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第11話:転機

残り二週間の命。

そう告げられて三日がたったが、私は自分が死に近づいているという実感がわかなかった。

確かに胸の痛みは少しずつ増し、体調の優れない日も続いている。

それでも、私にその実感がないのは、おそらく、死が怖くないからだろう。

しかし、それは昔のように、死は人の必然なのだから、そこから逃れることはできない、なんていった諦めに似たものではない。

私は精一杯、死に抗った。だから、その結果が二週間という短い寿命でも、生きることへの喜びや、幸せを知っている私には、死ぬなんてことはちっぽけなものに感じられたのだ。

今、私にとって残念なことは、安静のために自分の病室から動くことができず、拓海のお見舞いに行けないことだけだった。


「拓海、大丈夫かな」


憎らしいほど高く昇った太陽を見ながら、私はある人を待っていた。

私の予想だと、今日くらいには来るはずだ。

そんなことを考えていると、扉のノック音がした。

そこにいたのは案の定、私が待っていた人だった。


「千瀬、お見舞いに来たよー」


「ありがと、美里」


美里は、暑さにも負けないくらい元気だった。

拓海の笑顔が、春の包むような温かさを持った笑顔なら、美里は周囲を活気付かせるような、夏を思わせる笑顔だ。


「急に来てもらって、悪かったわね」


「いいよ。私も夏休みに入ったら、すぐに行こうと思ってたところだったし。でも昨日、千瀬のお父さんから電話で『お見舞いに行ってやってくれませんか』なんて言われたときにはびっくりしたなー。そんな電話一度もなかったからさ」


美里を呼んでほしいとお父さんに頼んだのは私だった。黙っているわけにはいかないと思ったからだ。

私のことを心から大事に思ってくれて、何度もお見舞いに来てくれた彼女に、黙って死んでしまっては、後悔してもしきれない。

それに、彼女だってそんなこと望んでいないだろうから。


「そういえば、まだ拓海くんは下の病室なの?」


「うん、まだね……」


「ふーん。で、彼とはうまくいってるの? 何か進展あった?」


「いや、ないよ。フツーだよ」


私は彼の本当のことを言わなかった。口に出せば、あのときのことが思い出されて辛かったから。

彼女は『そっかー』と口では残念そうに言っているが、ニヤニヤとした笑顔をつくっていた。

それから、しばらく二人でしゃべっていた。

テストの点が落ちた、とか、夏休みの予定がどうだ、とか、私も早く彼氏がほしいな、とか……どこにでもあるような女子高生らしい会話だった。

美里は楽しくしゃべっているが、私はというと、いつ話を切り出そうかというタイミングを計っていた。

頭では言わなければいけないとわかっているのだが、まだどこかで、この時間をもう少し楽しんでいたいという思いが隠れていたのだろう。

私はなかなか、話すきっかけをつかむことができないでいた。


「ちょっと私、トイレ行ってくるね」


美里がそう言って部屋を出て行く。

彼女が戻ってきたら、今度こそちゃんと話そう。

私はそう決心して、ベッドの上で慎重に言葉を選んでいた。


「お待たせ」


数分後、美里が部屋に戻ってくる。この機会を逃せば、私は二度と彼女に真実を伝えることができない気がした。


「あのね、美里。ちょっと聞いてほしいことがあるの」


「なに?」


彼女はとぼけた表情で首をかしげた。私は深呼吸して、ゆっくり言葉を吐き出す。


「驚かないで聞いて。私ね、三日前、残り二週間しか生きられないって言われたの……」


彼女は少し表情をこわばらせていたが、視線を下に落とし、私の両手を包むように握った。


「……知ってたよ」


「……え?」


彼女の意外な言葉に、驚いたのは私のほうだった。


「電話もらったときね、千瀬のお父さんの声、なんだか震えてたからさ、ちょっとしつこく聞いちゃったの……。そしたら、ね……」


ついさっきまでとは対照的な、弱々しい声。時々、そこに嗚咽も混じっていた。


「だから……だから明るく振舞おうと思ってた。そうすれば、千瀬の寿命のことは忘れていれたし、いつもどおりにすれば、また千瀬の笑顔が見られるって思ってたから……」


「美里……」


「でも……無理だよ、いつもどおりなんて。できっこないよ、千瀬が死んじゃうかもしれないのに……」


それから、彼女は堰を切ったように泣き始めた。

私を抱きしめて、子供のように泣きじゃくった。

私はそんな彼女の背中を見ながら、あぁ、ここにもいたんだ。私のために泣いてくれる人が、と感じて、そっと『ありがとう』と呟いた。


それから私たちは、面会時間ギリギリまで他愛もない会話を続けた。

まるで高校生活の遅れたぶんを取り戻すかのように、ずっとしゃべっていた。

そして、名残惜しい気持ちになりながらも、美里は私に別れを告げ、病室をあとにする。

私は、一人でいるには中途半端に広い病室を見回しながら、今日の美里との思い出を反芻するのだった。


  ◆


私の残りの命も、半分を切ったころだ。

私は、ベッドの上から外の景色を眺めていた。朝から降り続いていた雨がついさっき止み、オレンジ色の夕焼けが、雲の隙間から顔を出している。

今日を過ぎれば残り六日。いや、あくまで長くて六日なのだから、明日突然死んでしまうなんてこともありえる。

でも、もう未練はない。私は精一杯やった。だから、今の私には、どんな結果でも受け止められる覚悟がある。


「少し寝ようかな」


夕飯までの少しの時間、私は横になることにした。

そのとき、部屋の扉が急に開けられ、横になろうとした私の体は、ベッドにつく前に元に戻った。

現れたのは、私の主治医の先生と、知らない男の人だった。


「どうしたんですか?」


「千瀬ちゃん、嬉しいニュースだ。君のドナーが現れた」


その言葉を理解するまで数秒を要した。

私にドナーが? ということは、私は助かるかもしれないのか?

