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ASTRALIUM  作者: 鶴形怜
4/5

どうか気づかないでいて

「メルク、大丈夫?」

「うん、大丈夫」


 ごった返す人混み。エルスは振り返って、後ろについてきているはずの小さな水色の頭をしっかり自分の目で確認した。こちらを見上げる大きなグレーの瞳は、まだ高くに昇っている太陽の光のせいか眩しそうに眇められている。低い位置にある肩から伸びた細い腕は、エルスの上着の裾をきゅっと掴んでいた。

 周りは市場ならではの活気に溢れている。客を呼び込む声、見失った誰かを探す声、怒鳴り声、といった様々な声が聞こえてくる。人々の体が自分の体にぶつかると、掴まれた裾がぶらぶらと揺れるのを感じた。

 本当ははぐれないように手を繋いだほうが良いことは分かっている。でも、例え3つも年下だとは言え女の子と手を繋ぐのはエルスにとっては照れくさいことだった。

 今日二人が市場まで出てきたのは、夕食の買出しのためだった。エルスたち10人が暮らす家では、サラがいつも食事を用意してくれる。そのための食材は皆で交代して家の近くの店へ買出しに行くのだが、エルスがメルクと一緒にこうして出かけるのは随分と久しぶりのことだった。以前からエルスと様々な商品が売られているこの市場に行きたいと、メルクは頬を膨らませて拗ねていた。だからだろうか、サラが特別な食材を手に入れてきて欲しいとのことで、その時にはメルクも連れて行ってあげて欲しいと頼み込んできたのだ。もちろん、メルクの安全には十分に気をつけるようにと念を押されたが。

 メルクはあまり市場には来ない。来られない、というほうが正しいか。正直なところ、この市場はあまり治安が良くない。特にメルクのような一見幼いように見える少女にとっては。子供を攫っては他の国へ奴隷として売り飛ばすという商売が未だに横行するこの国の中で、最も治安が悪いのはこの市場があるエリアだ。メルクは簡単に攫われるような普通の少女ではないにしろ、子供というだけで人攫いに狙われやすいのは確かなのだ。


「ねぇメルク。それで、何が買いたいんだっけ?」

「ええっと……、あ、あのお店! あのお店入りたい!」


 どうにか人通りの比較的少ないところへ出てメルクと並んだエルスがそう問いかけると、慌てたように彼女はある店を指差した。もしかして、買うものが決まっていなかったのだろうか。エルスは少し不思議そうな顔をした。

 彼女の指差す先にあるのは、ガラスを取り扱っているらしい雑貨店だった。光をいくつも反射する小物が置かれたその店は、いかにも少女が好みそうな雰囲気が漂っている。

 こちらを見上げてくるキラキラした瞳に、彼はにこりと微笑んで頷いた。


「いいよ。行こうか」

「うん」


 連れ立って店へ入ると、チリリンと涼やかな音がした。見ると、扉の上部にガラスで作られたお椀の中に小さなガラス片がぶら下がったものが揺れている。店の中にもそれが置いてあり、近くを人が通ったりすると透き通った音を奏でた。

 メルクは早速目を引かれるものを見つけたのか、気がついたら店の奥のほうへ入っていて、こちらに手を振っていた。エルスは小さく笑って彼女へと歩み寄る。メルクの薄桃色の唇は嬉しそうに綻んでいた。


「見て見て、すごく綺麗」


 彼女の手元を見ると、薄水色をした雫のモチーフが細い鎖の先にぶら下がっていた。単純な雫のモチーフではなく、熟練の技が光る凝ったデザインのものだ。光の加減によって虹色に光って見えるときがある。メルクの水色の髪によく似合っていた。


「そうだね、ちょっとつけてみたらどう?」

「うん」

「ほら、貸して」


 自分でつけようとしていたメルクは、え、と驚いた顔をした。エルスは彼女の手からそっとペンダントを掬い上げると、静かに後ろへ回る。左右で長さの違うツインテールに結い上げたうなじ。彼の手から繊細な銀色の鎖がさらりと流れ落ちた。驚きで見開いたグレーの瞳が、エルスの緑色の髪の色を反射しているのが見える。


