それでも隣に居られたら
「…………ただいま」
メイがぼそりと呟くと、玄関の闇がどろりと蠢いた気がした。身震いして、焦燥感に駆られながらガス灯のスイッチを壁伝いに探す。
パッとついたガス灯に照らされたのは、腕の部分に血のついた自分の服だった。目を落とすと、他にも胴体部分やスカートにも血はついている。
メイは重いため息をついて靴を脱ぎ、誰もいないリビングへと足を踏み入れた。
この家には、血の繋がりのない10人が暮らしている。壁にかけられた時計を見ると、もう夜も深まった時刻だった。流石にもうみんな寝ているのだろう。起こさないよう気配を殺して移動する。
カチコチという時計の音しかしない空間の冷たさが、体に染み込んでいく気がした。
今日はひどく疲れた。こんな汚れ仕事を任されたのは久々だった。――久々に、人が死ぬところを目の前で見た。
知らず、ため息がまた零れる。
自分で手を下したわけではない。止めを刺したのは仲間の一人だ。でも、あの人の最後の表情が網膜に張り付いて離れない。耳に纏わりついたまま残っているのは断末魔だ。名前以外何も知らない人だったけれど、それでもあの人は生きていたのに。まだ生きていたい、そう訴えかけるような瞳をしていた。
でも、仕事なんだ、仕方ない。
割り切れたらもっと楽になれるのは知っている。
シャワーを浴びなければ。穢れの付いたこの体を早く洗わないと。
メイは血の付いた服を早く脱ぎたくて、誰もいないからとリビングの床に脱ぎ捨てた。脱いでもまだ体に血がついているような気がして、執拗に腕を擦った。言いようのない焦燥感が体の内側から込み上げてきて、目頭が熱くなる。
ふと、気配を感じて顔を上げる。最初に目に入ったのは、鮮やかなオレンジだった。
目の前の階段には、燃えるようなオレンジ色の髪をした男が立っていた。ひどく慌てたような顔をした彼――アポロは、顔を真っ赤にして手をわたわたと振り回していた。
そしてメイは気づく。自分が今、ブラジャーとショーツだけを身に着けた格好でいるということに。
声にならない悲鳴を上げ、メイは無意識に彼の顔面に向かって拳を繰り出していた。きれいな右ストレートがアポロの頬に入り、彼は卒倒した。拳を受けるまでの一瞬に、諦めたような、悟ったような顔をしていたのをメイは目の端に捉えた。
彼が倒れたのをいいことに、メイはクローゼットからタオルを引っ張り出して体に巻き付けた。
さすがに心配になって倒れたアポロに近づくと、ぶつぶつと何やら呟いている。メイは何を言っているのか、と耳を近づけた。
「ピンクの……ブラ……」
メイはうつ伏せに倒れていたアポロの手を思い切り踏みつけた。
「うぎゃあっ!」
痛みに叫んだ彼を尻目に、メイは脱衣所に駆け込んだ。上下がちゃんと揃った下着を着ていたことが唯一の救いである。
涙はもう引っ込んでいた。その点だけは感謝をして浴室に入る。
浴室の鏡に映る自分の顔を眺める。シャワーを浴びる前の顔には、まだ血飛沫が飛び散っていた。短く切った青みがかった黒い髪と、冷たい光を湛えた青紫色の瞳。きっとこの血は見られてしまっただろう。彼に、この顔は見せたくなかった。
思い出すのは、さっき見た燃え上がるようなオレンジ色。アポロは性格も朗らかで、ここに住んでいる10人の中心的人物だ。汚れきった自分とは嫌になるほど対極の存在だ、とメイは思う。
シャワーで念入りに顔や体の汚れを落としていく。執拗と言ってもおかしくないほどに念入りに洗っていった。
タオルを首にかけて浴室から出ると、何やらいい香りがした。甘い匂いだ。
短い髪は乾かさずに着替えを身につけてリビングに出ると、匂いの正体はすぐに分かった。テーブルの上に湯気が立つココアが2つ置かれていたのだった。メイの近くに置かれているココアの他に、もう1つ。そばには、テーブルの上で腕を組み、その上に顎を乗せた男がメイのシャワーが終わるのを待っていた。そのオレンジ色が、メイには眩しい。
「飲みなよ、疲れてるだろ」
蕩けそうな笑顔で、彼は言う。眠いのか細めた目の奥で、紺色の瞳が優しい色を湛えていた。リビングの照明が瞳に当たって、まるで瞳の中に煌めく星がいくつもあるように見える。
「うん……。あ、ありがと……」
頬が上気するのを感じて、メイは俯いた。彼のこういう優しさに弱い自覚はある。さっき殴ってしまったことを思い出し、申し訳なさでお礼を言う声は小さくなった。下着姿を見られたことは許せないが。
「ココアを飲めば落ち着くから」
「何よ、あたしが落ち着いてないって言うの」
「そういう訳じゃないけど……」
優しさが嬉しいのに、恥ずかしくてツンとした態度を取ってしまう。それでもアポロは、少し困ったような顔をしながらもニコニコしていた。メイは、ココアの置いてあるアポロの正面の椅子に座った。
促されて一口ココアを啜ると、優しい甘さが口の中いっぱいにじんわりと広がった。飲む度に体の芯から温められていく。知らず、口元が綻んだ。
メイがココアをゆっくりと飲むのを見守っていたアポロも、ココアの入ったマグカップに手を伸ばした。
2人しかいないリビングに沈黙が落ちる。しかし不快な静けさではなかった。
ふと、メイは今日の仕事のことを思い出す。やはりそう簡単に頭から離れてくれることではなかったようだ。まだ温かいマグカップを両手で包むように持ち、しばらく呆然としていた。蘇る断末魔。死に際の顔。心が凍りつき始め、動きを止める。
