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シュレディンガーの鶴

作者: 魚彦

 その頃その村には一人の気狂いがいた。気狂いになる前はただの、少しばかり頭の鈍い男であった。銭の勘定が苦手であった。虫や鳥を愛し、子どものように戯れていながら、人の子を恐れ、近寄ろうともしなかった。よって彼は山に入って薪を集め、その合間に頼まれ事を引き受け、その報いとして銭ではなく食糧などを受け取って生活していた。

 そんな男が気狂いとなった。男の家は掘っ立て小屋に近しく二間しかないのだが、その襖で区切られた奥の部屋を鎖しきっているのだ。そしてその前を離れず、近づく者があれば血走った目で、噛みつかんばかりに追いのける。哀れみから食べるものを届けようとした者にさえそうなのであるから、近づく者も絶え、飢えて死ぬのも時間の問題だろうと里の者は皆感じていた。気狂いとなったその男の為にも、その時が早く来ることを、少なからぬ者が願っていた―


 その男、角二が気狂いとなった事の始め、それはいつもと変わらぬ、深々と、雪の真白に全ての光が吸い込まれる冬の山で起こった。

 角二はその時、里を訪れた旅の僧を、山一つ越えた先にある寺まで送り届けた帰りであった。僧からの謝礼はみそっかすのようなものだったが、角二は尊いお坊様のお役に立てたことで充分に満足していた。浮き足立っていた、と言っても良いほどだった。

 峠を越え、里にも近づいた頃合いに、何も動くもののない筈の、何の変化も起きない筈の雪の白が、不意に揺らめいた。雪折れか、いや、上から降った気配は無かった。下から何か、盛り上がったように見えた。何だろうか。そっと近づきながら目を凝らす。また、やはり、動いた。何だ。もう一歩近づく。その一歩に反応したかのように、一際大きく、美しくもか弱い、白い翼が雪を打った。

「こらぁ、えらい可哀想な・・・。」

罠にかかって幾刻経ったのだろう、捕らえられ、もがいた跡が雪に残っている。雪にまみれた羽は重たげに濡れ、目の光りは蛍火のように絶え絶えである。

 角二は、先も述べた通り、自分の成した善行に喜んでいた。更には、自分はもっともっと善いことをしなくてはならないと考えていた。そうでなくても少し頭の鈍い男であり、人よりも鳥獣に親しむ男であったから、鶴を助けてやらねば、という一念に突き動かされ、罠を仕掛けた狩人の損失やら迷惑やら、後先を考える余裕は持ち合わせていなかった。

「可哀想に、折角きれいな羽がなぁ。」

角二は鶴を驚かさぬよう、そろそろと近づき、身を屈めた。そして抱きかかえるようにして鶴の体を抑えると、いきなり罠を外すのではなく優しく羽を撫でつけてやった。

「痛いなぁ。寒いなぁ。」

 鶴は最初のうちこそ、弱々しい抵抗を見せていたが、やがて安らかな死を願うかのように目を閉じ、大人しくなった。

 角二は鶴を抱えたまま、肘から先だけを伸ばして罠を外しにかかった。激しく暴れ、のたうったのだろう、か細い足に罠は深々と食い込み、かじかんだ指では中々外すことができなかった。

 鶴の微かな体温で指をほぐし、ようやく罠を外した時には、角二は鶴の羽まみれになり、肩にはうっすらと雪が積もり始めていた。

「よし、もう大丈夫じゃ。」

角二がそう言って鶴の頭を撫でると、鶴はうっすらと目を開いた。そっと抱え下ろしてやると、鶴は首をもたげて角二を見上げ、そして恐る恐る羽を広げた。何度かばさばさと雪を叩いた後、よろめく足で何とか立ち上がり。大きく羽を広げたかと思うと危なっかしくもあっという間に飛び上がり、白い茂みの中へと消えていった。