「前を向いて」

「……うん」


 素直に背を任せた彼女は、少しだけ俯いた。細い絹糸のような髪の毛の隙間から見えるメルクの耳は少し赤みを持っている気がした。エルスは少しだけ動きを止めたが、すぐに口元にいつもの微笑みを浮かべる。

 ――動じてなんかいない。メルクはメルクだ。

 自分にそう言い聞かせて、彼はメルクの頭上からそっとペンダントをかけた。金具を留め、横から俯き加減の彼女を覗き込む。一瞬目が合い、そしてすぐに逸らされた。その頬は、やはり赤い。はにかんだように伏せられた瞳が、ゆっくりとエルスを捉えた。長い睫に縁取られたその灰色に目を奪われた一瞬、彼は言葉を失って開きかけた唇を閉じた。


「……」

「に、……似合う?」

「……すごく似合うよ。メルクにぴったりだ」


 正直なところペンダントはあまりよく見てはいなかったが、似合っていることは事実だった。

 エルスは無理やりメルクから視線を外し、店員を探した。店の奥でこちらの様子を気にしながらも棚の整理をしている店員らしき中年の女性が目に入り、すみませんと片手を挙げて呼ぶ。


「このペンダント、ください」


 ありがとうございます、と言う店員に値段を教えてもらい、エルスは支払いのために財布を出そうとした。すると、慌てたようにメルクが彼を見上げその手を押しとどめようとする。


「えっ、自分で払えるよ!」

「いいから。僕は君と違って働いてるんだし、ここは僕に払わせてよ」

「ええっ」


 駄目だよ、いいから、と何度か応酬を重ね、結局メルクが折れた。彼女は赤い顔をして、支払いを済ますエルスの手元をじっと見つめていた。その様子を見ていた店員がクスリと笑う。


「仲が良いんですね。ご兄妹?」


 ぴしり、と空気が固まる音がした。

 隣にいるメルクを見ると、眉根を寄せ少し悲しげな表情をしているのが目に入ったがそれは一瞬だけだった。すぐに笑顔になる。


「いえ、兄妹じゃないです」

「あらそうなんですね。あんまりにも仲が良さそうだったから勘違いしちゃったわ、ごめんなさいね」


 店員の女性はあまり悪びれた様子もなく微笑んだ。メルクも先ほどの悲しそうな顔が嘘のように笑っている。

 メルクの表情はいつも作り物めいていて本心はよく分からないように見えるが、一瞬だけ本当の感情が表れることに最近気づけるようになった。彼女はまだ幼いのに嘘が上手い。それは言葉だけではなく表情もそうだ。先ほどのように赤面し続けていたりするほうが珍しい。

 メルクは、エルスの前でだけは素直に感情を表現するのだということにはもうとっくに気付いている。――それが意味することも。


 店を出ると、後ろにいたメルクに袖をついっと引かれた。エルス、と言う声に振り向くと照れたような笑顔のメルクが首にかかったままのペンダントを軽く持ち上げた。


「買ってくれてありがとう」

「いやいや。メルクが喜ぶようなものが買えてよかったよ」


 エルスがいつもどおりに笑うと、彼女は笑顔をさらに深くした。

 他の買い物をするためにエルスが歩き始めると、後ろから小さな囁き声が聞こえた気がした。そっか、兄妹に見えるんだ……嫌だなぁ、と。

 エルスはその囁き声を聞こえなかったものとした。

 もう、とっくに気付いている。メルクが彼と出かけることにこだわっていたこと、先ほどの赤く染まった頬の意味。ただ、それに気付いてその上で絆されかけている自分を省みると、頭の中に浮かぶのは『ロリコン』という単語だった。15歳のエルスにとって、12歳のメルクはまだ幼く感じてしまう。例え、彼女がどんなに魅力的な女の子だとしてもだ。この年頃の少年にとって、3歳差は大きな壁だった。

 ――メルクが、僕をどんな風に想っているかなんて分かってるんだよ。

 分かってはいても、エルスにはそれにどう応えていいのかが分からなかった。

 だから彼は続けるのだ。

 好意に気付いていない振りを。……彼女に異性として好意を寄せている訳ではないという振りを。

 そのくせ、たまに思わせぶりな素振りを見せている自分にも、とっくに気付いている。彼女が自分を諦めてしまったりしないように、彼女を繋ぎ止められるように、と。

 ――そんなずるい僕に、気付かないでいて。だって、君の前では格好つけていたいんだ。

 そんなことを考えながら後ろを盗み見ると、メルクは少し悲しげな顔をしているような気がした。

 彼女の手が、再びエルスの上着の裾を掴む。――その手を握れないのは、自分の気持ちが彼女に伝わってしまうのを恐れているがため、というのも大きい。



 2人はある程度頼まれた買い物を済ませ、帰路につこうとしていた。だんだんと夜が近くなり、夕飯の買い出しに訪れる人が多くなってきたようだ。ただでさえ混んでいた市場がさらに混み始めた。

