第10話:太陽のない部屋
「おはよう、拓海」
彼の笑顔が消えた日から、私はこうして彼の病室に行き、『おはよう』とあいさつするのが日課になっていた。
「今日ね、久しぶりに朝ごはん完食したんだよ。えらいでしょ」
病室の花を取り替えながら、ベッドに横にたわっている彼に尋ねる。
だが、返事は返ってこない。
代わりに、生命維持装置の無機質な音が、秒針のように正確に鳴っているだけだ。
彼はいわゆる植物状態だった。
「あとね、占いで一位だったんだ。今日は何かいいことあるかもね」
私がどれだけしゃべりかけようとも、その口は呼吸器に覆われ動かないし、私の頭をなでてくれた手も、二度と動くことはない。
そうわかっているはずなのに、私は彼に話しかけてしまうのだった。
私は彼の横にそっと座った。
「ねえ、どうしてずっと黙ってたの。私ね、この前看護婦さんから聞いたんだよ。拓海が、もしかしたらこうなるかもしれないって、最初から知ってたこと」
看護婦さんが教えてくれた。
事故によってできた障害は、記憶を奪うだけでなく、最悪の場合、突然意識を失って、植物状態になる危険性があったこと。
それを、彼は私に話さなかった。
それは、私に無駄な心配をかけさせたくないという、彼のいつもどおりの優しさだったのだろう。
でも今はその優しさが茨のように、私の胸をちくちくと痛めていた。
「拓海、ずるいよ。いつもそうやって、大切なことは言わないで、平気な顔して笑ってるんだから……。最後に迷惑するのは私なんだよ?」
こんな言葉も、彼の耳には届いていない。部屋を支配するのは、定期的な機械音だけだった。
「じゃあ、私帰るね」
そう呟いて、私は立ち上がる。
扉の手前で一度だけ振り返った。もしかしたら、彼が目を覚ますかもという、淡い期待を抱いて。
しかし、そんなことあるはずがなかった。窓から陽炎が揺らめいているのが見えるばかりだった。
自分の病室への廊下を歩きながら、私は胸を抑えた。
拓海がいなくなったあの日から、私は小さな発作を繰り返していた。それは生きることを拒んでいるようにも思えた。
『拓海のいない世界なんて、死んだほうがましだ』という自分と『死にたいと思うのは、彼との約束を破ることになる』という自分。その葛藤が、私を苦しめている。
その狭間で、太陽のなくなった花のように、私は日に日に弱っていくのがわかった。
「千瀬ちゃん、今日も拓海くんのところに行ってたの?」
「うん」
「そう……。大丈夫? 顔色、悪いみたいだけど……」
「平気よ。気にしないで……」
そう言う私だったが、急に動悸が激しくなり、近くの壁にもたれかかる。
足の力が抜けて、そのままひざを地面に落とした。
誰かが私の名前を叫んでいるのが聞こえる。しかし、それも視界の閉鎖と同時に遠くに感じるようになる。
そこで私の意識は途絶えた。
◆
私が目を覚ますと、視界に人影が二つ映った。
「お父さん……お母さん……」
そこにいたのは私の両親だった。いつもは仕事が忙しく、お見舞いにくることはまれだった。
「病院から、すぐにきてほしいと連絡があってね。二人で仕事を抜け出してきたんだ」
お父さんが私の手を握りながら言った。お母さんも横で心配そうに私を見つめている。
しばらくして、看護婦さんが部屋に入ってきた。
「先生がお呼びです」
二人は看護婦さんに連れられ、部屋を出て行く。
おおかた予想はつく。多分、私の残りの寿命のことだろう。
私は起き上がり、まだ少し痛む胸を抑えながら、目の前の空のベッドを見た。
あれから何度、彼の夢を見ただろう。
一緒に買い物したり、映画を見たり、勉強したり、そして、また二人で海を眺めたり――そんな妙に現実味のある夢ばかりだった。
だから、朝目覚めたとき、目の前の空のベッドを見て、私は思い出す。
――彼はもういないんだ――と
夢は文字通り夢で終わって、代わりに冷たい現実が私を突き放す。
そんな感覚を、何度も体験した。
「もう、疲れちゃった……」
禁断の言葉を口にしようとしている自分。歯止めをかけてくれるようなものを、今の私は何も持ってはいなかった。
「死にたい……」
ついに言ってしまった。彼との約束を破ってしまった。
でも、その瞬間、私の目からどっと涙があふれ出した。
わからない。なぜこんなに涙が出るのかわからない。
「ん……っぐ……っく……」
涙は拭うほど、私の目からあふれてくる。
そのまま私はうずくまって泣き続けた。
私が少し落ち着いた後、両親が病室に戻ってきた。
泣いたのだろうか。心なしか、目が赤くなっているように見えた。
「先生、何て言ってた?」
私の質問に、煮えきれらない表情で黙る両親。私は一つ息を吐いた。
「わかってるよ。残りどれくらい生きられるかってことでしょ」
お父さんは重そうに首を縦に動かした。隣のお母さんは、もう目が潤んできていた。
「どれくらいなの?」
しばらくの沈黙。私は静かに待った。
やがて、視線を落としたお父さんが、震えるような声で呟く。
「長くて、あと、二週間だそうだ……」
言い終わり、二人は涙を流し始めた。
「二週間か……思ってたより短かったな……」
「ごめんな……。できることなら、お父さんが代わってやりたいのに……。ごめんな……」
泣いている二人を見て、私は思った。
ここにも、私が死ぬのを泣いてくれる人がいたのだ。もう少し、早く気づけばよかった、と。
その後、二人を病室から見送った後、私はなにをするでもなく、ぼーっと空を見ていた。
自分の人生の期限が宣告されたというのに、私は特別何も感じていなかった。
残り二週間何をして過ごそうとか、死ぬってどんな感覚なんだろうとか、挙句の果てには、向こうで拓海が来るのを待つのもいいかな、なんてことを考えてもいた。
『俺は笑って死にたい』
そういえば、昔彼がこんなことを言っていたのを思い出す。
「私も、最期は笑っていよう……」
そう空に向かって呟いた。




