第4話:私の価値
メロンパンの事件後、私と拓海のベッドの間には、ついたてのようなものが置かれた。
私が見事に壊したカーテンは、どうやら簡単には直らないらしく、それまでの応急処置といったところだ。
看護婦さんには厳重注意を受けた。無論、拓海もだ。
「はあ……最悪」
思わずそんな言葉が口から飛び出すほど、私は精神的に参ってしまっていた。
こんな人の心に土足で入ってくるような人間と、あと六日も同じ部屋で過ごさなくてはいけないのかと考えると、憂鬱でしょうがない。
こんなことならば、病院食を一週間完食するほうがまだましだ。私の病気に胃痛が新たに追加されるかも。
そんなくだらないことを考えていると、
(コンコン)
軽快に扉をたたく音。そして、聞き覚えのある声がドアの隙間から聞こえてきた。
「ひっさっしぶりー、千瀬。元気してた?」
「美里……」
現れたのは、私の同級生の美里だった。
白と薄いピンクを基調とした服装が、外は春なのだということを改めて感じさせる。
「やっぱり地元からじゃ遠いねーこの病院。久しぶりに早起きしたよ」
「だったら無理に来なくてよかったのに……」
私のそんな言葉にも、美里は怒った顔一つ見せず、
「またそうやって意地張って。人間素直が一番よ」
と笑って返すのだった。
「で、どう、ココの調子は?」
美里はベッドの端に腰をかけながら、自分の胸の中心を拳で二回ほどたたく。
「別に……。今はまだ薬でなんとかなってるけど」
「そっか……。早くドナーが現れればいいね」
「そんなの現れるわけないわ」
美里のちょっとした一言にも、私はすぐに毒づいてしまう。
別に、美里のことが特別嫌いというわけではない。ただ、美里のことを、私は自然と避けていた。
「そう言わないの。……それはそうとさ、あの子けっこうかっこよくない?」
美里の声が急に小声になる。
「あの子?」
「ほら、あそこのベッドに入院してる男の子」
そう言って美里は拓海のほうを指差した。
「美里、あんなのがいいの?」
「えー、普通にかっこいいじゃん。千瀬もちゃんと見てみなって」
私は美里に押されるがままに、ついたての隙間から向こうを伺う。拓海はテレビを見ているようで、こちらからは横顔が見える。
そういえば、今までこういうふうに彼の顔を見たことがなかったが、言われてみれば美里の言うことにも一理あるかもしれない。
ただ『黙っていれば』という前提が必要だが。
「ね、そう思うでしょ?」
私は黙って首をかしげた。
それからしばらく、美里が話して、私がそれに適当に相槌をうつ、というのが続いたが、ふいに何かを思い出したように、美里がカバンの中から本を一冊取り出した。見たところ、専門学校のパンフレットのようだ。
「私ね、高校卒業したら美容師の専門学校に行くことにしたんだ」
そういえば、将来は美容師になる、といつか聞いたことがあった。
嬉しそうに自分の夢について語る美里を見ながら、私は別のことを考えていた。
私にも、自分の夢について考えたころがあったのだろうか。こんなに笑っていられたことがあったのだろうか、ということを。
「私、何年かかかってもいいから、絶対に夢を叶えてみせる」
美里のその言葉に、私は急に現実に戻される。
そして、気づいた。
美里と私では、住む世界が違うのだ――と。
生きることに前向きで、いつも笑顔を絶やさない美里と、迫ってくる死に抗うこともせず、自分の殻に閉じこもっては、他人との関わりを絶とうとしている私。根本的なものが違うのだ。
美里は私にはないものをたくさん持っている。それに私は無意識のうちに憧れていたのではないか。
人間は自分にはないものを持っている存在に憧れを感じ、しかもそれは二極化する。
その憧れを必死に追い続けるか、その存在に嫉妬や恐れを抱くかだ。
こう考えれば、私が美里を敬遠するようになったのも説明がつく。