 裾を掴むメルクの手が左右に振られているのが分かる。後ろを振り向くと、少し辛そうな表情をしたメルクが必死についてきていた。


「大丈夫?」

「うん、大丈夫……」


 先程もやった会話を繰り返す。

 しかしそれでも辛そうな彼女が心配で、エルスは早めにこの混雑を抜けようと思った。さすがに裾を掴んだままだとはぐれてしまうかもしれないと思い、後ろに手を回そうとする。

 彼女の手を掴もうとしたその時、泥棒! と言う声とともに近くを薄汚れた少年が走り去っていった。少年の体がメルクの手を取りかけたエルスの手に当たり、彼の手は弾き飛ばされた。その後に続いて数人の男が人を掻き分け走ってくる。


「わぁっ!」

「メルク!?」


 ぐっと後ろに引っ張られた感覚の後、メルクの手が上着から離れたのを感じた。慌てて後ろを見ると、人の波の中に小さな頭が飲み込まれていく様がちらりと見える。


「メルク!!」


 エルスは周りの人を押しのけて彼女を追った。微かにメルクがエルスを呼ぶ声が聞こえる。彼女の名を叫びながら、その声がだんだんと遠くなっていくのを、彼は絶望的な気持ちで聞いていた。

 やっとメルクを見失った辺りまで来ると、もう既にそこには彼女の姿は無かった。もう、彼女の声もどこからも聞こえない。頭から血の気が引いていくのが分かる。

 なぜ初めから手を繋いでおかなかったのか。――ひとえに、自分の照れ隠しのためだった。手を繋ぐのが恥ずかしかったから、気持ちがばれるのが怖かったから。

 ああ、僕のせいだ。僕のせいでメルクがいなくなった。

 震える手をじっと見下ろす。いったいどうすればいいのだろう――。とにかく、彼女を探さなければ。彼女なら人攫いにどこかへ連れて行かれてしまうという可能性は低いとは思うが、万が一ということもある。早く、早く探さなければ。


「おい、そこの坊主」

「……え」


 急に腕を軽く叩かれ、その方向を見る。そこにはいかにも下町の親父、という風情の男が立っていた。心配そうな顔でこちらを見ている。


「水色の髪した嬢ちゃん探してるんだろ? あっちの方へ行ったよ。早く行ってやんな。ガラの悪そうな男が譲ちゃんの腕引っ張ってたぞ」

「えっ……! 本当ですか!?」

「ああ。ほら、良いから行きな!」

「ありがとうございます!」


 エルスは男が指差した方向を目指して走りだした。


* * * * *


「離してよ!」

「そんなこと言われて離すバカがどこにいるんだよ。お前には立派な商品になってもらわないとだからな」


 ぐいぐいと手を引っ張られながら、メルクは必死に抵抗した。……振りをした。本気で抵抗している、と全く疑いもしていないだろう男は卑しげに笑う。メルクは心の中でほくそ笑んだ。

 何とか油断を生まなければ。今はまだ、その時ではない。何としてでもここから抜け出して、エルスの元へ戻らなければならないのだ。きっと彼もメルクのことを探して心配しているだろう。


「おう、良いモン捕まえてきたじゃねぇか」


 薄暗い裏路地に差し掛かったところで、急にかけられた声にメルクはばっと振り向いた。その振り向きざまの顔をがしりと何かに掴まれる。メルクは鈍い痛みに顔をしかめた。

 欠けた歯の隙間から放たれる生臭い息が頬を撫でる。


「ほぉー。中々上玉じゃねぇか。水色の髪なんて珍しいな。しかも顔も良い。こりゃ高値で売れるな」

「だろ?」


 メルクを連れてきた男は得意げな表情を浮かべる。

 そのタイミングで、メルクはここぞとばかりに怯えた表情を作ってみせた。


「怖いか? そうだよなァ、おめぇ、遠い異国に売られちまうんだもんな」


 にやりと笑う、歯欠け男。その右手の拘束がゆるむ。しかも、もともと連れてきた男はメルクの右手しか掴んでいなかった。その男はニヤニヤとこちらを眺めるばかりで、掴んだ手に気を配っている様子はない。

