第6話:曇天
彼が退院して、ちょうど二ヶ月がたった。私の期待を含んだ予想に反して、拓海はここに戻ってこなかった。それはそれでいいことなのかもしれないが。
この二ヶ月間、拓海が私に残してくれたものはとても大きなものだったことを感じた。
まず素直になれた。
人と話すときも、相手の目を見て話せるようになったし、なによりつまらない意地を張ることがなくなった。感情も、以前と比べて表に出るようになった。この前お見舞いに来た美里が喜んでたっけ、『千瀬が笑うようになった』って。
あと私が一番変われたと自覚したところは、生きたいと思うようになったことだ。
先週、発作を抑制する薬の量が増えた。それは私の命が、ゆっくりと、しかし確実にすり減っていることを、私に知らせている。
以前の私なら、そのことに何も感じないまま、ただ人を嫌い、自分を嫌いながら死までの日々を過ごしていただろう。
しかし、今の私は違う。その事実をしっかりと受け止めながらも、生きることを諦めてはいない。
『私はまだ生きていたい』という強い意志が、私の中に宿っているのだ。こんなにたくさん私を変えてくれた彼に、感謝しなくてはいけない。
私はベッドの上から、窓の外を眺めていた。
六月の夜空は、その大半が雲に覆われているせいで、ほとんど星は見えなかった。
その代わり、地上に転々と光る明かりが目立つ。赤、青、黄といったさまざまな色の光が、星の代わりに地上を照らす。生命のにおいが漂うそこは、これからが本番のようだ。
「千瀬ちゃん!」
突然、後方の扉が勢いよく開く。
ノックもしないで看護婦さんが入ってきた。どういうわけか、息が荒かった。
「どうしたの、そんなに慌てて」
彼女は息を整えるのも忘れ、口を開いた。
「拓海くんが……拓海くんが……」
人からその名前を聞くのは久々だった。その言葉を聞いたとき、私の脳裏に彼の笑顔がフラッシュバックする。
「拓海くんが、事故で……」
「事故? そっか、またやっちゃったんだね、あいつ。二ヶ月か……あいつにしてはがんばったほうじゃない? で、また骨折?」
「千瀬ちゃん!」
彼女の口調が急に強くなる。私は顔をしかめた。違和感が背中を這っていくのを感じた。
「拓海くんがね……事故で……今、危険な状態らしいの……」
搾り出すようにして彼女の口から出てきた言葉に、私の周りの時間は一瞬止まった気がした。
「え? 今、なんて……」
「詳しいことはわからないけど、今、下で緊急手術してるらしいわ」
思考が完全にマヒする。さっきまで浮かんでいた彼の笑顔は、まるでテレビに映った砂嵐のように消えていった。
「ウソ……ウソよ、そんなの……。信じたくない!」
私は両手で耳をふさいで、全てを否定するように頭を横に振った。目をつむって、視界を暗闇の世界に放り込む。
そう、きっとこれは悪い夢。そうに違いない。次に目を開けたとき私が最初に見るのは、白い天井のはずだ。
そう自分に言い聞かせ、目を開ける。
しかし、私をあざ笑うかのように、そこにあった景色は何一つ変わってくれてはいなかった。
「……拓海はどこで手術してるの……?」
「一階の、東側にある一番奥の手術室――千瀬ちゃん!?」
彼女が言い終わるよりも早く、私の足は動いていた。
部屋を飛び出し、エレベーターに向かって走り出す。
後ろで看護婦さんが私の名前を呼んでいるようだったが、すぐに聞こえなくなった。エレベーターが開くとすぐに私はそれに乗り込み、扉を閉める。一階のボタンを押すと、エレベーターは動き出した。
斜め上にある階表示のランプの点滅が、徐々に一階へ近づいていく。
そのときの時間の流れを私はひどく遅く感じた。
扉が開く。私は急いで駆け出した。
夜の病院というのは寒気がするくらい静かで、それがかえって私の不安をあおっていく。