そんなことを考えているうちに、先生が隣の男の人に手をやって、話を続ける。


「こちらは君の手術をしてもらう、心臓外科の内村先生」


「執刀医の内村です。急なことで申し訳ありませんが、心臓の負担のことも考えて、手術は明日の昼ごろに行いたいと思っています。もちろん、手術スタッフ一同、綿密な会議をして、万全の状態で手術を行います。どうですか?」


私はゆっくりうなずく。急なことだったので、頭が体についていっていない。


「じゃあ、ご両親にはこちらから連絡をいれておくから。また詳しい話はそのときにね」


「大丈夫、全部私たちに任せておいてください。必ず成功させます」


二人は私に礼をすると、部屋から出て行く。

夕立のように一瞬のうちに起こった出来事に、私はしばらく放心状態だった。

数分して、その放心状態から開放された後も、私の心に何か引っかかるものがあった。

もちろん、生きる可能性が残されたことが嬉しくないはずがない。だけど、私はそのことをなぜか手放しで喜べないでいた。そして、直後に脳裏に浮かんだのは、拓海の顔だった。

その感情が何なのかはわからないが、拓海の所に行けば、それがわかる気がして、私の足は自然と拓海の病室へと向かっていた。


一週間ぶりに訪れた拓海の部屋は、何一つ変わっていなかった。花瓶の水も、看護婦さんが変えてくれたのだろうか、花はみずみずしさを保ったままだった。


「拓海、久しぶり」


私は彼の横に座った。


「あのね、ドナーが見つかったんだ。明日、手術だって。私、まだ生きられるかもしれないんだって……」


目を閉じたままの彼にそう語りかける。返事はもちろん帰ってこない。

そのとき、私がさっきまで引っかかっていた感情がほのめいた。拓海の顔を見れば見るほど、それははっきりと輪郭を帯びていく。

一言で表すとすれば、『罪悪感』に近いものだと、気がついた。


「ねえ拓海、いいのかな、生きても……。あなたがこんなに苦しんでるのに、私だけ生きても……」


もし神様がいるとしたら、なんて気まぐれで残酷なのだろう。

死を覚悟を持って受け止めようとした私に、今度は生きろと言うのだ。どこまで私を困らせれば気が済むのだろうか。


気がつくと、彼の手を握っていた私の耳に、懐かしい声が届く。とても温かい響きだった。


『千瀬』


「拓海……」


声の主は拓海だった。いつの間にか真っ白な世界に、彼と私は向かい合っていた。


『せっかく生きられるかもしれないんだ。手術、絶対受けろよ』


「でも、拓海が……」


『俺のことは気にするな。俺は、千瀬に生きててもらいたいんだ』


そう言って、私の頭を優しくなでる。久しぶりに触れる、彼のぬくもりに、私は目を細めた。


『じゃあ、明日の手術、がんばれよ!』


彼が目の前から姿を消す。私は慌てて彼の腕をつかもうとした。


「待って!」


叫んだ瞬間、私の見ていた景色は、元の拓海の病室へと戻っていた。


「夢か……」


どうやら知らないうちに眠っていたらしい。私は寝てもなお、握っていた彼の手を見つめながら思った。

さっきの夢は、きっと拓海が見せてくれたんだ。この手を伝って、彼が私を勇気付けてくれたんだ、と。


「私、もう迷わないよ。がんばるからね、拓海」


私は彼にお礼を言って、彼のぬくもりをその手に宿したまま、部屋を出て行った。


  ◆


翌朝、両親とともに手術の説明を受けた私は、自分の病室でそのときが来るのを待っていた。

先生は難しい手術になると言っていた。仮に成功しても、心臓が拒否反応を起こす場合もあるらしい。

それでも、私に怖いものはなかった。生きたいという強い意志を、私はたくさんの人にもらったから。


「千瀬ちゃん、行きましょうか」


看護婦さんが私を迎えに来た。

私は手術台に移り、両親の顔を見た。二人とも『大丈夫』とでも言うように、力強くうなずく。私もそれに答えるようにうなずいた。

手術室へ向かうベッドの車輪の音は、私に拓海との思い出を、走馬灯のように回顧させていた(手術直前に走馬灯みたいにとは少し縁起が悪いが)。

生きることを諦めていたころのこと。そんな私に、生きる喜びを与えてくれた拓海に、いつの間にか惹かれていったこと。

彼と屋上で星を見て、告白して、ふられたこと。その後、美里と彼の部屋に乗り込んで、彼の泣き顔を見たこと。

そして、約束の海に一緒に行ったこと――。

たくさんの思い出を、私はココでつくった。思えば、私の中心にはいつも彼がいた。

もう今は、彼の笑顔を見ることができないけど、手術が成功したら、真っ先に彼の部屋に行って言うんだ。


『ありがとう』


って。


手術室の手前まで来た。


「がんばるんだぞ」


「応援してるからね」


「うん。ありがとう。お父さん、お母さん」


最後に別れのあいさつをすると、私の体は扉の向こうへ吸い込まれる。

テレビで見るような手術室へ入ると、大きなライトが上空へ現れた。


「じゃあ、麻酔かけますね」


右腕にチクリとした痛みが起きた後、だんだんと目の前のライトの輪郭がぼやけ始める。

間もなく、私の意識は白い光に飲み込まれていった。

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