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第5話:そして私は恋をした

彼が入院してきて、一週間がたとうとしていた。

美里がお見舞いに来た日以来、私にあった拓海への嫌悪は、春の陽気にあてられたのか、氷が溶けるみたいになくなっていった。


いよいよ明日は拓海の退院の日。また明日から静かな日々を送ることができて嬉しいはずなのに、私の心の中には、はがしきれていないシールのような感覚が残っていた。

それは他でもない、拓海のことである。

あの日の彼の笑顔が、私の中からどうしても離れてくれない。あの、陽だまりのような温かい笑顔が。


なぜ、こんなふうになってしまったのか。私は食事にもろくに手をつけずに考えた(まあ、それはもともとなのだが)

そして、一つの結論がでてきた。


――私は拓海が好きなのだ――


そんな結論がでた瞬間、私は首を横に振った。それはもう、首が飛んでいかんばかりの勢いでだ。


私が拓海のことを好き? あんなおせっかいで、おしゃべりで、礼儀のかけらもないような男に、私が恋をしてるだって?


「ありえないわ……」


「ん? なんか言ったか?」


ついたての向こうから拓海が問いかけてきた。


「な、なんでもない!」


そう言う私の声は若干うわずっていた。

どうやら私は思っていたことを口に出してしまうときがあるようだ。今度から気をつけなくてはいけない。


「そっか。あ、俺ジュース買いに行くけど、千瀬欲しいものある?」


「別にいらない……」


拓海は『わかった』と言って、病室を出て行った。

扉が閉まり、彼の足音が完全に遠のいたことを確認すると、私は体の奥深くにあったものをすべて吐き出すように、盛大なため息を吐いた。

こんな気持ちになったのは、入院して以来、いや、おおげさかもしれないが、今まで生きてきて初めてかもしれない。

それがなんなのかはまだ理解することはできないが、少なくとも、マイナスのものではないことは確かだった。


「どうしちゃったんだろ、私」


言ってはっとして、自分の口を抑える。思ったことを口に出さないようにすると、さっき決めたばかりではないか。

私はベッドから降りると、窓の近くまで歩き、足を止めた。

外を眺める。

私の心とは対照的な、雲ひとつない快晴。太陽は憎らしいほど下界を照らし、人たちもいつもと変わらぬ歩みを続けていた。


そろそろ拓海が帰ってくる。ベッドに戻ろうか。

そう思った刹那、急に私の視界がぶれた。そして同時に襲ってくる、激しい胸の動悸。まるで灼熱の手で心臓を鷲づかみにされている感覚。


「っつ……っく……!」


私は胸を押さえてその場に倒れこんだ。そして、ベッドにあるナースコールまで体を引きずるようにして近づく。

せめて、窓のそばにいなければ、すぐにナースコールができたはずだった。

体が鉛のように重い。力もほとんど入らない。もう私の体は限界に近かった。

そこで私は悟った。これは運命なのだと。

私が窓の近くにいたときに発作が起こったのも、すべて運命なのだ。

そうか、やっと向こうからのお迎えがきたようだ。これで、胸の痛みとも、このわけのわからない感情ともおさらばできる。よかったではないか。これで、これで――。

そこで、私の意識は完全に闇へと消えていった。


   ◆


(…瀬……ろ…千…起き…………ろ…千……瀬…)


暗闇の中、何かが小さく耳に響く。

その音はしだいに大きくなり、段々と私の耳に届くようになる。


「千瀬起きろ!!」


この声は、拓海? ヤダなあ、あの世にまでついてくる気なのだろうか。これじゃあ、こっちに来た意味が半減するじゃない。


「千瀬起きろ!!」


うるさいわね……別に寝てないわよ。目を閉じてるだけ。今開けるから黙っててよ。


私はゆっくりと目を開ける。最初に見えたのは三途の川でも、きれいな花畑でもなく、白い天井と目を潤ませた拓海の顔だった。


「あれ……私……死んだんじゃ……」


「千瀬……よかった……」


よく見ると、私のベッドの周りには、数人の看護婦さんと、私の主治医の先生がいた。みな私の顔を見るなり、安堵のため息を漏らしたり、よかったなどと言っているようだった。


「千瀬ちゃん、よかったわね」


一人の看護婦さんが私に話しかける。


「看護婦さん、私……」


「拓海君がね、倒れてる千瀬ちゃん見つけて、急いでナースコールしてくれたのよ。もし、もうちょっと対処が遅れてたら危なかったんだから。さあ、もうちょっと休んでなさい」


