最終話・前:あなたがいた
気がつくと、目の前にあったライトは姿を消し、代わりに真っ白な天井が視界に映っていた。窓から見える景色は、すでに深い闇が落ちていた。
「千瀬、気がついたか?」
「お父さん……お母さん……」
私の顔を見るなり、二人ともボロボロと泣き出した。
目覚めきっていない頭で、おぼろげな記憶の糸をたどってみる。
そうだ、私は手術を受けていたんだ。麻酔で眠ったと思ったら、いつの間にか違う病室のベッドの上。
時間の切れ端がくっついたような不思議な感覚だった。
「お父さん……手術、は……?」
「成功したよ……よくがんばったな……ほんとに、よくがんばったな……」
私の手を、お父さんが震えながら握っている。その横で、お母さんは何も言わずにただ泣くばかりだ。
そんな二人を見ながら、私は生きている喜びを実感していた。
心臓の鼓動音や、呼吸、そして、流れる涙の一粒でさえ愛おしい。
生きているという幸せが、私の流れる血とともに、全身を駆け巡っていくのがわかった。
「さあ、今日はゆっくり寝てなさい」
「うん……」
もう一度目をつむる。温かい幸福に包まれながら、私は再び眠りについた。
◆
翌日のお昼、私は真夏の日差しに起こされた。部屋には看護婦さんが一人いた。
「手術成功してよかったね、千瀬ちゃん」
彼女が嬉しそうに言った。私は微笑みながらうなずいた。
鉛のように重たい体を起こす。胸の辺りに、昨日は感じなかった手術跡の痛みを感じる。
でも、その痛みさえ私が生きている証なんだと思えた。
ふいに、私は拓海に会いたくなった。夢の中で、彼の顔が何度もちらついていたせいかもしれない。
私はダメもとで彼女に聞いてみる。
「看護婦さん、今から彼の部屋に行ったらダメかな?」
彼女は少し考えた後、
「いいわよ。行きましょうか」
と、意外にも快諾してくれた。
私は驚いた。てっきり、『安静にしてなくちゃいけないからダメよ』と言われると思っていたから。
私は車椅子に乗り、後ろを看護婦さんに押してもらいながら、彼のところへ向かった。
彼に会ったらまず『ありがとう』って言おう。
そして、退院しても、彼のところへお見舞いに行くんだ。私が生きている間は、何度でも。
彼の病室の扉を開ける。つい二日前来たはずなのに、なぜか久々に感じた。
部屋ではカーテンが閉められ、私とベッドを隔てていた。
窓から入ってきた風が、カーテンを膨らませる。
その一瞬、私の視界に飛び込んだのは、誰もいない、空のベッドだった。
見間違いかなと思い、カーテンを引いてみる。しかしそこにはやはり拓海はおらず、整頓された、しわ一つないベッドがあるだけだった。
「看護婦さん、拓海はどこ行ったの?」
私の問いに、彼女は何かをためらうように黙っていた。
やがて、服のポケットに手を入れると、そこから一枚の白い封筒を取り出した。
「これ、海に行った次の日ね、拓海くんが、千瀬ちゃんの手術が成功したら、渡してくれって……」
私は彼女の言葉に少し違和感を覚えた。
だって、拓海は手術のことを知らないはずなのだから。それとも、私がもし手術を受けることがあったら、という前提なのだろうか。
私は彼女から封筒を受け取ると、中身を取り出した。
便箋が二枚入っている。彼の筆跡。決してきれいな字とは言えないけど、彼らしい温もりを感じる。
『千瀬へ
この手紙を読んでるってことは、手術が成功したみたいだな。おめでとう。
俺、千瀬に一つだけ謝らなくちゃいけないことがあるんだ。もう知ってると思うけど、もしかしたら植物状態になるかもしれないってこと、千瀬にちゃんと言えなかった。
急に千瀬を一人にして、寂しい思いもさせたかもしれない。ほんとに、ごめん。
だからさ、そのお詫び……ってわけじゃないけど、俺の心臓、千瀬にあげることにした。
後遺症がわかった日にさ、ドナーカード持って先生のところ行って検査しもらったんだ。そしたらさ、俺の心臓、千瀬の心臓とぴったりだって。驚いたよ。
こんなことしても、結局俺は千瀬の前からいなくなるんだから、もしかしたら千瀬は喜ばないかもしれない。でも、俺バカだから、こんなことしか思いつかなかったんだ。ごめんな。
