も痛々しかった。
「でも、もう大丈夫だよ。三日もぐっすり寝たからな」
「だからって、あんまり無茶しないでね」
無邪気に笑う彼を見て、私は改めて実感した。彼が帰ってきたのだと。
彼とこうやって話せて、同じ時間を共有できることだけで、私の心は幸福で満たされていった。
「なあ、千瀬」
彼が言いにくそうに尋ねる。
「なに?」
「ちゃんと守ってるか、死にたいなんて言わないっていう俺との約束。俺はさ、怪我しないって約束破ったけど……」
「うん。守ってる。それにね、生きていたいって思えるようになった」
「そうか。安心した」
そう言うと、彼は笑って私の頭をなでた。久々に彼のぬくもりに触れた気がした。
「そうだ、千瀬に見せたいものがあるんだ」
彼は左手でカバンの中を探ると、そこから写真を何枚か取り出した。そしてそれを私に手渡す。
写真に写っていたのは海だった。
「俺、昔から海が好きでさ。ほら、自分の名前にも入ってるし。それで、旅行行ったりしたときに写真撮るんだ」
水面に反射した光まで鮮明に映し出された写真を見て、私はまるで自分がその場にいるような感覚にさえなった。
「これを、私に?」
「病院じゃ、いつも同じ風景しか見れないからな。少しは喜んでくれた?」
「うん、嬉しい……」
その後、彼は写真について説明をし始める。
「これが中二のときの旅行で、これが高一のとき、でこれが――」
「これが?」
「……忘れた」
思い出せないのが悔しいのか、がっくりと肩を落とす彼。そんな彼を見て、私はいいことを思いついた。
「ねえ、約束破ったんだから一つお願い聞いてくれる?」
「内容によるな。あんまり難しいのはナシだからな」
「病気がもしよくなったらね、海に連れて行ってほしいな」
彼は間髪いれずに
「まかせとけ」
と笑った。
それから他愛もない話を重ねるうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
ほんとはもうちょっとこうしていたいが、午後の回診もあるからそろそろ病室に戻らなくてはいけない。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
私が扉の近に立ったときだ。彼はふいに私を呼び止めた。
「今月の七日、夜の九時くらいに、ここに来てくれ」
私は『わかった』と言って、扉を閉めた。
◆
七月七日。私は言われたとおりに九時に彼の病室の前にやってきた。
これからなにが起きるのかはわからないが、とりあえず部屋に入る。
「来たよ」
「よし、じゃあ行くか」
「行くって?」
「ついてくりゃわかるよ」
彼はブランケットを一枚、折りたたんで脇に抱えると、私の手をとって歩き出した。大事故にあった様子はまったく感じられないほど、回復しているようだ。
エレベーターに乗り込み、最上階のボタンを押す。私は期待と不安でただ点滅するボタンを見ていた。
最上階にたどり着くと、私たちはその裏手にある階段に向かった。その先は、もちろん屋上へと続いている。
「この屋上、十時までは開いてんだ」
ドアノブに手をかける。低い音とともに、ドアが開かれた。
屋上は、二メートルほどの高さの柵が周りを囲い、貯水タンクとベンチがあるだけの空間だった。
私はここに来たことがなかったが、居心地は悪くない。
風もなく、初夏の夜の澄み切った空気が流れていた。
彼は私をベンチまで誘導し、肩にブランケットをかけた。夏といっても、まだまだ夜は肌寒さを感じる。彼なりの優しさが嬉しかった。
「なにしにここに来たの?」
「ほら、空、見てみ」
私の隣に座った彼は、指を上に突き出す。そこには、夜の闇を切り裂くように、乳白色の星の川がかかっていた。
その美しさに、私は息をのんだ。
「そっか、今日は七夕だったね」
「そうゆうこと」
今まで、あまり七夕を気にしたことがなかった。幼稚園や、小学校低学年くらいの記憶も、なんともあいまいなものだ。
だから、その美しさに目を奪われた私は、瞬きすることさえ忘れ、星空を眺めた。
いつも窓という限られた範囲でしか見ることのできなかった空が、今はこうして見渡すことができることに、私自身も解放された気分がした。
「ほら、拓海も寒いでしょ? 入りなさいよ」
「お、俺はいいよ」
「恥ずかしがらなくてもいいじゃない」
彼は渋っていたが、根負けしたのか、とうとう私と肩を並べて、ブランケットをかけた。
しばらく二人で話しをしていると、
「それにしても、今日が晴れててよかったな。織姫と彦星もちゃんと会えてるだろうな」
織姫と彦星――そんな彼の言葉に、思わず自分と彼を重ねてみる。
織姫と彦星は、今日、この一日のために一年も待つ。
しかし、たった二ヶ月という期間も私にとっては、その二人に負けないくらい長く感じた。そして、再会した喜びも同じくらい貴重なはずなんだ。
そっと彼の横顔を見る。
今度、彼が退院すれば次に会えるのはいつだろう。もしかしたら、次に事故が起きれば助からない可能性もある。それに、私が先に死んでしまうことだって――。
胸がきつく締められる。発作ではないけど、とても苦しい。
この気持ちは、大人になって言うって決めたはずだった。でも、今を逃せば、もう機会はめぐってこないかもしれない。
だったら――
「ねえ……」
「ん?」
彼の顔を直視できない。心臓が張り裂けそうなくらい高鳴っているのがわかる。
「あのね……ずっと、言いたかったことがあるんだけどね……」
彼は黙って私の言葉を待つ。
伝えるんだ。ちゃんと自分の気持ちを。
「……き……なの」
「え? 聞こえなかった」
「拓海のことが好きなの! ……だから……このまま友達のままなんて……やだ」
顔が熱い。私の弱い心臓が、内側から強く叩いているのがわかる。
彼は驚いたように目を丸くした。そして、しばらく考えた後、もう一度、空を見上げた。
「……ごめん」
拓海はただ一言、そう呟いた。
風は吹いていないのに、背筋に寒さを感じた。
「そ、そうだよね……。私じゃ、ダメだよね……。なんだか私、勘違いしてたみたい」
必死に強がって、笑ってみせる。
「違う! ……そういうことじゃないんだ……。けど……ごめん」
拓海は申し訳なさそうに目線を下げる。
私は心のどこかで、いい返事を期待していた。きっと彼も私のことが好きだ、なんて勝手なことを考えていたいたのかもしれない。
でも、返事はその反対。
だったら、あんまり勘違いをさせるようなこと、してほしくなかったな。優しさや笑顔を私に向けてほしくなかった。
そうすれば、こんなにも胸が苦しくなることもなかったのに。
それからのことは、あまり覚えていない。
どちらからともなく、帰ろうと言いいだし、私は彼を見送らずに、自分の病室のある階でエレベーターを降りた。
それから、すぐにベッドに横になった。
そして、嗚咽を漏らすように、泣きながら夜が明けるのを待つのだった。