「良かったのう。ああ、ええことをした。」

角二はそう呟き、腰を伸ばして雪と羽で真っ白になった自分の体をはたいた。

「にしても、きれいな鶴やった。大人しゅうて、可愛うて。」

随分長い間、角二はそこで鶴の飛び去っていった先を名残惜しげに見つめていた。僅かの間抱いていたに過ぎない一羽の鶴が、なんだか自分の一部であったかのような寂しさを覚えながら、それを埋めるかのように良かった、良かったと呟き続けていた。

 鶴を助けたその日のうちに、角二の元に罠を仕掛けた猟師が尋ねてきた。その日山に入った者はごく僅かであり、罠を壊した犯人と疑っていた訳ではないが、何か知らないかと思ってのことであった。

 初めのうちこそ突然の来客に驚いていた角二であったが、事情を呑み込むと謝罪するどころか罠から放した鶴の美しさを滔々と語り出したものだから、

「このド阿呆が!お前が逃がしたその鶴は、俺の獲物だ!稼ぎだ!そんなに美しいんだったら、肉だけじゃねえ、羽も売れた!この盗人が!ただでさえ厳しいんだ、この冬は!」

と大いに怒鳴られ、殴られた。角二は体を丸めてうずくまり、それに耐えた。猟師がなお何事かを怒鳴り散らしながら出て行っても、しばらくうずくまっていたが、おずおずと手足を伸ばし始めたころにはもはや、何故怒鳴られたかも忘れ、ただ目を閉じて鶴の美しさを思いやり、自分の成したことに何の疑いも罪悪感も抱いていなかった。

 

 鶴を助けて幾日か経ったある夜、角二の家の戸をこつこつと叩く音がした。雪か風の打ち付ける音かと思ったが、どうもそうではないらしい。こんな夜に、一体誰が、と思いながら戸を開けると、ほっそりとした人影が雪になぶられながら、今にも雪の柱になりそうな様子でじっと突っ立っていた。

「こりゃ大変じゃ。早う内にお入りなさい。今、すぐに火を熾しますんで。」

 角二はその客の腕を掴んで引き入れると、戸をぴったりと閉め、ちろちろとくすぶっていた囲炉裏の火をかき立てた。

 大きくなった火に照らされてようやく、角二は客の顔をまともに見ることができた。雪に濡れた髪は黒々と美しく、ほっそりとした肩に流れ落ちる。肌は林檎の果肉のように瑞々しく、頬の赤みが匂いやかに美しい。

「「あのう・・・」」

 問いかける声が重なった。

「あぁ、すみません。どうぞ、何でしょう。」

角二が両の掌を差し向けるようにして話を促すと、初めてまともに目が合った。瞳は丸く黒目がちで、炎を映して細かに揺らめいている。

―えらい美しい女の人やの、里の誰それの娘が別嬪やとか聞くが、この人と比べるとただの雪だるまじゃ。

「・・・雪が強うなって難儀しております。一晩、泊めては頂けませぬでしょうか?」

 女の声は、初雪のように清らかで、さらさらと耳に心地良かった。

「そらぁもちろん、構いませんが、見ての通り狭い家やし、どこか他所へかけあってみましょうか?」

角二の提案に、女はやや目を見開いて首を横に振った。

「いえ、ここで良いのです。お願いです。ここに泊まらせてください。」

思いがけず強い口調に驚くが、角二は女を泊めることにした。

 あるだけの布団を全部出すと、そのほとんどを女の寝床にした。固辞する女を無理矢理寝かせると、女は疲労が溜まっていたのかすぐに寝入ってしまった。そういえば、足を重たげに引きずっていた。

―どこから来たのだろう、こんな雪の夜を、気の毒な。

 角二は囲炉裏に近づいて座り込むと、薄布団を一枚羽織り、とろとろと火の番を務めた。

 

 翌朝目が覚めると、角二は女の為に用意した布団にくるまれていた。身を起こすと、囲炉裏で鍋は湯気を立てている。昨夜の女はどこに行ったのか、立ち上がって探そうとしたところで戸がからりと開き、女が姿を見せた。手には井戸で水を汲んできたのであろう、手桶を提げている。