 今だ。

 メルクは自分のスカートの裾を左手で一瞬のうちに捲り上げた。


「へっ? ……ぎ、ぎゃあああああああああっ!」

「な、何だ!? どうした!?」


 スカートを捲り上げた一瞬。その一瞬の間に、メルクは太ももに巻きつけたベルトから小ぶりのナイフを左手で取り出して目の前の男に切りかかったのだった。飛び散る血飛沫。その赤色が自分の服にかかったのを、メルクは眉をひそめて見つめた。

 一方、切られた男は自らの手首を押さえて後ずさる。その手が小刻みに震えていた。

 ――なんだ、全然大したことないじゃん。警戒して損した。

 メルクは冷め切った瞳で男を見る。歯欠け男は大した傷でもないのにのた打ち回って苦しんでいた。


「おいっ! 何してんだてめぇ!!」


 メルクを連れてきた男はやっと状況を掴めたのか、数秒遅れて動き始めた。その腰は完全に引けている。彼女はナイフを右手に持ち替えた。逆手に持ったそのナイフについたばかりの血が、ぬるりと鈍く光を反射している。

 男から目を離さず、メルクは冷静に太ももに手を伸ばした。もう一本のナイフを左手の指の間に挟む。


「ひぃっ」


 完全に及び腰の男はずるずると後ろに下がった。

 その背が、路地の壁に当たる。


「私を狙ったことを後悔するのね」


 メルクは得意げに笑った。そして、その左手を振る。

 ヒュッと息を呑む音が彼女の耳に届いた。

 メルクの左手から放たれたナイフは、男の右耳すれすれの壁に突き刺さっていた。その刃がわずかに当たっているのか、男の耳からは血が流れている。ナイフ投げは得意なのだ。もちろん狙い通りのところにナイフは突き刺さった。耳を少し切って脅しをかけることも計算済みだ。

 男はへなへなと地面に座り込んだ。

 その時、メルクは完全に油断していた。後ろに気を配るのを忘れていたことに気づいた時にはもう遅かった。


「……この……クソガキがっ……」

「――えっ」


 メルクの足をがっしりと掴んでいたのは、先ほど手首を切られてのた打ち回っていた男だった。

 足首を掴まれた感覚の後、体のバランスを崩してメルクは倒れそうになる。何とか踏みとどまるが、さらに強く足首を引かれてついに後ろに倒れ込んだ。


「いたっ……」

「よっぽど痛い目に遭いたいみてぇだな?」


 倒れ込んだメルクを、歯欠け男が見下ろしていた。その目が据わっている。

 失敗した。メルクの頭の中にその言葉が響く。

 まだ血の流れる男の右手首は下に垂らされたままだったが、その血を止めようとしたらしい左手にも真っ赤な血がついていた。赤い手の平がこちらに迫ってくる。

 メルクは慌ててナイフを構えようとするが、その手をいつの間にか近付いてきていたもう一人の男に掴まれてしまった。

 ああ、ダメだ。もう相手の油断も誘えないだろう。

 なぜあの時後ろに気を払わなかったのか、と詰めが甘い自分を責めた。やはり実戦から離れて時間が経ってしまったからだろうか。

 そして、脳裏に浮かぶのは先程はぐれてしまった彼の優しい瞳。

 ――助けて、エルス……。

 メルクが諦めかけてぎゅっと目を閉じた時だった。


「君たち、頼むよ!」


 たった今思い浮かべた彼の声とともに、いくつもの猫の鳴き声が鼓膜に届く。いや、そんな、まさか。メルクは固く閉じていた瞼をそっと開けた。

 目を開けるとそこには、周りを猫に取り囲まれたエルスが立っていた。その表情はいつもと違って厳しいもので、額には玉のような汗がいくつも浮いている。

 ――ああ、来てくれた。こんなに必死になって。

 それだけのことがこんなにも嬉しいなんて。

 メルクが目を瞬いている間に何匹もの猫が男達に飛びかかっていき、その爪を立てた。悲鳴を上げる男達。

 猫が走り回る中をエルスがゆっくりとこちらに歩いてくる。いつもの笑顔が、その顔には無かった。

 エルスは特異な体質を持っている。何もしなくても生き物が傍に寄って来るのだ。それは動物に限らず、昆虫や魚などありとあらゆる生き物が対象だ。そして、寄ってきたその生き物たちと心を通わせることができる。その体質を使って、彼はこうしてここまで来てくれたのだろう。