そのせいで、自分の顔を心配そうに覗き込むアポロに気付くのにかなり遅れてしまった。
「何よ……」
たじろいだメイをよそに、アポロは徐ろに立ち上がった。そしてテーブルを回ってメイのそばにやってくる。
何事かと構えていると、頭に大きな手がぽん、と乗せられた。
「……暗部の仕事か?」
「…………そうよ」
そっか、という言葉とともに頭に乗った手が、メイの髪を躊躇うようにゆっくりと梳く。嫌な気は全くせず、むしろ心地よい。メイは頭を髪を梳く手に身を任せ、ゆったりと瞳を閉じた。メイが身を任せたのを察したように、初めはぎこちなかった手の動きが滑らかになった。
「嫌な仕事を、してきたんだな」
「……うん」
声音まで優しい彼に、どこまでも甘えている。じわりと涙が滲んできた気がしたが、悟られないように目を瞑ったままでいた。弱っているときに人に優しくされると泣いてしまう。こんな弱い自分が嫌になる。
髪を梳く手はゆったりと動き続けている。
「なぁ、メイ」
「何?」
「辛いときはさ……」
そう言って口ごもったアポロの顔を見ようと、メイはゆっくりと目を開けた。涙は少し引っ込んで、もう表面に薄い膜を張る程度になっていたから零れはしなかった。
見上げる男の顔は、照れたように横を向いている。その頬はほんのりと赤い。
「辛いときは……俺を頼れよ。他の奴じゃなくて……俺をさ」
メイはその言葉を聞いてぽかんと口を開けた。そんなことを言われるなんて思っていなかった。そして、頬が一気に火照る。
それって――つまり。
彼を特別扱いしても、良いということだろうか。ほかの誰でもなく、彼を。
でも、自分にそんな価値はあるだろうか。こんなにも汚れ切った私は、太陽のような彼の心におこがましくも近づくだけの資格はあるのだろうか。
「……あんたみたいな、ヘタレを頼るなんて無理よ」
逡巡して出た言葉は辛辣なものだった。言ってすぐに後悔する。
傷つけてしまっただろうか。そう思って傍に立つ彼の顔を伺うように見上げると、困ったように笑う紺の瞳がメイを見つめていた。
「そっか……俺じゃ頼りないか」
寂しそうに言って、アポロの手は頭から離れた。当然とはいえ少し残念で、メイがアポロの顔を見上げると、頭を離れた手がむぎゅっとメイの頬を挟んだ。彼の顔は、少し拗ねたように唇がとがっている。
「そんな顔するなよ。俺が頼りないならなんでそんな顔するの?」
「そんな顔って……どんな顔よ」
ぷい、とそっぽを向こうとしたが、頬を挟む手がそれを許さない。結果、メイは視線だけを彼から逸らした。自分がどんな表情をしていたかなんて大体想像が付くが、彼にばれているなんて恥ずかしすぎて考えたくもなかった。
「寂しそうな顔してた。……もしかして俺の勘違いかな。それだったらごめん……」
と言って、彼は頬を挟んでいた手をそっと外してしまった。頬に残る彼の手の温もりが急速に失われていく。アポロの指先が遠ざかっていくのを見ながら、やっぱり離れてしまうのは寂しいとメイは思った。
だけど、それを悟られないように平静なふりをした。今更素直になるなんてメイには無理だった。
――私の本当の気持ちなんて知らないくせに。そうやってすぐ自信を無くして離れていったりするからあんたはヘタレなのよ。
完全に責任転嫁だと分かっていたが、本当はもっと触っていて欲しかったなんて言えない自分がもどかしくて俯いてしまう。しかし、はっと気づいて顔を上げる。これではさっき平静なふりをしたのが台無しだ。
「そうよ、勘違いなんだから……」
彼は寂しそうに笑うことをやめなかった。そしてメイの隣の席に、向かい合うように座る。
「そうか。でも、お前が何か深く考えて頼らないって言うなら、考えすぎるなよって俺は言いたいよ。だってお前、誰も頼らないだろ」
「っ……」
言葉に詰まった。実際、自分が暗部の仕事をしているからと人から距離を置いて接していることは事実なのだ。当然誰かを頼ることなんてほとんどない。
「……気にしてるのは、仕事のことか?」
驚いて彼の顔を見つめてしまう。この男はヘタレなのにこういうところは察しが良くて嫌だ。
アポロは苦笑いした。
「当たり、かな。お前のことだから、誰かを頼ると弱くなるからとか考えてそうだな」
「……だったら、何なのよ」
次々に当てられるとなんだか悔しくなってしまう。今の自分の顔はさぞかし苦々しげな表情をしているのだろうなとメイは思った。
「そんな睨むなよ。別にさ、弱くなるだけじゃないと思うんだよね、俺は。自分一人だけじゃお前の心は守れないと思うよ。特に、そういう仕事をしてるとさ」
「……」
反論できずに黙ってしまったメイの手を、アポロはおずおずと取った。確かな温度がアポロの手から伝わってくる。心の中がじんわりと温まるような安心感を覚えた。
「だから頼れって言うの」
「うん、……そう。ダメかな」
「……そんなに頼ってほしいなら、そのヘタレ直しなさいよ」
「うーん、努力するよ」
アポロはそう言って苦笑いしながら頭をポリポリと掻いた。
そういうところよ、という言葉は飲み込んだ。今は彼の言葉が嬉しいから。だから黙っていてあげる。
メイは小さく笑って、繋いでいた手に力を込めた。