「あ・・・おはようございます。勝手に朝の支度、させて頂きました。申し訳ありません。」

「いや、むしろありがたいというか、そんな、構わんのに・・・ああ、失礼。おはようございます。」

女がちらと笑みを見せた。あぁ、美しい、と角二はつい見とれてしまう。

 その後は女に勧められるまま、できあがった粥をすすった。女は無口であったが、角二が旨い、旨いと喜ぶ度に女もまた、雪解けに咲く花のような笑みを見せるのであった。

 角二が粥を食べ終え、自分も少しばかり口にすると、女は椀を置いて姿勢を正した。

「あの、図々しいお願いとは分かっておりますが・・・その、もうしばらく、私をここに置いて下さりませんか?ちょっとしたお手伝いしかできませんが・・・。」

「ええよ。」

「えっ。」

角二の頭には、なぜ、もどうして、も浮かばなかった。ただ、この美しい人が少しでも長く滞在してくれると嬉しく思う、それだけであった。

「・・・では、どうぞよろしくお願い申し上げます。」

何かしら言い訳を考えていたのか、女は拍子抜けした様子で頭を下げた。

「つうと申します。ここにいる間は、あなた様の為だけに働かせて頂きます。」

「そんなかしこまらんでくれ・・・わしは、角二や。つうさん、よろしゅうな。」

角二の元に若く美しい女人が現れたという噂は、瞬く間に里中に広まった。里人達が入れ替わり立ち替わり、つうの姿を一目みようと現れたが、つうは角二以外の人間をひどく恐れ、殆ど家に引きこもってしまっていた。

 ある夜、角二が草鞋を編んでいると、それをしげしげと眺めていたつうは突然、背筋をすぅっと伸ばした。

「角二様・・・この家に、機織り機はありますでしょうか?」

角二は手を止めると、

「無いが、何や、欲しいのか?」

「はい。このままでは私、引きこもって角二様に養うてもろうてばかりです。何かお返しをしとうございます。」

「別にそんなん・・・」

「お願い致します。」

頭を下げるつうのつむじを見つめながら、角二はしばらく考えた。つうは外にこそ出ないが、炊事や掃除など家の中のことは甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。それで充分である。しかし、つうが何を欲しい、と口に出したのはこれが初めてであり、頼られたことが嬉しくもあった。

「よし、機織りじゃな。任しとけ。」

つうは顔を上げ、心底嬉しそうな笑みを見せた。

 この笑みが見られるのならば、何だってしよう。角二は、つうが怪訝な顔で首を傾げるまで、つくづくとつうの美しく整った顔を見つめた。つうの望むことは何だってかなえてやろう。なんでもつうの言う通りにしてやろう。つうのためなら。

 翌日、角二は家々をまわって機織り機を譲ってもらえぬかと頭を下げた。しかし機織り機は大切な生計の道具であり、また持ち主それぞれの愛着がある品でもあった。中々譲り手は現れなかった。ようやく、ある老婆が譲ってやってもいい、と話に乗った。

「ただし、できた布の儲けの、半分は私のものだ。いいね?」

角二はやっとのことで機織り機が手に入るその一点に喜び、ろくに考えもせずにその条件を呑んだ。老婆の息子に手伝ってもらって運びこんだその機織り機は、古ぼけて埃を被っていた。角二とつうは一生懸命汚れを拭い、よく仕組みが分からないまま修繕を試みた。