千瀬はあの世に嫌われてる男の心臓をもらったんだ、とうぶんの間は死なないよ。まぁ、今の俺が言っても説得力ないか。
最後に、俺のわがまま、二つだけきいてくれ。
一つは、封筒の中に写真が一枚入ってる。二人で海に行ったときの写真だ。
写真の現像は、看護婦さんに頼んだから、俺の代わりにお礼、言っといてくれ。
二つ目は、一生懸命生きてくれ。俺のぶんまで、楽しい思い出たくさんつくって、たくさん笑ってくれ。
俺は向こうで、千瀬の笑顔見てるからな。
じゃあ、ほんとにこれでお別れだ。こんな俺のこと好きになってくれて、ありがとう。
大好きだよ、千瀬』
最後の一文は、少し控えめに書かれていた。
私は封筒の中から一枚の写真を取り出す。
あの日、彼と海で撮った写真。夕焼けに染まった海の前で、二人が肩を寄せ合って笑っていた。本当に幸せそうな笑顔だった。
私の内側から熱いものがこみ上げてくる。もう痛みを感じる余裕もなく、ただ涙が写真を濡らしていくだけだった。
「千瀬ちゃん……」
看護婦さんが車椅子の後ろから、私を静かに抱きしめる。
私は声をあげて泣いた。
それからしばらくして、私たちは部屋を出た。
私はまだ気持ちをおさめることができず、肩を振るわせながら泣いていた。
エレベーターに乗り込むと、看護婦さんがなぜか下へ行くボタンを押した。私は嗚咽でその理由を聞くことができなかった。
エレベーターを降りると、肌寒さを感じる廊下を渡り、一つの部屋の前で車椅子は止まった。
「ほんとは、いけないんだけどね……」
そう言って、彼女は部屋の扉を開ける。
湿っぽいような、かび臭いようなにおいの後、私の目の前に、白いシーツを被ったものが現れた。
それにゆっくりと近づく。もうこのとき、私はそれがなんのかわかっていたのだろう。
白い小さい布を外す。その下から現れたのは、私が一番会いたかった人の顔だった。
「拓海……」
私の呟きが、暗い部屋の中で木霊した。
「なんで……なんで、笑ってるのよ……」
彼は笑っていた。いや、笑っていると私が思いたかっただけなのかもしれない。でも、私には拓海が確かに笑っているように見えた。
「私、一生懸命生きるからね……。だから、ずっと見守ってて……」
私は彼にキスをした。涙が一つ、彼の冷たい唇にこぼれ落ちた。
「ありがとう、拓海」
そうして、私たちは部屋を出て行った。
その間、私は一度も振り返らなかった。振り返ってしまえば、二度とこの部屋から出られなくなる気がしたから。
「看護婦さん……」
自分の病室の手前で、私は彼女に尋ねた。
「なに? 千瀬ちゃん」
「ありがとう……」
彼との約束のお礼、それから、いけないとわかっていながら、私を彼と会わせてくれたお礼を、彼女にした。
「どういたしまして」
そう言う彼女の目は、少し潤んでいた。
◆
あれから一ヶ月弱。私はとうとう、退院の日を迎えた。
心配された拒絶反応もなく、術後の経過も順調だ。
「千瀬、行くよー!」
扉の向こうから、美里の呼ぶ声が聞こえてくる。今日のために、学校を休んできてくれたらしい。
「今行くよー」
看護婦さんにもらった花束を抱えながら、私は病室を見回した。
ほとんどのものが片付けられ、部屋はなんとも殺風景だった。
この部屋で、私はいろんな経験をした。
泣いたり、笑ったり、怒ったり、恋をしたり――ほんとにたくさんの思い出をつくった。
彼がいたベッドに目をやる。今でもそこに、とびっきりの笑顔の彼が、あぐらをかいて座っている残像が甦った。
私はポケットの中から、彼の手紙を取り出す。突然窓から入ってきた風が、それを宙に舞わせる。
床に落ちた手紙を拾い上げようとした私は、思わず目を留めた。
手紙の裏に、一文だけ書かれていた。
『俺、笑って死ねたかな?』
うん、笑ってたよ。ほんとに幸せそうで、温かい、私の大好きな拓海らしい笑顔だった。
手紙を収めた私は、窓の外を見上げた。
夏の終わりを告げる空は、気持ちいいほどの晴天だ。
その空のキャンバスを横断するように、飛行機雲が二つ、互いに寄り添うように白く伸びていた――。