だから、私はそれをかき消すために、走り続けた。
途中で、足がもつれて転んでしまった。思えば、入院してから、こんなに走ったことはなかった。胸も苦しくなってきた。
それでも、私は走ることをやめない。今は、彼への想いだけが、私を駆り立てている。早鐘を鳴らす心臓と同調するように、私の足も速くなっていた。
しばらくして、私の視界の中に、『手術中』という赤いランプが点灯しているのが見えてきた。
「はあ……はあ……」
短い息を何度も吐きだし、胸を抑えながら壁際にあるベンチに腰をおろした。手術室の分厚い金属扉が鈍く光り、私をこれ以上近づけないように威嚇しているように見える。今はこうして待つことしか、私には許されないのだ。
時計が時を刻んでいく音以外、何も聞こえない。
熱くなっていた体の火照りは少しずつ冷めていき、徐々に冷静さが戻ってきた。そのせいだろう。私の脳裏に再び彼の笑顔が映った。それだけではない。彼が私にくれた言葉や、抱きしめてくれたこと、彼との思い出が濁流のように押し寄せ、一気に私を飲み込んでいく。
やがてそれは涙に形を変え、床を濡らした。
私が死んだら、泣いてくれるって約束してくれたじゃない。
それなのに、ひどいよ……。
私、まだ拓海にあのときのこと『ありがとう』って言ってないのに。まだ拓海に『好き』って言ってないのに……。
私は涙をこらえることもせず、泣き続けた。
◆
いったいどれくらいの時間がたったのだろうか。
永遠とも思えるくらい長い間、ここに座っていた気もする。
涙は枯れて、私のほほには塩の道ができていた。
赤いランプが消える。私は反射的に立ち上がった。
分厚い扉が開き、ストレッチャーに乗せられた拓海が運ばれてくるのが見えた。その後、執刀医だろうか、男が一人、マスクを外しながら現れた。
私は彼に駆け寄りたい気持ちを抑え、その医師に尋ねた。
「手術は、どうだったんですか?」
「君は?」
「えっと……友達です」
「そうか。よかったね、手術は成功したよ」
にっこりと笑ってその医師は言った。
その瞬間、私の体の力はすっと抜け、糸の切れた操り人形のようにその場にへたりこんだ。
「おっと、大丈夫かい?」
「あ、すいません……」
医師が私の体を起こしてくれた。そして一つ息を吐き出した。
「実はかなり難しい手術だったんだ。事故の目撃者の話から考えても、手術が成功する確立はほとんどないと考えてもよかった。だけど、手術は成功した。もちろん私も最善は尽くしたけど、それ以上に、彼の生命力の強さが大きかったんだと思うよ」
そうだ、私は大事なことを忘れてた。彼はあの世に嫌われてるんだ。こんなことでは、彼は死なない。
「本当に、ありがとうございました」
私は深々と頭を下げた。
「いいよ。君も早く自分の病室にもどるといい」
「え? なんでわかったんですか」
「君の履いてるスリッパ、ここの病院のものだからね。それで」
「そうだったんですか……。あの、彼のお見舞いは……」
「さすがに今日は無理だね。そうだ、意識が戻ったら君の病室に連絡がいくように、僕から話しておくよ」
「ありがとうございます」
それから私は名前と部屋の番号を言った後、もう一度深く頭を下げた。優しい人でよかったと思った。
私が病室に戻る途中、あのときの看護婦さんがナースステーションからでてきた。
「千瀬ちゃん、拓海くんどうだった?」
「成功したって、手術」
「そう、よかったわね」
彼女は笑顔で胸をなでおろした。
病室に戻った私は、時計を確認する。すでに日付は変わっていた。
ベッドに横なると、緊張の解けた体には、すぐに睡魔が襲ってきた。
目を閉じる。心地よい疲労は、すぐに私の意識を奪うには充分だった。