「これでええか、つう。」

「はい、後は・・・糸ですね。」

「糸かぁ。」

糸とは幾らぐらいするものなのだろう。どれぐらい必要なのだろう。角二にはよく分からなかったが、

「任しとけ。用意してやる。」

と胸を張った。

 喜ぶかと思ったつうは少し苦しげな顔になり、

「何から何まで、申し訳ありません。後は、本当に、糸さえあれば・・・」

「何や、任しとけ。」

角二はすぐさま家を飛び出すと、また家々をまわって糸を求めた。今度は機織り機の時より簡単に集まったが、些か懷が淋しくなった。

「つう、つう。これでええか。」

つうは角二が差し出した糸を受け取るとじぃっと見つめ、

「・・・本当に、何から何までありがとうございます。ご迷惑をおかけしました。でも、これで、やっと・・・。」

と呟いて糸を胸に抱いた。そして背筋をすぅっと伸ばすと、

「角二様。これが最後のお願いです。奥の間を、機織りの為にお貸しください。そして、私が機を織っている間・・・決して、覗かないで下さい。」

「見たら、あかんのか。」

角二は、つうの顔を見るのが好きだった。つうの喜ぶ顔が見たくてあちこち奔走し、骨を折ったというのに、見てはならぬとは。今も、つうの顔に浮かぶのは笑みではなかった。きゅっと口を引き結び、思い詰めたかのような目をしている。それはそれで美しかったが、角二は少し寂しかった。

 角二の悲しげな、情けない顔を見て、つうはようやく、ちらっと微笑んだ。そして、

「そんなお顔、なさらないでください。ずっとお側に、奥の間におりますから。」

と優しい声で角二を慰めた。しかし、

「・・・飯の時には出てきてくれや。一緒に食うてくれや・・・」

とすがる角二の声には、答えようとしなかった。

 そして、つうは奥の間に閉じこもり、機織りを始めた。

 角二は奥の間を閉ざす襖の前で待ち、食事の用意をして待ち、襖をじっとみつめて待っていたが、つうは機織りを止めようとしなかった。

 角二は襖に軽くもたれ、膝を抱えて座り込んだ。しばらく、奥の間からは何の音もしなかった。つうは本当にそこにいるのか。いや、微かに物音がする。なんだろう。気になる。開けたい。覗きたい。いや、駄目だ。約束したばかりではないか。つうとの約束を、破る訳にはいかないのだ。

 耳を澄ませていると、やがて奥の間から、こん、こんと規則正しい音が聞こえてきた。じっとしていると、聞こえてくるのは、自分の心の臓の脈打つ音と、機織りの音だけとなった。目を閉じると、機織りに向かうつうの後ろ姿が頭に浮かんだ。こん、こん、と響く音は、機織りの音でもあり、つうの心の臓の音でもあった。その音は、角二のそれよりも早く時を刻み、角二を置いてけぼりにするのであった。

 

つうが奥の間に引きこもって幾日経ったであろうか。角二は一日の殆どを襖の前で過ごすようになっていた。しかし、決して覗きはしなかったし、声を掛けることすらしなかった。約束とは、決して破ってはいけないものだ。声を掛けるぐらいなら大丈夫だろうか。いや、つうの声を聞いたら、自分はきっと耐えきれずこの襖を開いてしまう。そして何より、つうの邪魔をしてはいけない。自分がつうを困らせるようなことがあってはならないのだ。

 そうして膝を抱えたまま寝入ってしまい、目を覚ますと、いつの間にか体を横たえ、布団を掛けられていた。そして、囲炉裏端には、眩しいぐらいに美しいつうの姿があった。

「つう・・・つう!」

「・・・はい。」

呆としていたのか、一拍遅れて答えたつうはゆっくり微笑むと、

「ご飯の支度、できてますよ。でも、その前におひげを剃ってらっしゃい。ひどいお顔ですよ。」

と角二に優しい眼差しを向けた。

 ちょっと離れている間につうがまた閉じこもるのでは、という嫌な予感がしたが、角二は大人しく外に出ると井戸端で顔を洗い、ひげを剃った。家に戻ると、つうはちゃんと、そこにいた。無意識のうちにほっと一息吐くと、つうは角二の胸の内を見透かしたかのように笑った。

「ご安心なさってください。つうはどこにも行きません。ずっとここにおりますよ。さあ、ご飯にしましょう。」

久しぶりのつうの粥は、薄めで、するすると喉を通った。角二は何杯もおかわりし、膨れた腹をさすって寝転がった。つうの顔を見上げる。目が合って、笑ってくれる。ああ、幸せや。そう思ったところでつうが背筋を伸ばし、立ち上がると奥の間に入った。焦って引き留めようとしたがつうはすぐに戻ってきた。そして、その手には美しい反物があった。雲よりも雪よりも、花よりも白く、絹よりも滑らかで淡い光沢を湛えている。真白でありながら、見る角度によって表情を変え、まるで命を宿しているかのようであった。