 腕で顔を庇うようにして転がっている男達を見下ろす位置でエルスは立ち止まった。メルクからはその背中しか見えない。だが、静かな怒りだけはひしひしと伝わってきた。


「よくも、僕のメルクを攫おうとしてくれたね。もう痛い目には遭っているようだけど、ただで済むと思わないで」

「ひぃっ……、わ、悪かった、俺たちが悪かったよ! だからこの猫どもを……」


 エルスは制止するように手を前にかざして少しの間じっとしていた。すると、攻撃を続けていた猫たちの動きが止まる。

 こんな状況下だというのに、メルクは先ほどの『僕のメルク』という言葉に胸を躍らせていた。エルスがこんな言葉を口にすることは滅多にないからだ。

 期待するようにエルスを見上げる男達は、しかし、すぐに表情を凍らせることになった。


「そうだね。猫じゃなくて、今度は獰猛な野犬でも呼ぼうか。きっと喜んで君たちを噛み殺してくれるだろうね」

「……ッ!」


 エルスが絶対零度の声音で放った言葉に震え上がったらしい男達は、一目散に路地の奥のほうへ走り去っていった。

 ……今の言葉は、普段の穏やかなエルスを知っているメルクにとっても怖かった。

 ゆっくりと振り返るエルス。その瞳は罪悪感に苛まれていた。


「メルク、本当にごめん……僕のせいだ。怪我、してるのかい?」

「ううん、何ともないよ。私がちゃんとエルスに掴まってなかったからこんなことになっちゃったの。私の方こそ心配かけてごめんね」


 座り込んだままのメルクの様子をしゃがみこんで確かめるエルス。服に血が飛び散っていることを思い出したメルクは、困ったような表情を彼に向けた。あまりこれは見られたくなかった。

 自らのポケットからハンカチを取り出したエルスは、優しい手つきでそっとメルクの頬を拭った。段々とゆっくりになったその手の動きは、ついに止まる。深い青の瞳がメルクの瞳をじっと見つめていた。

 ふっ、と緊張の糸が切れたように、その瞳が細められる。まるで、泣き出してしまうかのように。


「メルク……っ」

「ひゃっ」


 一瞬、状況が理解できなかった。自分の顔の横に彼の緑色の髪が見えることに気付いて、やっと抱きしめられているのだと理解する。遅れること数秒、自分の頬が急速に熱を帯びたことにメルクは気付いた。


「……心配したよ。二度と僕の元に帰ってこなかったらどうしようかと思った」

「ごめんなさい……」

「謝ることないよ。僕が悪いんだから」


 彼の声は、余裕など感じさせない切実なもので。わずかに震えた声と吐息が、メルクの耳朶をくすぐっていった。

 しばらくメルクを固く抱きしめていたエルスは、ゆっくりと体を離し彼女の両肩に手を置いた。その顔にはもう、いつもどおりの穏やかな笑顔が浮かんでいる。


「じゃあ、帰ろうか。暗くなる前に」

「うん」


 メルクの返事を聞いた彼は、立ち上がると彼女に向かって右手を差し出した。メルクはその手に、自分の左手をそっと滑り込ませる。冷たい指先がきゅっと彼女の手を包み込んだ。

 そうして二人は歩き出す。

 暗くなり始めた空は、オレンジと紫が交じり合ったような不思議な色をしていた。

 こうやって手を繋ぎ並んで歩くのは初めてだった。繋いだ手はだんだんと熱を帯び、熱いと言ってもおかしくないくらいの温度になる。

 そっと隣を歩く彼の横顔を盗み見ると、夕陽のせいか赤くなっているように見えた。

視点移動があったので前の2編よりかなり長くなってしまいました。いつもこのくらいの長さで書けるといいのですが。(笑)

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