第1話:プロローグ
四月も中旬を向かえるというのに、病室の大きな窓から見える外の景色は、相変わらず無表情だった。
背の高さを比べるように建っているビル群、せわしなく左右に流れていく車や人間、それらを見下ろすように空を飛び回るカラスたち――。
何度こんな光景を、この無機質な空間から見たことだろう。私の周囲には、四季という概念はもはや存在していないのだった。
「はあ……」
私はカーテンを閉め、ため息ともつかない弱々しい吐息をもらすと、ほんの少し前に変えたシーツの上に横になる。
このパリパリとした新品のシーツの感触が、私はたまらなく嫌いだ。右に左にごろごろと動き回り、わざとしわをつけていく。
「千瀬ちゃん、ご飯食べた?」
ドアをノックする音とともに、いつもの看護婦さんが病室に入ってきた。
同時に、私なんかと比にならないくらい大きなため息を吐いて、ほとんど残っている朝食を手に取った。
「またこんなにご飯残して。そんなにおいしくない? 病院食」
「うん。最悪」
私は悪びれる様子もなく、笑顔でそう答える。
「ちゃんと食べないと、病気はよくならないわよ」
彼女は困ったように笑いながら、お膳を台車に乗せると、代わりに体温計と薬を私に手渡した。
「食事で病気が治るなら、こんなもの必要ないじゃない?」
そういって、私が薬を手にとると、彼女の顔は完全に困った様子になった。
「だめよ、お薬飲まなきゃ発作起こしちゃうんだから」
「はいはい」
どうせ薬を飲み終えるまでは部屋いるのだ。早く飲んでしまおう。
そう思い、一気に薬を流し込んだ。うん、苦い。いつになってもこの味には慣れそうにない。まあ、ここの食事と比べたらまだましかな。
「はい、あと体温もね」
私は無言で体温計をさすと、殺風景な部屋を見回した。
全体が白い部屋には、病室らしく目だったものは何もない。
あるものといえば、ベッドの左側に備え付けのテレビと、引き出しのついたテレビ台。そして右側にある大きな窓は、防音対策が施されているため、外の音は聞こえてこない。
音のない空間というのは本当に退屈で、時間が止まってしまったのではないか、という錯覚さえ感じるときがある。
そして、私の向こう側にポッカリと空いたベッドも、そんな錯覚を引き起こすのに一役買っていた。
「看護婦さん。この前あそこに入院してたおばあさん、どうなったのかしらね」
「あら。他の患者さんのこと気にするなんて、千瀬ちゃんにしては珍しいわね」
「別に、ただの気まぐれよ……」
私は無表情のまま無人のベッドを見つめた。
「……あのおばあさんね、退院した翌日に亡くなったそうよ」
彼女は少しためらってから、言いにくそうに口を開いた。
「そう……」
顔色を変えず、私はベッドを見つめ続ける。つい最近まで、『死』というものと身近に接してきたことに、私は特別なにも思わなかった。
人間は生まれた瞬間から死に向かって歩き始める。生まれ、そして死ぬ――人間が繰り返してきたこの営みの輪からは、誰も逃げることはできない。
それを知っているから、私は死に対して恐怖はない。他人の死も、自分の死も。そして、生への欲求も私にはないのだ……。
私の思考を止めたのは、体温計の音だった。
「じゃあ、回診がくるまで安静にね」
「はーい……」
「次はちゃんと食べてね」
これには返事をしなかった。
彼女は再びため息を吐くと、部屋の扉に手をかけた。
しかし、何かを思い出したように中空を見上げると、こちらに振り返り
「そうそう、忘れてた。お昼からそこのベッドに新しい患者さんが入院することになったからね」
「そう、わかった……」
目線も合わせずそれだけ答えると、扉は完全に閉まった。
私はそれを確認すると、もう一度カーテンを開ける。
さっきまで青く澄み渡っていた空には、いつの間にか、うっすらと雲がかかり始めていた。