「どうしたんや、これ・・・」

つうはきょとんと目を丸め、今までになく朗らかな声で笑った。

「どうしても何も。私が織ったのです。ずっと、待っていらっしゃったではありませんか。角二様、どうぞ。これを売って、生活の足しにしてください。」

角二はつうから反物を受け取った。目に見たよりも軽く、手触りも心地良い。

「何や、売ってしまうんが惜しいのう・・・折角やから、お前が着たらええのに。」

そう言ってつうの肩にかけようとすると、つうは身を退いて避け、一瞬、悲しげな顔になった。

「そのようなこと、仰らないでください。さあ、どうぞ、売ってきてくださいませ。」

つうは手際よく角二の身支度を調え、角二を送り出した。追い出されたような気がして角二はとぼとぼと市へ向かう雪道を歩いたが、山を下ってしまい、近場の市に着くとその賑わいに気を取り直した。

「よし、早う売ってしまって、つうに土産を買うてやろう。ほんで、早う帰ろう。」

角二は市を歩きまわり、反物を扱っているらしい店の軒先に飛び込むと店主が何か言うよりも先に荷を開いてつうの反物を取り出した。褪せた色の反物の山の中、角二の手にしたそれだけが朝日が差したかのように眩しく、清らかな光で満ちあふれていた。

 店主はその光に打ちのめされ、、しばらく声が出なかった。恐る恐る手を伸ばすと、相手の男はあっさりと、その美しい反物を手渡してきた。

 見れば見るほど、美しい宝であた。自分の店にはふさわしくない、もっと大きく格式ある、都会の店で扱われるべき品である。だが、欲しい。幾らでなら売ってくれるか。そう尋ねようとした矢先、

「幾らで買うてくれるかなぁ。」と間抜けな声で男が尋ねてきた。

 店主は逸る気持ちを抑えた。改めて反物に目を落とすと、最もらしい手つきであれこれ眺めまわし、ふむ、と唸ってみせた。

「こんぐらいやな。」

男に支払った代金は、並の反物としては妥当な額だった。いや、むしろ弾んでやったぐらいだ。

 店主はこの後、つうの織った反物を角二から買った十倍の値で、信頼できる大商人に売った。大商人は更に五倍の値で武家に売った。武家はそれを、年頃の姫君のいる貴族に献上し、それが出世の決め手となった。つうの反物は、仕立てられ、姫君を美しく着飾った。その姿は大層評判になり、羨望の的となった。

 そんなことになるともつゆ知らず、角二はろくに受けとった銭を数えることなく喜んで去って行った。まず、つうの言いつけ通り、銭を半分に分けた。機織りを譲ってくれた、老婆の分け前だ。それに手をつけてしまうことの無いよう、大切にしまうと、残り半分で旨そうなもの、きれいなもの―つうが喜んでくれるかと、様々な土産を買い求めた。それでも銭は残った。角二はこれほどの大金を手にしたことが無かった。喜び勇んで雪道を駆け、何度も転びながら帰宅すると、