私の美里への憧れは妬み、恐れへと変わっていたのだ。それは最初は針で開けたほどの小さな穴だった。そして、いつしかその穴はゆっくりと広がり、もう自分自身では修復不可能のところまできてしまったのだ。
せめて、もう少し気づくのが早ければ、私が病気を患う前にわかっていれば、まだ違っていたのかもしれない。
でも、もう遅い。
私は片足を、すでに死という泥沼につっこんでしまっている。抗うほどに、私の体は徐々に底に沈んでしまう。苦しむことになる。
もう、私は事の成り行きを諦観することしかできない。ただ、死を待つことしか許されないのだ。
「あ、もうこんな時間」
美里が腕時計を見てから言った。一時間はしゃべっていただろうか。
「これから行かないといけないところがあるから、帰るね」
美里は立ち上がり、別れのあいさつを告げると、病室から出て行った。病室にはまだ美里の笑い声の残響がある気がした。
「いいやつじゃん、千瀬の友達」
美里が帰ってすぐに、向こうのベッドから拓海の声がした。もう朝の事件のことはすっかり忘れてしまっているような口ぶりだ。
半分こうなることは予測していた。体が好奇心とおせっかいでできている拓海のことだから、必ず話しかけてくるだろうと。
「別に、ただの同級生よ」
「おいおい、そんな言い方ないんじゃねえか? せっかく来てくれたのに」
「こんなもうすぐ死ぬかもしれない子のためにわざわざ遠くから見舞いに来るなんて、向こうも迷惑な話よね」
「迷惑だと思ってんなら、わざわざ見舞いにこないよ。千瀬のこと、本当に大切なんだろうな」
「そんなこと……」
「あの子も言ってたろ。人間素直が一番だって。千瀬は無理に人と関わろうとしてないだけで、本当は寂しいんじゃねえか? そんなことじゃ、人生楽しめないぜ?」
私はなにも答えられなかった。ただ黙って床を見つめていた。
確かに、拓海の言うとおりだ。私は自ら人との関わりを拒みながらも、まだいやしくも、どこかで人とのつながりを求めている。そんな自己矛盾に、私は薄々気づいていた。
だから嫌だった。そのことを人に指摘されるのが。わかっているからこそ、辛かった。
「昨日ここにきたばっかりのやつに、私の何がわかるのよ!? だいたい、人生楽しむってなに? 残り少ない人生を、どうやって楽しむっていうのよ!?」
感情のたがが外れる。湧き水のように、感情が外へあふれ出す。
「……もう、生きることがどういうことかわからない。私のたった十七年の人生に、価値なんて……ない」
歯がゆくて、私は両手を強く握り締めた。
「ほんとにそんなこと思ってんのかよ」
「え……?」
ついたて一枚で隔てた向こうから、真剣な声が聞こえた。
「俺は人生の価値なんてもんは、最初からないと思ってる」
「どういうこと……?」
「ひとそれぞれの人生はさ、価値なんてものさしで計れる代物じゃないってことだ。だから、長生きして大往生で死んだ老人も、この世に生まれることなく死んでいった命も、その人生に大きな違いなんてない、って俺は思ってる」
私は黙って耳を傾ける。
「それで、俺には一つ夢がある。それはな――笑って死ぬことだ」
拓海の声が急に柔らかくなった。
「俺は後悔する人生だけは絶対に送りたくないんだ。笑って死ねれば、後悔はしてない、ってことだろ」
その後、拓海は『まあ、これは俺の持論だけど』と笑った。そして、ベッドから降りると、私のほうへ歩いてきた。
「だから、俺自身のためにも、千瀬のためにも、こうやって話しかけてるんだ。お互いが後悔しないためにな」
そう言う彼の笑顔はとてもまぶしくて、今まで感じたこのない感覚が、私を包みこんでいった。
「意味わかんないわよ……」
「今はわからなくていい。いつかわかることだから」
拓海は自分のベッドへ戻っていった。
その背中を見送った後、私は窓の外を見つめた。見慣れているはずの景色が、今日は何か違って見えた。