そうか、私は生かされたのか。

そう思った瞬間、私はもう一度目をつむった。


私が目を開けると、もうさっきのように大勢の人はいなかった。その代わり、拓海が私のベッドの横のイスに座っているのがわかった。

どれくらいの時間がたったのかは正確にはわからないが、外の景色がオレンジ色に変わり始めていることから考えれば、そうとうな時間が経過したのはわかる。


「もう起きてて大丈夫なのか?」


拓海が心配そうに尋ねる。


「ずっと、そこにいたの……?」


「ん……まあな」


「何時間くらい?」


「四、五時間くらいかな」


「そう……」


私は横になっていた体を起こす。体は少しだるいが、もう胸の痛みはなかった。


「ねえ……」


「なんだ?」


つい数時間前までの決心はどこかへ消えてしまったようだ。私はまた、思っていたことを口に出す。


「……なんで、助けたの?」


私の口からでてきたのは、彼に対する感謝の気持ちなんかではなかった。


「なんでって……人を助けるのに理由なんていらないだろ」


腑に落ちないといった表情で彼は答える。

そこから続く私の言葉は、多分、最低だ。


「あんたが助けたりしなかったら、あのまま死ねたのに……。もうこれ以上、苦しまなかったかもしれないのに……!」


私は自分自身を制御できなくなっていた。感情のおもむくままに、彼に言葉を投げつける。


「わざわざ私なんかを助けたりして……バカよあんた! 意味わかんない!」


彼は一言もしゃべらず、私の顔をじっと見つめていた。彼の顔は無表情だった。


「ほんと、あんたは――」


そう言いかけたときだ。突然彼が立ち上がり、怪我をしていない右手を挙げた。

私は瞬間的に殴られると思い、目をつむる。


しかし、その右手は私の右手をつかみ、そのまま私の心臓のほうへ持っていった。

「お前のココは、本当に死にたいって言ってんのかよ! 弱々しくて、不定期な鼓動かもしれないけど、必死に生きたいって言ってんじゃねえのかよ!?」


そして次の瞬間、私の体は彼の腕に包まれた。


「ちょ、ちょっと――」


「死にたいなんて、悲しいこと言うなよ……」


彼は、泣いていた。

それでも私は素直になれなくて、


「私が死んだって、悲しむ人なんかだれもいないのに……」


「だったら俺が、千瀬のために泣く。だから死ぬなんて言うなよ」


彼はいっそう強く、私を抱きしめた。

私の奥から熱いものがこみ上げてくるのがわかる。やがてそれは水の粒となって、私の目から落ちた。涙なんて、とっくの昔に枯れてしまったと思っていたのに。

そして同時に気づいた。

私は拓海のことが好きなのだと。

彼は私の世界を変えてくれた。死で覆われた闇の中で、もがこうともしない私を、必死でひっぱりあげようとしてくれた。

おせっかいで、デリカシーにかけているところもあるけれど、そんなのも全部ひっくるめて、私は知らないうちに彼に惹かれたのだ。

ただ一つ悔やまれるのは、その気持ちを伝える術を、今の私は知らないことだった。


「ごめん……」


私がそう言うと、彼は腕を解いた。

彼は服の袖で涙を拭くと、あのときと同じ笑顔を見せた。


「だいたいな、神様はそう簡単に死なせてくれないんだからな。俺みたいに」


「どういうことよ」


「俺さ、今まで五回も事故にあったけど、全部骨折だけですんでるんだ」


彼は自慢げに胸を張った。そんな彼がおかしくて、私は笑った。


「五回も!? あんたは例外なだけよ。きっとあの世に嫌われてるんだわ」


「そうかもしれないな」


それから二人で笑いあった。久しぶりに心から笑えた気がした。


   ◆


「じゃあ、一足先に帰るわ」


「うん」


そして迎えた彼の退院の日。彼は荷物を持って私の前に立っていた。


「絶対にお見舞いに行くから。そんときにまだ死にたいなんて言ってたら、しょうちしねえからな」


「わかってる。拓海ももう怪我するんじゃないわよ」


「うーん……なるべく気をつける」


「ちょっと!」


彼は『冗談だよ』と言って、私の頭をポンポンと軽く叩いた。


「おっと、もう行かなくちゃ」


彼が扉に手をかける。そしてもう一度私のほうに向き直る。


「久しぶりに楽しい入院生活だった。入院ってのも捨てたもんじゃねえな。じゃあな!」


こうして、風のように現れて、私の心を乱した彼は、また風のように去っていった。

私は結局、何も彼に伝えていない。でも、これでいい。いつかまた、大人になって、どこかでめぐり会ったときまで、この気持ちは取っておこうと決めたから。


しばらくして、看護婦さんが空きベッドの整えにやってきた。私は彼女に言った。


「看護婦さん」


「なに、千瀬ちゃん?」


「そこのベッド、できることなら、空けておいてね」


「え、どうして?」


「だって、あいつのことだから、また事故にあって入院してくるかもしれないでしょ。そのときに言ってやるの。『またか』って」


看護婦さんはクスクスと笑うと、


「わかったわ」


と言ってくれた。

私は開け放たれた窓から外を眺める。この前と同じ、雲一つない青空のはずなのに、なんだか違って見える。

そして、柔らかい風が私の髪を優しくなでていった。

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