「つう、戻ったぞ!」

と叫んで手土産を広げてみせた。これは何、これは、とはしゃぐ角二をよそに、つうは

「いかほどで売れましたでしょうか?」

と静かな声で問うた。角二が手元に残った銭を差し出すと、

「そうですか。」

と呟いた。そして、背筋を伸ばすと

「角二様。また、糸を買って頂きとうございます。」

と言って銭を突き返した。  

角二は、

「こんだけ稼いだんじゃ、しばらくのんびりしておれば・・・」

と渋ったが、つうは

「いえ、足りぬのです。これぐらいでは。全然・・・」

と言って俯き、それきり黙り込んでしまった。

 角二は不承不承。銭を手に糸を買って戻ると、糸を受け取ったつうはそのまま奥に引きこもってしまった。

 角二はまた、襖を背にかがみ込んだ。こん、こんと音が響く。囲炉裏端にはまだ、つうへの手土産が転がったままである。

「寂しいのう・・・寂しいぞ。」

半ば独り言であったが、返事が欲しかった。しかし、相も変わらずこん、こんというおとが規則正しく響くばかりであった。

 また、膝を抱えてつうを待つ日々が始まった。つうが機を織る音は絶えることがなく、角二はまどろみの中でもその音を聞いた。眠ることなく機を織り続けるつうのことを想うと、眠りたくなかった。それでも時折寝入ってしまい、夢うつつの狭間があやふやになったころ、は、と目を覚ますと横でつうが倒れていた。慌てて揺り動かすと、うっすらと目を開き、

「あぁ・・・すみませんでした、ご心配を、おかけして・・・」

と呟いてまた目を閉じ、すうすうと寝息を立て始めた。

 角二はつうを起こさぬよう、そっと寝床に移してやると、粥の用意をした。ふと振り返ると、奥の間への襖が少し開いていた。角二はできるだけ中を見ないように近づくと、ぴったりと襖を閉めきった。つうと約束した以上、つうが機を織っていなくても、中を覗いてはいけない。そう思ったのだった。

 やがて目を覚ましたつうは恥ずかしそうに起き上がり、髪を撫でつけるとふらつきながら奥の間に入り、角二に反物を差し出した。

「・・・嫌じゃ。」

「何がです?」

つうが首を傾げる。その顔は、以前より細く、青ざめていたが、角二はその顔を見ようともせず、そっぽを向いた。

「嫌なもんは、嫌じゃ。」

けれども、つうの頼みを断れないのが角二であった。つうの反物は前と同じ値で買われていき、市を賑わし、角二はそこそこの銭を手に、何の土産も持たず真っ直ぐ帰った。

「つう、ほれ、こんなに銭をもろうてきたぞ。」

角二は懷から銭の入った袋を差し出した。つうは角二を出迎えたが、その中身もろくに見ないまま、再び奥の間に入ろうとした。

「つう、もうええじゃろ。充分じゃろう?なあ?」

角二の制止も聞き入れず。つうは後ろ手に襖を閉めきった。

「・・・つう!」

「角二様。これで最後に致します。もうそんなに糸もありませんし、すぐに終わります。ですので、もう一度だけ、機を織らせて下さい。」

「嫌じゃあ・・・。」

「本当に、最後ですから。ほんの少し、待っていてくださいませ。」

その言葉を最後に、襖を閉ざした向こう側からは、こん、こんという音しか聞こえなくなった。角二は、襖に耳を押し当て、目を閉じた。

 こん、こん、という音の他にも、聞こえてくる音があった。シャっと鋭い、風を切るような音。ぎぃっぎいっときしむような音。ぎいっ、しゃっ、こん、こん。時折、ぷつん、と何かがちぎれるような音、ばさっと床に何か擦れるような音も混じる。そして、幻聴かと思う程、かすかなつうの息づかい。

 腹が蹴った。でも、飯を食うならつうと一緒でなければ嫌だ。一人で食う訳にはいかない。それにしても、自分の音がうるさい。腹の音も、呼吸する音も、心の臓が脈打つ音も。静かにせえ。つうの音を聞く、邪魔をするな。

 意志に反してまどろみ、あるいは空腹から気が遠のいたりすると、つうの音が弱く、途絶えがちになる。それが嫌で無理矢理目をこじ開け、つうの音を求めて強く襖に耳を押し当てた。何度もそれを繰り返すうち、夢から醒めてもいくら耳を澄ませても、つうの音が弱く。絶え絶えなままであることに角二は気付いた。

「つう・・・?つう!」

角二が叫ぶと、答えるかのように小さく、こん、と音が聞こえた。

「つう、大丈夫か、つう!」

襖に手を掛けると、思いがけず鋭い声で

「開けないで下さい!」

とつうが叫んだ。

「嗚呼、申し訳ございません。角二様。もう少し、あと本当にもう少しで織り上がるのに、私・・・。」

「そんなんどうでもええ。つう、今すぐ出てきてくれ。姿を見せてくれ・・・。」

「・・・出来ません。私、もう、戻れません。」

「どうしてや。何でや、つう。」

しばらく、何の音も返事もなかった。やがて、ぺたり、とつうが身を横たえる音がした。

「角二様、私のお話、聞いて下さい。聞いたら、どうか、聞いた端から忘れて下さいね・・・。私、つうじゃないんです。つうなんて名のある、人ではないのです。鶴なんです。角二様、覚えてらっしゃいます?あの日、罠にかかった私を、助けて下さって・・・本当に、ありがとうございました。でも、あなた・・・私を助けたせいで、ひどい目に遭いましたでしょう?私のせいで・・・だから私、私のせいで怪我をさせてしまった償いと、命を助けて下さった、ご恩を返さなくてはならないんです。あなたに。でも私、考え無しにあなたの元まで押しかけてしまって・・・却ってご迷惑をかけてしまいました。それで、考えたんです。私にできる、精一杯の恩返しを・・・。」

つうの掠れがちの声に、ぺた、ぺたと力無い音が混じる。

「私、今、人の姿じゃないんです。先程申し上げた通り、鶴なんです。あなた、あの時褒めてくださいましたよね?きれいな羽だって・・・でも・・・ですから、今の私の姿、ご覧にならないでくださいね。少し、みっともないことになっておりますので・・・。」

「つう、もうええ、喋るな・・・頼む、ここを開けさせてくれ。どんな姿でもええ。会いたいんじゃ・・・。」

ふっと、襖の向こうでつうが笑った気がした。

「ごめんなさい。できません・・・私、馬鹿ですよね・・・知ってた筈なんです。今も、分かっているんです。あなたの優しさを。私がどんな姿でも、きっとあなたは受け入れてくれる・・・でも、できないんです。私が、嫌なんです。馬鹿なんです。あなたに、今の私の姿、見られたくないんです。あなたが覚えている、私の最後の姿が、こんな、みっともないものなんて・・・」

「つう、つう・・・すまん、わしは阿呆なんや。つうが何を言いよるんか、全然分からんのや。何でお前が鶴やからって、お前を見たらあかんのや。お前を・・・助けたいんや。わしは、ただ・・・・つうがおってくれたらそれだけでええんじゃ。それだけでええのに、何で・・・。」

「ふ、ふふふ・・・私、本当に、馬鹿ですよね・・・ずっと、あなたはそう仰っていらしたのに。あなたの仰る通りにすれば良かったのに。ごめんなさい。恩返しも何も、全部私の我が侭なんです。私が、馬鹿なんです・・・」

「我が侭でも何でもええ、つうの言うことなら何でも聞く、だから・・・。」

「・・・でしたら一つ、私のお願いを聞いて下さいます?」

「当たり前じゃ・・・。」

「絶対に、この襖を開けないと、約束して下さい。この先、ずっと・・・ねぇ、あなた。最後に、こうして沢山お話できて。嬉しかったです・・・嗚呼、もっと、早くに、こうして・・・。」

ぱさり、と何かが落ちる音がした。そしてそれきり、襖の向こうからは何の音も聞こえなくなった。

角二は最初のうちこそ、襖を打ち殴り、泣き、わめき、何度もつうの名を叫んでいた。しかし、決して襖を開けるようなことはしなかった。

 騒ぎを聞きつけた隣人達が顔を出すと、買う字は血相を変えその前に立ちはだかり、襖背中に守るようにして追い払った。皆を追い出して静まりきった家の中で、角二は以前のように襖にもたれるかのようにして座り込み、時折何か話しかけるかのように、ぶつぶつと呟くのであった。

 

 絶対に、この襖を開きはしない。なぜなら、そう約束したからだ。それに・・・襖を開けない限り、分からないではないか。この襖の奥に、なにがあるのかなど。そうだ、まだ、決まり切った訳ではないのだ。つうが・・・死んだなどと。生きているかもしれないのだ。まだ、この襖を開けてみない限りは・・・。

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